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第十回 高順幽州收遺將 呂奉先轅門射戟 四段

淮陰で紀霊と対峙していた劉備は、張飛から徐州を失った報せを聞き、深く嘆息した。しかし、いつまでも嘆いてはいられない。紀霊の軍は健在であり、このままでは挟み撃ちにされる恐れがあった。劉備は軍議を開き、関羽と張飛、そして糜竺と孫乾を集めて今後の方針を話し合った。


「兄者、このまま紀霊と戦い続ければ、いずれ兵糧が尽きます。かといって徐州に帰ることもできぬ。いっそ、この地で紀霊と決戦し、雌雄を決しようではありませんか」


関羽が言った。しかし劉備は首を横に振った。


「決戦は危険だ。紀霊の兵は六万、我々は三万に満たぬ。しかも徐州を失ったことで、兵の士気も低下している。ここは一度退き、体勢を立て直すべきだ」


「しかし兄者、どこへ退くというのです。徐州は呂布に奪われ、南には袁術がいる。逃げ場などありませぬ」


張飛が声を詰まらせて言った。彼は徐州を失った自責の念に苛まれ、普段の豪胆さが影を潜めている。劉備はしばらく考え込んだ後、静かに言った。


「呂布のもとへ行こう」


「何ですと!」


張飛が驚いて立ち上がった。


「兄者、呂布は我らを裏切った男ですぞ! その男のもとに降るなど、あまりに屈辱的ではありませんか!」


「翼徳、屈辱を選ぶか、滅びを選ぶかだ。今の我らには兵力もなく、城もなく、妻子さえも敵の手中にある。呂布に降れば、少なくとも妻子は助かる。それに呂布は袁術を警戒している。我らを滅ぼせば、次は自分が袁術に攻められることを恐れるだろう。我らは呂布にとって、袁術に対する防壁として利用価値がある。その価値がある限り、呂布は我らを殺さない」


関羽は黙って劉備の言葉を聞いていたが、やがて静かに頷いた。


「兄者の仰る通りです。今は耐える時。いつか必ず、この屈辱を晴らす日が来るでしょう」


こうして劉備は紀霊の軍と対峙したまま、密かに呂布に降伏の使者を送った。呂布はこの申し出を喜んで受け入れた。彼にとっても、袁術との緩衝地帯として劉備を生かしておくことは利益があったからである。呂布はただちに軍を動かし、小沛に劉備を迎え入れた。かつて劉備が呂布に与えたその地に、今度は劉備が身を寄せることになったのである。


呂布は劉備を豫州刺史に任じ、自らは徐州刺史を名乗った。さらに劉備の妻子を丁重に保護し、小沛に送り届けた。この措置に、劉備は心から感謝した。妻子を人質に取られることを覚悟していた劉備にとって、これは予想外の厚遇だったのである。


その後、袁術は六月に陳宮らと共謀して呂布軍を転覆させようとした。陳宮はもともと呂布の軍師でありながら、この頃から呂布の剛愎な性格に愛想を尽かし始めていた。しかし呂布がすんでのところでこの陰謀を察知し、未然に防いだため、陳宮の計画は失敗に終わった。


この一件で袁術は呂布が自らに害をなすことを恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせることを提案した。呂布は袁術と手を結ぶことで曹操に対抗しようと考え、この婚姻を承認した。袁術の使者である韓胤が寿春から徐州へと赴き、婚礼の日取りが決められた。


しかし、この婚姻に待ったをかけたのが陳珪だった。陳珪は徐州の名士であり、陳登の父である。彼は呂布を諫めて言った。


「将軍、袁術と婚姻を結べば、あなたは天下の逆賊と見なされます。袁術は帝位を僭称しようとしている男。そのような者と縁を結べば、将軍の名に傷がつくだけでなく、曹操の討伐を受ける口実を与えることになりましょう。むしろ韓胤を捕えて曹操に送り、将軍の忠誠を示すべきです」


呂布はこの言葉に動かされた。彼はもともと袁術が最初に自分を迎えなかったことを恨んでいた。洛陽を追われ、流浪の身となった呂布を、袁術は「信用できぬ」と冷たくあしらったのである。その屈辱が、呂布の心の奥底でくすぶり続けていた。


「よし、陳珪の言う通りだ。韓胤を捕えよ!」


呂布はただちに韓胤を捕縛し、書簡と共に許都の曹操のもとへ送った。これによって呂布は曹操から正式に徐州牧として認められることになったが、同時に袁術の激しい怒りを買うことになった。


使者を斬られた袁術は、怒りに任せて軍を動かした。彼は楊奉と韓暹に呼びかけ、連合して呂布を攻めるよう持ちかけた。楊奉と韓暹はもともと白波軍の出身で、李傕と郭汜の乱の後に流浪していたが、袁術の誘いに乗って参戦を決めた。袁術は大将の張勲に数万の大軍の指揮を委ね、楊奉と韓暹の軍と連携して呂布を四方から包囲した。


呂布はこの大軍を前にして、三千余りの兵しか持っていなかった。彼は陳珪を責めた。


「あなたの言葉に従って袁術と縁を切ったが、この有様だ。どうすればよいのだ」


陳珪は泰然として答えた。


「将軍、慌てることはありませぬ。楊奉と韓暹は袁術に心から従っているわけではありません。彼らはただの傭兵に過ぎず、利益で動きます。物資と官位を餌にすれば、必ずこちらに寝返ります」


呂布は陳珪の策を容れ、楊奉と韓暹に密使を送った。内容は「袁術に与しても得るものは少ない。私に味方すれば、徐州の物資を分け与え、朝廷にも推薦する」というものだった。楊奉と韓暹はこの申し出に即座に飛びつき、袁術から離反して呂布に味方した。


形勢は一気に逆転した。呂布は楊奉と韓暹の軍を加えて反撃に転じ、張勲の軍を壊滅させた。張勲は命からがら逃走し、袁術軍側の大将だった橋蕤は捕えられた。袁術はこの大敗によって勢力を大きく損失し、淮南に退かざるを得なくなった。


しかし袁術は諦めなかった。彼は紀霊に歩騎あわせて三万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとした。劉備が小沛にいる限り、呂布と劉備が結託して自分に対抗する可能性がある。袁術は何としても劉備を滅ぼしたかったのである。


劉備はこの報せを受けると、ただちに呂布に救援を求めた。配下の諸将たちは口々に言った。


「将軍は常に劉備を殺そうとしていました。今こそ袁術の手を借りて劉備を滅ぼすべきです。なぜ敵を救う必要がありましょうか」


しかし呂布は首を横に振った。


「そうではない。もし袁術が劉備を破れば、北には泰山の臧覇ら諸将が連なる。私は袁術の包囲のもとに置かれるのだ。劉備を救うのは、劉備のためではない。私自身のためだ」


呂布は歩兵一千、騎兵二百余りを率いて、紀霊と劉備の陣営のちょうど中間に陣を築いた。そして紀霊と劉備の双方に使者を送り、陣中にて会見するよう申し入れた。


紀霊はこの申し出に困惑した。呂布が劉備に味方するのか、それとも自分に味方するのか、判断がつかなかったのである。しかし呂布の武勇は天下に轟いている。無視するわけにもいかず、紀霊は渋々ながら呂布の陣営に向かった。


一方、劉備は関羽と張飛を伴い、呂布の陣営に到着した。劉備が先に入ると、呂布は笑顔で出迎えた。


「玄徳公、よく来てくれた。今日はそなたのために一席設けた。安心してくれ」


「呂将軍、これはどのような……」


「なに、驚くことは無い。玄徳、座っていてくれ」


話しているうちに紀霊が到着した。劉備の姿を見た紀霊は、驚愕の表情を浮かべた。


「呂将軍! あなたは我が主に劉備を助けないと約束したはず。それなのにこのようなところに陣を構え、劉備を招き入れるとは、まさか劉備に味方するおつもりか!」


呂布は紀霊を席に招き入れながら、落ち着き払った声で言った。


「将軍、勘違いするな。私が劉備に味方するわけではない」


「ならば劉備を討つおつもりか」


「それも違う」


「な、ならば……何が目的なのだ!」


呂布は杯を手に取り、静かに言った。


「玄徳は私の弟である。弟が諸君によって困らされているから助けに来たのだ。私は争いを好まない性分で、ただ人々を和解させるのを好むというだけのことだ」


その場にいる全員の内心を代弁するならば、「どの口が言ってるのだ」というのが呂布以外の共通認識である。さらにお前が言うな、と心の中で付け足す張飛もいた。三姓の家奴とまで呼ばれた呂布が「争いを好まない」などと言い出すのだから、滑稽を通り越して呆れるほかない。


「今日は双方の和解のために来たのである」


「どう解決するというのですか?」


「天意だ!」


紀霊は呂布に聞いた自分が馬鹿だったと内心嘆いた。天意とは要するに、呂布の気分次第ということである。


「まぁ、座れ」


呂布は調停役として話し始めた。


「俺は生来誰かと争うのが嫌いだ。しかし世の中は皆、俺のことを大の争い好きだと思っている。これは誠に大きな勘違いである! 今日の宴は楽しむ為の宴である。鴻門の宴とは訳が違うからな! 和解の為の宴だ! 双方、今日はこの俺の顔を立てて両方退いてくれんか?」


お前の自意識過剰を誤解と言うんだ、と劉備は内心で思っていたが、口には出さなかった。今は呂布の機嫌を損ねる時ではない。


紀霊はこれに反論した。


「将軍、それは違います。私は主の命を受けて兵三万を率いて劉備を討ちに参りました! それを和解せよとは、あまりに無理が過ぎる!」


これを聞いた張飛が聞き捨てならないと怒鳴りつけた。


「おい! このドサンピンが! 大口たたいてんじゃねぇ! 三万がなんだってんだ! てめぇらなんざ俺一人でも朝飯前よ!」


そういうと張飛は直ぐさま剣を抜き、さらに怒鳴りつけた。


「兄貴に手出してみろ……!」


関羽が張飛を制止した。


「益徳、剣をしまえ。先ずは呂将軍の意見を聞こうではないか、その後でも戦はできる」


関羽も内心では呂布をばかにしているのがわかる。その口調には明らかに「お前の出る幕ではない」という響きが込められていた。呂布は関羽の意図をはっきりと察した。そして切り返した。


「おいおい、俺は解決しに来たんだぞ? 戦? 起きるわけないではないか!」


紀霊は呂布を信じない上に劉備を見くびっている。


「解決だと? 簡単に言うではないか!」


そこへ張飛が怒鳴りつける。


「紀霊! 調子に乗ってんじゃねぇ!」


紀霊も応戦する。


「俺がお前のことを恐れていると思ってないだろうな?」


張飛はさらに「ならば、表に出て一騎討ちと行こうじゃねぇか!」


これに紀霊も反応した。


「おぅし、やってやろうじゃねぇか!」


両者が一触即発の空気になったその時、呂布の堪忍袋の緒が切れた。


彼は杯を卓に叩きつけ、おもむろに立ち上がると両者を睨みつけた。その気配に、張飛も紀霊も思わず口を閉ざす。飛将軍の放つ殺気は、それだけで場の空気を一変させる威力を持っていた。


呂布は門番に命じて、軍営の門に戟を立てさせた。


「諸君は私が戟を射るのをご覧になり、当たったならば兵を引き、当たらなければ引き続き勝負をつけるのもよい」


そう言うと呂布は弓を手に取り、ゆっくりと弦を引き絞った。呂布が立つ位置と戟の位置までは百五十歩、現代の距離に換算すれば二百十六メートルである。これだけの距離があれば、普通の弓では的に届くことすら難しい。ましてや、戟の小枝のような小さな的に当てるなど、人間業とは思えなかった。


呂布は一呼吸で弓を引き絞り、つがえた矢を放った。矢は一直線に飛び、軍営の門に立てられた戟の小枝を正確に射抜いた。金属の小枝に矢が当たる甲高い音が、静まり返った陣営に響き渡る。


どよめきが起きた。それは驚嘆の声であり、畏怖の声でもあった。


「将軍は天威である!」


諸将はみな驚きの声を上げ、紀霊も言葉を失った。これは人間の技ではない。二百メートル以上離れた場所から戟の小枝を射抜くなど、神でなければ不可能だ。現代のアーチェリーのオリンピック金メダリストでもスタビライザーをつけて七十メートル台が限界であり、到底なしえない芸当だった。


紀霊はしばらく呆然としていたが、やがて深く頭を下げた。


「……わかりました。将軍のご威光に免じて、今回は兵を引きます。しかし、我が主・袁術にはこのことを報告せねばなりませぬ。どうかご容赦を」


「構わん。お前の主君によく伝えよ。呂布は争いを好まぬが、弟を傷つける者には容赦しない、とな」


紀霊は翌日、軍を率いて撤退した。劉備は命拾いをしたのである。


この一件以来、張飛は呂布に対して大人しくなった。自分には到底できない芸当であり、しかも百五十歩は呂布の射撃範囲内であることが身にしみてわかったからである。張飛は戦場では誰よりも勇猛だが、同時に武人としての本能で相手の力量を正確に測ることができる男だった。呂布の弓の腕前は、自分が太刀打ちできる域を遥かに超えている。それがわかった以上、むやみに喧嘩を売るような真似はしない。少なくとも、表面上は。


こうして袁術と劉備の戦いは、呂布の仲介によって一応の決着を見た。しかしこれはあくまで一時的な停戦に過ぎない。袁術の野心は依然として燃え盛っており、劉備と呂布の同盟もまた、いつ崩れてもおかしくない脆さを抱えていた。中原の戦火は、まだ消えることを知らなかったのである。

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