第八回 高孝父励経図治 諸侯皆爾虞我詐 二段
冀州では、袁紹が公孫瓚との戦いの最中にあった。
常山の戦いで呂布の活躍により一時は優勢に立ったものの、肝心の呂布が去った後は再び膠着状態に陥っている。野戦では互角だが、決定的な打撃を与えられないまま、戦線は黄河の北岸で停滞していた。
軍議の席には、袁紹の主だった幕僚たちが居並んでいる。田豊、審配、沮授、許攸、郭図、逢紀。いずれも当代一流の智謀の士であり、彼らの献策が袁紹軍の屋台骨を支えている。だが、それぞれの方針は決して一枚岩ではなかった。
田豊が地図の上に駒を置きながら、公孫瓚の騎兵による補給線への脅威を説明する。
「公孫瓚の白馬義従は機動力において我が軍を上回ります。補給線が伸び切ったところを騎兵で断たれれば、前線の兵站は容易に崩壊します。まずは守りを固め、敵の出方を待つべきです」
審配がそれに反論した。
「守りを固めるだけでは決着はつきません。黄河沿いに拠点を増設し、敵の退路を断つ形で圧力をかけるべきです」
「そのためには莫大な兵糧と人夫が必要だ。今の我々にその余裕はあるのか」
沮授が冷静に指摘する。彼の手には竹簡があり、そこには軍需物資の集計が細かく記されていた。
「現在、前線に送り込める糧秣は月に三万石が限界です。これ以上兵を増やせば、冬を越す前に蓄えが尽きます」
議論は平行線を辿った。袁紹は黙ってそれを聞いている。名族袁家の当主として、彼は最終決定を下す立場である。焦ってはならない。家臣たちの意見を十分に聞き、最も妥当な判断を選ぶ。それが彼の信条だった。
だが、今日の袁紹には別の懸念があった。
「ところで、并州の動きはどうだ。高順の奴は何をしている」
その問いに、場の空気が一瞬変わった。幕僚たちの間に、微妙な緊張が走る。
沮授が口を開いた。
「并州は相変わらず内政に専念しております。屯田制の成果が顕著に出始め、穀物生産量は昨年の三倍以上に増えたとのこと。先ごろ発布された并州州牧令によれば、捕虜二百萬人を五十の生産兵団に再編成し、常備軍五十萬と予備役百萬を合わせた百五十萬の防衛軍を養成中との由。高順は将軍令と州牧令を明確に区分し、軍政と民政を別系統で統制する新たな制度を導入した模様です」
「百五十萬だと」
袁紹の声がわずかに震えた。
「単純な生産量ではまだ冀州に及びませんが、成長率では并州が遥かに上を行っております。このまま行けば、三年後には冀州を追い抜く可能性も」
「馬鹿な」
袁紹は思わず卓を叩いた。冀州は天下の穀倉地帯であり、生産量において他州に劣るはずがない。それは彼の誇りであり、覇権を支える基盤でもあった。
「高順は鯉鴨農法と称する新農法を導入し、水田と養殖を組み合わせることで驚異的な生産性を上げております。また、龍骨車という揚水機を普及させ、天水に頼らない安定した農業を実現しているとのこと。さらに州牧令により三圃式の交代耕作を強制し、全農具の鋼製への置き換えを進めているとも聞きます。これらの技術は、我々が到底真似できるものでは」
沮授の声は淡々としていたが、その内容は袁紹の自尊心を容赦なく削るものだった。
「では我々は何もせずに、ただ高順が強くなるのを指をくわえて見ているだけなのか」
袁紹の苛立たしげな声に、許攸が口を開いた。
「我々は今すぐにでも并州に手を打つべきです。高順は今、内政に専念しています。つまり軍事面ではまだ準備が整っていないということです。今なら我々の力で并州を叩くことができます」
「子遠、それは短絡的すぎる」
田豊が即座に反論する。
「我々は今、公孫瓚との戦いの最中だ。二正面作戦は自殺行為に等しい。それに、高順の将軍令による予備役制度はすでに稼働している。百五十萬という数字を誇張と見るのは危険だ。仮にその半数でも、我々の全軍を上回る」
沮授も田豊に同意した。彼は別の選択肢を提案する。
「高順は現時点では外部との争いを避けています。公孫瓚との戦いに専念する間、并州とは同盟関係を結び、背後を脅かされないようにするのが得策です。高順とて、我が方と事を構えるよりは、内政の完成を優先するでしょう。丞相府には曹操がおり、天子を奉じて天下に号令しています。曹操と高順の関係も、一枚岩とは言えませぬ。我々にはまだ、外交の余地がある」
しかし許攸は冷笑を浮かべて言い返した。
「高順など今のうちに叩いてしまえばそれで済む。内政には長けているかもしれないが、軍事面では何の実績もない男だ。呂布の副将だったというだけの、ただの成り上がりに過ぎません」
「子遠兄、お前は高順を過小評価しすぎだ」
審配が厳しい口調で言った。
「あの男は董卓の死後、長安の混乱をいち早く見抜き、并州に戻って内政に専念した。その判断力は並大抵のものではない。洛陽が炎上し、呂布が敗走する中で、ただ一人、軍を整然と退かせたのも高順だ。あの時、彼はすでに董卓の命運を見切っていたのだ。今回の州牧令と将軍令の区分ひとつを見ても、統治の才は本物と言わざるを得ん」
「ならば尚更、早く手を打つべきではないか。奴が強くなる前に」
許攸はそう言って、袁紹に向き直った。彼の目には、ある種の確信が宿っている。
「実は、すでに并州に刺客を送り込みました」
「何だと」
田豊が立ち上がった。彼の顔から血の気が引いている。
「勝手な行動を取るなと、あれほど」
「刺客は失敗したようです。高順はまだ生きている」
許攸は涼しい顔で続けた。その口調は、まるで天候の話でもするかのように平坦である。
「失敗しただと? お前は私の許可なく勝手に他州の将軍を暗殺しようとし、しかもそれに失敗したと。もしこの事が高順の耳にでも入れば、并州は我々を敵と見なすだろう!」
袁紹の声が広間に響いた。幕僚たちは押し黙り、ただ主君の怒りが収まるのを待つ。
「主君、ご心配には及びません。刺客は自害しました。我々の素性は一切漏れておりません」
「馬鹿者!」
袁紹は卓を叩いた。衝撃で杯が倒れ、酒が地図の上に広がる。冀州の上に、染みがじわじわと拡がっていった。
「高順は馬鹿ではない。刺客の出自を調べればいずれ我々にたどり着く。それまでに公孫瓚を片付け、并州に備える体制を整えなければならない」
袁紹は深く息を吸い、声を静めた。怒りを抑え込むように、両の拳を卓の上で握りしめる。
「今は公孫瓚との戦いに集中する。并州に関しては今は手を出すな。ただし警戒は怠るな。もし高順がこちらに牙を向くようなことがあれば、その時は全力で叩き潰す。いいな」
許攸は渋々ながら頷いた。しかし彼の目には、明らかな不満と野心の炎が燃えている。袁家の参謀として、自分の献策が退けられたことへの屈辱。高順という未知の存在への、理屈では説明できない苛立ち。
高順は遠く晋陽で、そのことを誰よりも正確に見抜いていた。
軍議が終わり、幕僚たちが退出した後、沮授は一人、袁紹の私室を訪れた。
「明公、差し出がましいようですが、一言だけ申し上げたく」
「何だ」
袁紹は侍女の差し出す茶を受け取りながら、疲れた声で応じた。
「許攸の刺客の件、すでに高順は察知しているものと思われます。并州の情報網は我々が考えるよりはるかに広く、深く入り込んでおります。半年ほど前から、鄴城の市場に并州産の塩が大量に流入しているのをご存じでしょうか」
「塩だと」
「ええ。河東の塩です。品質は我々のものより良く、価格は三割安い。商人たちはこぞって并州塩を買い付け、その過程で鄴城のあらゆる情報が晋陽に流れている。これは推測ですが、高順は塩の専売制を単なる財源としてだけでなく、情報収集の手段としても利用しているのです」
袁紹は茶碗を置き、沈黙した。
「つまり、我々の内情はすでに筒抜けだと申すか」
「おそらくは。それゆえ、今は并州との衝突を避けるべきです。許攸の言う『今のうちに叩く』は、もはや手遅れです。むしろ、高順の内政が完成するまでの二年の間に、我々もまた内部を固めるべきかと」
袁紹はしばらく考え込み、やがて小さく頷いた。
「わかった。お前の言う通りにしよう。公孫瓚を討ち、その後に并州と対峙する。ただし、それまでは徹底して情報を集めろ。高順という男が、一体何を考えているのか。それを知らねば、戦うに戦えぬ」
「はっ」
沮授は深く一礼し、部屋を辞した。
残された袁紹は、窓の外を見つめる。鄴城の空は曇り、重く垂れ込めた雲が街全体を覆っていた。太行山脈の向こう側から、冷たく巨大な黒い影が、冀州を呑み込まんと静かに睨みつけている。
その存在を、袁紹は肌で感じ始めていた。
後に袁紹が官渡で敗れた時、沮授は黄河の北岸で捕らえられ、曹操のもとへ連行される前にこう書き残したという。
「高順の恐ろしさは、その武力にあらず。戦わずして勝つことを知り、戦う前に勝敗を決するにある。袁公は、そのことを最後まで理解されなかった」
同じ頃、幽州では公孫瓚が袁紹との戦いの最中にあった。
彼は自ら白馬に跨がり、精鋭の騎兵隊「白馬義従」を率いて幾度となく袁紹軍に襲撃をかけていた。白馬に白い戦袍をまとった騎兵たちは、平原を疾駆するその姿から「白馬長史」と恐れられ、異民族との戦いでは無類の強さを誇った。
しかし、袁紹との戦いは容易ではなかった。冀州軍は数において勝り、公孫瓚の奇襲も次第に通じなくなっている。劉虞との不和も深刻化し、後方の安定を欠いたままの長期戦は、彼の兵力をじわじわと削っていた。
そんな彼の心の中には、常に一つの不安が渦巻いていた。
并州の高順である。
「并州の動きはどうだ」
公孫瓚は側近の文士に尋ねた。陣幕の中は簡素で、白木の机と数脚の床几があるだけだ。壁には幽州と冀州の地図が掛けられ、各地に配置された軍勢の数が朱筆で書き込まれている。
「高順は相変わらず内政に専念し、学堂の設立に力を入れているとのことです。先日も、晋陽に州牧直轄の学堂が開設されたと聞きます。また、将軍令と州牧令を発し、軍政と民政を分離する制度改革を行った模様」
「制度改革だと? 戦乱の世に、そんな悠長なことをしているのか。高順は学者気取りの軟弱者だ」
公孫瓚は吐き捨てるように言い、手に持っていた杯を卓に置いた。
しかし側近は続けた。
「并州の内政は確実に成果を上げているようで、穀物生産量は増え、道路は整備され、民の生活も向上していると聞きます。先月、晋陽を訪れた商人の話では、かつて流民であふれていた街が、今は活気に満ちているとか。塩の専売制で商人が集まり、製鉄所からは煙が絶えることがないそうです」
公孫瓚の表情が曇った。
「高順など所詮は董卓の飼い犬だった男だ。たまたま内政で少し成果を上げたからといって、何を恐れることがある」
そう言って公孫瓚は自らの胸を張った。彼の胸甲は磨き抜かれた白銀で、陣幕の中でも鈍く光っている。
しかし彼の心の中では、別の感情が渦巻いていた。
あの時。六万の軍勢で国境に迫られた時、公孫瓚は初めて自分の無力さを思い知った。高順はその六万の軍勢を、戦うことなく、ただの脅しとして使った。軍を国境に並べ、いつでも侵攻できるという姿勢を見せるだけで、公孫瓚の動きを完全に封じたのだ。
その冷徹な計算高さが、公孫瓚には何よりも恐ろしかった。
敵を憎むのは簡単だ。袁紹は憎い。奴は名族の血を笠に着て、華北の覇権を簒奪しようとしている。だが、袁紹の考えていることはわかる。読める。戦い方も、駆け引きも、すべてが理解の範疇にある。
高順は違う。
あの男は、何を考えているのかわからない。州牧令と将軍令を分け、まるで百年続く国でも作るつもりなのか。塩の専売制で情報を集め、学堂で人材を育て、製鉄で武器を量産する。それがこの乱世で、何の意味を持つというのか。
必要なのは武力だ。武力こそがこの乱世を生き抜く唯一の手段であり、それ以外はすべて虚飾である。公孫瓚はそう信じてきた。
しかし高順は武力だけに頼らない。兵站、補給、訓練、士気。すべてを計算し尽くした上で、初めて武力は機能する。高順はそれを知っている。
公孫瓚は、そのことが何よりも恐ろしかった。
そこへ、早馬が到着した。
袁紹の配下・許攸が密かに并州に刺客を送り込んだが、失敗したという報告である。
公孫瓚はしばらく考え込み、やがて口元を歪めた。
「袁紹が并州に手を出した以上、高順も黙ってはいまい。もし并州と冀州が戦争になれば、その隙に袁紹の背後を突くことができる」
「しかし、高順は専守防衛を標榜しており、自ら進んで袁紹と戦うかは疑問です」
側近の指摘に、公孫瓚は首を振った。
「戦うだろうな。あの男は冷徹な計算の上で動く。攻撃を仕掛けてきた敵は全力で打ち倒す。それが彼のやり方だ。将軍令で百五十萬の軍を整えつつあるというのも、単なる防衛のためではあるまい」
公孫瓚は窓の外を見た。遠くの山並みの向こうには并州がある。あの地で、高順が今日も内政に励んでいる。州牧令で民を統治し、将軍令で軍を整備し、太守令で末端まで指示を届かせる。
公孫瓚は、そのことが何よりも恐ろしかった。高順はすでに、ただの武将ではない。一個の国家を動かす統治者として、着実に歩みを進めている。
後に公孫瓚が敗れた時、彼の陣中からは一枚の血に染まった絹布が発見された。そこには彼自身の筆で、こう記されていたという。
「高順は武を知り、政を知り、人を知る。我はただ馬を知るのみ」




