第九回 高孝父整軍粛武 曹孟徳征戦四方 一段
建安元年、冬。
許都は雪に覆われていた。
かつては一地方都市に過ぎなかったこの街は、今や天下の政治の中心である。昨年、曹操が天子を洛陽から迎え入れて以来、許都は驚くべき速さで変貌を遂げた。城壁は補強され、新たに磚を積んだ外壁が旧城を取り巻き、その外側には官僚たちの邸宅や兵営が整然と立ち並んでいる。街の中心には臨時の皇居が設けられ、その隣に丞相府が威容を誇っていた。
丞相府の書斎で、曹操は机に向かっていた。傍らには数本の蝋燭が灯され、竹簡や絹布に書かれた報告書が山と積まれている。彼はその一つを手に取り、素早く目を通すと、傍らに控える若い文官に手渡した。
「これは廃棄だ。形式だけの上表文など、読むだけ無駄である」
「はっ」
文官が退出すると、入れ替わりに荀彧が入室した。雪のついた外套を従者に預け、軽く一礼してから曹操の正面に腰を下ろす。
「文若、遅かったな」
「申し訳ありませぬ。豫州の郡県から届いた報告を精査しておりました。黄巾の残党が汝南で小規模な反乱を起こしたとのことです。すでに李典が鎮圧に向かいました」
「黄巾か。あれは潰しても潰しても湧いてくる。まるで草の根だ」
曹操は苦笑し、手近な杯を手に取った。酒ではない。温めた湯に蜂蜜を溶かしたものである。彼は酒を嗜むが、執務中は決して口にしなかった。
「して、并州の続報は入ったか」
荀彧は懐から一通の絹布を取り出し、机の上に広げた。
「公孫瓚が敗走した後の并州ですが、高順は予想以上に迅速に体制を整えつつあります。代郡を制圧した後は深追いせず、ただちに劉和を太守に据えました。興味深いのは、代郡の民がほとんど抵抗を示さなかったことです。むしろ、并州の統治を受け入れることを歓迎した節すらある」
「ほう。なぜそう言い切れる」
「税の減免と治安の回復が即座に宣言され、それを実行する吏が即日派遣されたからです。まるで、代郡を取ることを最初から予定していたかのような手際です。今や代郡は、完全に并州の一部として機能し始めております」
「手際が良すぎるな。まるで最初から代郡を取るつもりだったかのようだ」
「おそらくは、その通りかと」
荀彧はさらに言葉を継いだ。
「間者の報告によれば、并州では民政と軍政が完全に分離されて運営されているようです。高順個人の意向で全てが動くのではなく、あらかじめ定められた制度に従って、それぞれの部署が独自に判断し、動いている。民政を担当する部署と軍政を担当する部署の間には明確な境界線があり、命令系統が混線することがない。これほどの統治機構を、たかだか数年で築き上げたとはにわかには信じがたいのですが」
曹操は蜂蜜湯を一口含み、しばらく考え込んだ。
「民政と軍政の分離か。袁紹にはできぬことだ。奴は軍事と政治を渾然一体とし、すべてを自分の一存で決める。だからこそ幕僚同士の争いが絶えぬ。しかし高順は違う。奴は属僚に権限を委ね、制度で領地を動かしている。おそらく奴は、自分がいなくても回る仕組みを作ろうとしているのだ」
「丞相のお言葉を借りれば、『一個の国家を築こうとしている』と」
「ああ。しかも、その設計図はかなり出来が良いようだ。捕虜だった賊どもを再編成し、食料と仕事を与え、三年後には全員を自由民にすると約束したという。これで賊どもは并州を守るために進んで働く。二百万人が敵から民に変わる。これだけの人心掌握、並大抵の武将にできることではない」
曹操は立ち上がり、壁に掛けられた地図の前に歩み寄った。北は幽州、西は并州、東は冀州、南は豫州。天下の勢力図が、色分けされた駒で示されている。
「高順は今、何をしていると思う」
「報告によれば、内政の拡充と、北の鮮卑・烏桓への備えを同時に進めているとのことです。表向きは専守防衛を標榜し、外征の意思は見せておりません」
「表向きは、か」
曹操は地図の并州に指を置いた。
「高順は、戦わずして勝つことを知っている。公孫瓚を破ったのも、ただの武力ではない。公孫瓚の性格を見抜き、挑発し、こちらの土俵に引きずり込んで叩いた。あれは戦ではなく、計算だ。次の狙いは何だと思う」
荀彧は少しの間を置いてから、静かに答えた。
「おそらくは、時間を稼いでいるのだと思われます。高順は今、戦わずに済むなら戦わない。その間に内政を充実させ、国力の基盤を固めている。公孫瓚を滅ぼさずに追い返したのも、袁紹との直接対決を避けるためでしょう。現時点で、并州の生産力と軍事力は急速に拡大しているとの報告もあります。丞相、率直に申し上げます。高順と事を構えるならば、早い方が良いかもしれません。遅くなれば遅くなるほど、犠牲は大きくなる」
「わかっている。だが今は動けぬ。袁紹がまだ健在だ。我々が并州に手を出せば、袁紹は必ずその隙を突く。二正面作戦は、袁紹だけでなく我々にとっても自殺行為だ」
曹操は地図から手を離し、再び椅子に腰を下ろした。
「それに、我々にはやるべきことが山積している。屯田制の拡大、軍の再編、朝廷内の反対派の処断。天子を奉じるということは、常に後ろから刺される危険を抱えるということだ。高順はその点、気楽なものだな」
「丞相は、高順をどのように評価されておりますか」
荀彧の問いに、曹操は少しだけ口元を緩めた。
「私が思っていたよりも、ずっと賢い男だ。そして、ずっと厄介な男でもある」
「厄介、と申されますと」
「奴は、自分の力量をわきまえている。公孫瓚を破った後、なぜ深追いしなかったと思う」
「代郡の制圧と、劉和を太守に据えることが目的だったからです」
「それもある。だが、もっと大きな理由がある。高順は、自分が今どこまで戦えるかを正確に見極めている。公孫瓚を滅ぼすことはできたかもしれぬ。だが、そうすれば次は袁紹と直接対決になる。奴はそれを避けた。まだ、袁紹と戦うだけの用意が整っていないと判断したのだ。己の力量を見極め、勝てる戦いだけを選ぶ。これほど始末の悪い相手も珍しい」
曹操の声には、いつもの軽妙さはなかった。彼は高順という未知の要素を、警戒の対象としてだけでなく、一つの計算可能な脅威として捉え始めている。荀彧はそのことを改めて感じ取った。
「荀彧。高順という男を、引き続き監視しろ。間者を増やせ。并州の塩を扱う商人の中にも、こちらの者を潜り込ませられぬか」
「すでに数名、手配しております。ただ、高順の領内は思った以上に目が行き届いており、深入りは難しい状況です」
「ならば急ぐな。時間をかけて網を張れ。袁紹と高順がぶつかる時、我々はその両方の情報を握っていなければならぬ」
曹操の頭は、すでに次の手を打ち始めていた。
同じ頃、許都の一角にある質素な屋敷では、もう一人の男が灯りの下で書物を広げていた。
郭嘉である。まだ三十路を前にした若き参謀は、病弱な身体を厚い毛皮に包みながらも、その目だけは爛々と輝かせて各地からの報告書を読み耽っていた。机の上には、彼が独自に集めた情報が所狭しと並べられている。
彼は并州からの報告を手に取ると、何度も読み返し、時折小さく唸り声を上げた。
「高順か。これはまた、とんでもない男が現れたものだ」
郭嘉は咳き込みながらも、口元に笑みを浮かべた。
「聞けば、并州では捕虜だった賊どもが進んで農地を耕し、工房では鎧や武器が休みなく作られ、市場には塩や穀物が溢れているという。しかも民政と軍政を分け、それぞれに責任者を置いて動かしているらしい。呂布の副将だった男が、いつの間にこれほどの手腕を身につけたのか」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。雪はなおも降り続いている。
「奉孝、まだ起きていたのか」
声の主は程昱だった。彼は郭嘉の屋敷を訪れ、雪のついた外套を脱ぎながら室内に入ってくる。
「仲徳か。ちょうどいい。これを読んでみろ」
郭嘉は并州の報告書を程昱に手渡した。程昱はそれに素早く目を通し、やがて深く息を吐いた。
「これはまた、見事なものだな。捕虜に仕事を与えて民に変え、市場を整えて物資を循環させ、さらには民政と軍政を分けて統治の仕組みそのものを変えようとしている。これがたかだか数年で成し遂げたことだというのか」
「そうだ。しかも、この仕組みはまだ完成していない。おそらく高順は、何年も先を見越して布石を打っている。今はまだその途中に過ぎない」
「丞相は高順をどう評価されている」
「『賢い男だ。そして厄介な男でもある』と。丞相がそこまで言う相手は、私が知る限り、まだ数えるほどしかいない」
郭嘉は咳を鎮め、再び椅子に腰を下ろした。
「仲徳。私は思うのだが、高順という男は、我々が考えている以上に先を見ている。公孫瓚を破り、代郡を取り、劉和を太守に据えた。あれはすべて計算だ。袁紹が掲げる『漢室を守る』という大義を、高順は劉和を保護することで自分の側に引き寄せた。軍事的な勝利と政治的な勝利を同時に狙う。あれだけの手際を見せられては、袁紹もさぞかし焦っているだろう」
「袁紹は公孫瓚への攻勢を強めている。このまま行けば、来年中には公孫瓚を滅ぼすだろうな」
「問題はその後だ。袁紹は公孫瓚を滅ぼした後、必ず并州に目を向ける。しかしその時、并州がどれほどの力をつけているか。袁紹はおそらく、高順を呂布の副将だった頃のままの男だと思っている。それが彼の、いや、我々全員の誤算になるかもしれぬ」
程昱は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「ならば、我々はどう動くべきだと思う」
「当面は静観だ。丞相のお考え通り、今は動く時ではない。袁紹と高順がぶつかるのを待つ。その間に、我々は中原を固め、朝廷内の反対派を一掃する。そして両者が疲弊したところを、一気に叩く。それが最も確実な道だ」
「そのためには、少なくとも数年は必要か」
「ああ。数年。その間に、高順はさらに力を蓄えるだろう。丞相もそれは承知の上だ。だからこそ、今のうちに間者を送り込み、情報を集めておく必要がある」
郭嘉は再び咳き込んだ。その咳は深く、胸の奥から絞り出すような重い響きを持っていた。
「奉孝、あまり無理をするな。体を壊しては元も子もない」
「心配は無用だ。私はまだ死ねぬ。高順という男が天下に何をもたらすのか、この目で見届けるまではな」
郭嘉の目は、雪に覆われた暗い窓の向こうを見つめていた。その視線の先には、太行山脈の彼方に横たわる并州の地があった。
そこで静かに力を蓄える男の存在を、この若き参謀は誰よりも早く感じ取っていたのである。




