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社畜が目覚めたら将軍!? 史実(未来予知)で成り上がり、乱世を生き抜く  作者: 八月河
第十七回 飛将入京嫁千金 風起雲湧天下乱
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第十七回 飛将入京嫁千金 風起雲湧天下乱 一段

洛陽に夏が来た。黄河の水は陽を浴びてぎらぎらと輝き、城壁の石は触れれば火傷しそうなほどに熱を帯びる。そんな暑さの中、洛陽の朝廷は数日来、かつてない活気に包まれていた。匈奴の単于・呂布が、自ら娘を伴って参内するのである。


洛陽の民たちは、街路に溢れて呂布の一行を見物しようと待ち構えていた。飛将軍の異名を取った天下無双の武将が、今は草原の王として洛陽に来る。それがどれほどの見物か、誰の目にも明らかだった。


やがて城門が開き、匈奴の騎馬隊が整然と入城してくる。先頭を歩むのは一騎の巨漢。赤兎馬に跨り、戟を従者に持たせたその姿は、かつて虎牢関で天下の英雄たちを震え上がらせた呂布その人だった。年を重ねて頬にはいくらか皺が刻まれているが、その体躯は少しも衰えておらず、眼光の鋭さも健在である。


高順は城門の上からその様子を見下ろしていた。


「派手な入城だ」


「さすがは飛将軍、これで匈奴の威を示すつもりなのでしょう」


傍らの董昭が感心したように言った。


「威を示す、か。まあ、奴らしいと言えば奴らしい」


高順はそう言って小さく笑った。呂布の後ろには、豪華な飾りをつけた馬車が続いている。その中には、この度献帝の後宮に入る呂布の娘、呂玲綺が乗っているはずだった。


高順は隣に立つ董媛をちらりと見た。彼女は無言で呂布の一行を見下ろしている。その横顔からは何の感情も読み取れない。しかし高順にはわかっていた。董媛にとって呂布は、いくつもの意味で特別な男だった。かつて并州で、董媛は呂布と恋仲だったことがある。二人は互いに惹かれ合い、将来を誓い合ったこともあったという。しかし呂布は董媛を捨て、今の妻である樊氏を娶った。その後、董卓の手配により、董媛は高順のもとに嫁いできたのである。そして王允の策に乗った呂布は董卓を弑した。董媛の父を殺したのもまた、呂布だった。


高順は董媛の手をそっと握った。


「媛、無理をしなくてよい。今日は下がっていても構わぬぞ」


「いいえ、夫君。私は大丈夫です」


董媛は静かに答えたが、その声には普段の柔らかさはなかった。高順はそれ以上何も言わず、ただ彼女の手を握り続けた。


婚礼の儀は正殿で執り行われた。


献帝が玉座に座り、その前に呂布が平伏する。董卓を弑した罪で追われた男が、今は漢の姻族として天子の前に頭を垂れている。高順は列席者の一人として、その光景を静かに見守っていた。


「匈奴単于・呂布、陛下に拝謁いたします。この度は小女・玲綺を後宮にお入れいただき、まことに光栄に存じます」


呂布の声はよく通った。武人らしい太い響きでありながら、儀礼をわきまえた落ち着きもある。草原の王としての歳月が、かつての武辺一辺倒だった飛将軍を少しは変えたのかもしれぬ。


「単于、面を上げよ。そちの娘は朕が大切にする。これをもって漢と匈奴の絆はさらに固いものとなろう」


献帝の声は若々しく、そして堂々としていた。


呂玲綺が静かに進み出て、献帝の前に平伏した。年の頃は十七、八。父に似て目鼻立ちの整った娘だが、その目には気丈な光が宿っている。草原で育った娘らしく、か細い印象はない。献帝は彼女に優しい眼差しを向け、そっと手を差し伸べた。


「ようこそ、玲綺。朕の妻として、どうか心安く過ごしてほしい」


「もったいなきお言葉にございます。未熟者ではございますが、陛下のお側にお仕えできることを光栄に存じます」


呂玲綺の返答もまた、よく訓練されたものだった。呂布は満足げに娘を見つめている。


婚礼の儀は恙なく進み、宴に移った。


宴の席で、曹操が突然進み出た。


「陛下、本日は匈奴との絆が結ばれた慶びの日、つきましては私からも一つ提案がございます」


「丞相、何か」


「私の娘、曹節もまた陛下の後宮に入れたく存じます。匈奴との絆と同様に、漢室と臣下の絆をさらに深めるためでございます」


広間がざわめいた。曹操の娘を後宮に入れる。それは曹操が外戚としてさらに権力を強めることを意味する。献帝は一瞬だけ高順の方を見たが、すぐに表情を戻した。


「丞相の申し出、ありがたく受けよう。曹節もまた朕の妻として迎える」


「ありがたき幸せに存じます」


曹操は深く一礼した。その顔には微かな笑みが浮かんでいる。匈奴に先を越された形となったが、これで曹操もまた天子の外戚としての立場を固めたのである。呂布は曹操をちらりと見たが、何も言わなかった。草原の王は、宮廷の駆け引きには関心がないようだった。


高順は静かに杯を傾けながら、二人の権力者の静かな競い合いを見守っていた。しかしその注意の半分は、常に隣に座る董媛に向けられていた。彼女は宴の間中、ほとんど口を開かず、ただじっと呂布の姿を見つめていた。その目には、懐かしさも憎しみもない。ただ何もかもを見透かすような、底知れぬ静けさがあった。


婚礼の宴が終わって数日後、洛陽の街がまだ祝賀の余韻に包まれている頃、呂布はわずかな供だけを連れて遼王府を訪れた。


「孝父、久しいな! 媛妹も健在で何よりだ!」


門をくぐるなり、呂布はそう叫んだ。その声はかつて并州の陣中で聞いたものと少しも変わらない。高順は執務室から出て、かつての主君を迎えた。


「単于、遠路遥々、よくぞお越しくださった。お入りください」


「かた苦しい挨拶はいい。それより酒だ。お前のところには北の強い酒があると聞いたぞ」


「相変わらずだな」


高順は苦笑しながら、呂布を広間に通した。董媛は茶の支度をしていたが、呂布が「媛妹」と呼んだ瞬間、その手が一瞬だけ止まった。しかし彼女はすぐに黙って頭を下げ、表情を隠した。かつて親しく呼び合ったその名を、今この男が何の気なしに口にすること。それ自体が、董媛の胸の奥に小さな棘を刺した。


「媛妹も相変わらず美しいな。孝父、お前は良い妻を持った」


「それは重々承知している」


高順は短く答え、董媛をちらりと見た。彼女は無言で茶器を整えている。その指先が、かすかに震えていることに高順は気づいていた。


酒が運ばれ、呂布は遠慮なく杯を重ねた。しばらくは昔話に花を咲かせていたが、やがて呂布は居住まいを正し、高順を真っ直ぐに見つめた。


「孝父、今日は話があって来た」


「何だ、改まって」


「俺の姉、呂芳を知っているな」


高順は微かに眉を動かした。呂芳。呂布の姉であり、かつて并州で一時期だけ顔を合わせたことがある。確か、夫と死に別れ、今は匈奴の地で呂布の家族と共に暮らしているはずだ。


「名前だけは。たしか并州で一度会ったきりだが」


「その姉を、お前に娶ってほしい」


広間の空気が、一瞬で凍りついた。


高順は杯を置き、呂布の顔をじっと見つめた。この話、呂布が自分で考えたものではない。姉を娶れなどという提案は、あまりにも政治的すぎる。匈奴と漢の絆を血縁で固める。それは呂布の頭で捻り出せるような策ではない。高順の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。陳宮。呂布の謀士であり、かつて曹操を濮陽で追い詰めた知略の士。董卓の死後、呂布に従って各地を転戦し、今は匈奴の地で呂布の参謀を務めているはずだった。


「呂布どの、その話は陳公台の入れ知恵か」


呂布の目がわずかに泳いだ。


「なぜそう思う」


「単于が自分で考えた話とは思えぬからだ。匈奴と漢の姻戚関係をさらに深める。それは悪くない考えだが、単于の発想ではない」


「ははは、相変わらずお前は鋭いな」


呂布は頭をかいた。


「そうだ。公台がな、お前と俺が姻戚になれば匈奴の立場はさらに強固になると言ったのだ。俺もなるほどと思ってな。それに姉もまだ独り身だ。悪い話ではないだろう」


「陳公台は、俺がこの話を受けると思ったのか」


「公台はな、お前は損得で動く男ではないが、匈奴と漢の絆のためなら受けるかもしれぬと言った。それに、姉はなかなかの器量良しだぞ。媛妹にも負けぬ」


その言葉を聞いた瞬間、董媛の手から茶碗が落ちた。陶器が床に当たって割れ、熱い茶が飛び散る。


「媛妹、どうした」


呂布が声をかけたが、董媛は答えなかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、無言で新しい茶碗を取りに行く。その背中が、わずかに震えていた。


「単于、その話は受けられぬ」


「しかし孝父」


「陳宮の策は理解する。匈奴と漢の絆をさらに深めるために、俺と単于の家を結びつける。理屈は通っている。だがな、それは俺の信条に反する。俺は昭姫と媛、二人の妻だけで十分だ。これ以上は望まぬ」


「しかしだな、男なら妻の一人や二人」


「呂布どの、これ以上この話を続けるなら、俺は怒るぞ」


高順の声は静かだったが、その目には有無を言わせぬ光があった。呂布はしばらく高順の顔を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「わかった。そこまで言うなら」


「陳公台には、俺が断ったと伝えてくれ。陳宮なら、第二第三の策も用意しているだろう。匈奴と漢の絆は、単于の姫の入内で十分に果たされている。これ以上の縁組は必要ない」


「ああ、わかった」


呂布は杯を置き、何かを言いたげに口を開きかけたが、その時、董媛が音もなく立ち上がった。彼女の手には、いつの間にか陌刀が握られていた。長大な刃が、鈍く光を放っている。


「呂布」


董媛の声は、聞いたこともないほど低く、冷たかった。宴の間中、彼女が必死に抑え込んでいた何かが、今まさに決壊しようとしていた。媛妹と呼ばれるたびに、過去の記憶が呼び覚まされる。かつて愛し合った日々。そして裏切られたあの時。父を殺されたあの日。すべてを押し殺して、彼女は高順の妻として生きてきた。なのにこの男は、また何もわかっていない顔で現れ、自分の姉を夫に娶れと言う。


「お前は」


董媛の手が震える。声が震える。そしてその震えは、怒りでも悲しみでもなく、もっと深い、言葉にならない感情から来るものだった。


「お前は、かつて私に愛を囁き、そして捨てた。樊氏を娶り、父に取り入り、そして父を殺した。今度は何だ。自分の姉を、私の夫に差し出すだと」


呂布の顔から笑みが消えた。


「媛妹、あの頃のことは」


「それで私を呼ぶな!」


董媛の叫びは、広間の空気を震わせた。


「私はな、お前を恨んでなどいなかった。父を殺したことも、私を捨てたことも、すべては過去のことだ。そう思って生きてきた。だがな、呂布」


董媛の目に、初めて涙が浮かんだ。


「今度ばかりは許せぬ。私の夫に、自分の姉を娶れだと。お前はどこまで私を踏みにじれば気が済むのだ。かつて私を捨てた男が、今度は私の夫を、お前の都合で奪おうと言うのか」


「違う、私はそんなつもりでは」


「問答無用」


董媛は床を蹴った。


陌刀が唸りを上げて呂布の頭上に振り下ろされる。呂布は素早く卓を蹴って後方に跳びながら、腰の剣を抜いた。钢铁が激しくぶつかり合い、耳をつんざくような金属音が広間に響き渡る。


「媛妹、話を聞け!」


「黙れ! 私はな、お前に二度も裏切られた! 一度は愛を、二度は家族を! そして三度目は、私の夫を、お前の都合で奪おうとした!」


董媛の斬撃は、先ほどまでの静けさが嘘のような激しさだった。陌刀の間合いを活かし、連続で斬撃を繰り出す。右薙ぎ、左袈裟、突き。どれもが必殺の太刀筋であり、普通の武将なら最初の一撃で斬り伏せられていたところだ。愛と憎しみが、彼女の刃をこれまでにない速さと重さで駆り立てていた。


しかし呂布は違った。天下一の猛将と謳われた男は、董媛の猛攻を紙一重でかわし、時には剣で受け流しながら、じりじりと後退していく。彼の足運びには無駄がなく、防御は最小限の動きで行われていた。本気で反撃すれば董媛を討つこともできたはずだ。しかし彼はそれをしなかった。かつて自分が捨てた女に対して、せめてもの償いのつもりなのか。それとも単に、高順の妻を傷つけることの政治的影響を恐れたのか。それは誰にもわからなかった。


「媛妹、待て! 俺は悪気があって言ったのでは」


「悪気がないからこそ、なおさら始末が悪い! 媛妹と呼ばれるたびに、私はお前の無神経さに吐き気がする!」


董媛の頬が紅潮する。怒りと、そして悲しみが、彼女の動きをさらに激しくさせていた。陌刀が空を裂き、柱を削り、卓を粉砕する。広間は見る影もなく破壊され、酒壺が割れて芳醇な香りが床に広がった。


高順はこの戦いを静かに見守っていた。董媛がどれほどの思いを呂布に抱いていたか、彼は知っている。かつて愛した男に捨てられ、父を殺され、それでも董媛はそのすべてを胸の奥にしまい込んで生きてきた。高順の妻となり、蔡琰と共に支え合い、時には戦場で剣を振るい、時には茶を淹れる静かな日常の中で、彼女は過去を乗り越えようとしてきたのである。しかし今日、呂布はそのすべてを踏みにじった。自分の姉を高順に娶れと言う。しかもそれを、陳宮の献策だからなどと、まるで他人事のように語った。董媛にとっては、それが何よりも耐え難かったのだろう。


「孝父! お前も何とか言え!」


呂布が叫んだ。高順は深いため息をつき、静かに立ち上がった。


「媛、もうよい」


董媛の陌刀が、ぴたりと止まった。彼女は肩で息をしながら、なおも呂布を睨みつけている。その目にはまだ涙が残っていたが、それ以上に強い光が宿っていた。


「媛、下がっていてくれ。話は俺がつける」


董媛はしばらく逡巡していたが、やがて陌刀を下ろし、無言で後ろに下がった。彼女の指はまだ刃の柄を強く握りしめており、いつでも再び斬りかかれる体勢を崩していない。


高順は呂布に向き直った。かつての主君であり、天下一の猛将であり、匈奴の単于であり、そして董媛を二度も裏切った男。さらに言えば、今この瞬間も、自分が何をしたのかを理解していない男だった。しかもその提案は、陳宮という知恵者が裏で糸を引いている。


(脳筋好色バカゴキブリ野郎が)


高順は内心でそう毒づいた。まったく、その通りだ。この男は昔から何も変わらない。頭を使うのはいつも陳宮で、呂布はただその通りに動くだけだ。そしてそれが誰を傷つけるか、考えたこともない。


「呂布どの、姉御のことはありがたく思うが、俺は断る。陳宮どのにもそう伝えてくれ」


「しかし孝父、これは匈奴と漢のためでも」


「匈奴と漢の絆は、すでに玲綺どのの入内で十分に果たされている。これ以上は不要だ。陳宮の策は理解するが、俺の信条には合わぬ」


「しかしだな」


「呂布どの、一つだけ聞かせてほしい」


高順は静かに問いかけた。


「お前は今、董媛がなぜ怒ったのか、わかっているのか」


呂布はしばらく黙り込んだ。その沈黙が、何よりの答えだった。


「わかっていないようだな。ならばこれ以上、この話をする意味はない」


高順はそこで言葉を切り、それから少しだけ声を和らげた。


「呂布どの、お前は悪人ではない。誰よりも強く、誰よりもまっすぐだ。ただ、そのまっすぐさが時に人を傷つけることを、もう少しだけ考えてほしい。そして陳宮どのの策に乗る前に、一度だけ自分の頭で考えてみてほしい。それが誰を傷つけるのかを」


呂布は高順の顔を見つめ、それから董媛の方をちらりと見た。董媛は顔を背け、窓の外を見つめている。その頬を、一筋の涙が伝っていた。


「媛妹、俺は」


「媛妹と呼ばないでください」


董媛は振り返らなかった。その声は、もう怒りさえも通り越して、ただ静かな拒絶だけがあった。


「単于、どうかお引き取りください」


呂布はしばらく立ち尽くしていたが、やがて深く一礼し、無言で広間を出ていった。その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、高順は壊れた柱にもたれかかり、深く息を吐いた。


広間には、董媛と高順だけが残された。


破壊された卓、粉々になった酒壺、折れた柱。まるで戦場のような有様だった。董媛は窓辺に立ち、じっと外を見つめている。その背中は、普段の凛とした董媛ではなく、ひどく小さく、弱々しく見えた。


高順は彼女に近づき、そっと肩に手を置いた。


「媛、大丈夫か」


「夫君、私は」


董媛は言葉を詰まらせ、しばらく沈黙した。やがてかすれた声で、彼女は語り始めた。


「私は、呂布を憎んでなどいませんでした。父を殺したことも、私を捨てて樊氏を選んだことも、すべては乱世の必然だったと、そう思って生きてきました」


「ああ」


「でも、今日、あの男が自分の姉を夫君に娶れと言った時、しかもそれを陳宮の策だからと、まるで他人事のように話した時、私の中で何かが壊れました。なぜ、なぜあの男は、私からすべてを奪うのかと。媛妹と呼ばれるたびに、かつての記憶が蘇り、それが余計に私を苦しめました」


高順は董媛の肩を抱き寄せた。彼女の体は震えていた。戦場では決して見せない震えだった。


「私はこれまで、夫君とお義姉さまと共に生きてきました。それが私の幸せでした。呂布のことなど、とっくに過去になっていた。なのに、あの男は、媛妹と呼びながら、また私を踏みにじった」


「媛、もうよい。俺はあの話を受けはしない。陳宮の策にも乗らぬ。お前は俺の妻だ。それは変わらぬ。今までもこれからも変わらぬ」


「ありがとう、夫君」


董媛は高順の胸に顔を埋め、しばらく声を押し殺して泣いた。高順は彼女の背中を優しく撫でながら、壊れた広間を見渡した。柱は三本とも折れ、修理にはかなりの金がかかるだろう。だがそんなことはどうでもよかった。今はただ、董媛の心の傷が少しでも癒えることを願うばかりだった。


やがて董媛は顔を上げ、涙を拭った。その目には、先ほどまでの悲しみではなく、決意の光が宿っている。


「夫君、私はもう大丈夫です」


「そうか」


「はい。今日、私は呂布と決別しました。過去のすべてと決別しました。これからは、ただ夫君とお義姉さまのために生きます」


「媛、お前は一人の人間だ。俺や昭姫のために生きる必要はない。お前はお前のために生きろ。それが俺の望みだ」


董媛はしばらく高順の顔を見つめ、それから微かに笑った。それはいつもの董媛の、凛とした笑顔だった。


「では、私のために、夫君をこれからも支えさせてください。それが私の幸せです」


「ああ。頼りにしている」


高順はそう言って、董媛の額にそっと口づけした。


翌日、呂布は遼王府を再び訪れた。今日は供も連れず、手には酒壺を提げている。ただし昨日とは違い、門の前で張五に丁寧に取り次ぎを頼むという、彼にしては珍しい慎重さを見せていた。


高順は一人で彼を迎えた。董媛は今日は奥に下がっている。さすがに昨日の今日では顔を合わせるのはまだ難しかった。


「孝父、修理代を持ってきた。ついでに酒もな」


「修理代は金でくれと言ったはずだが」


「まあそう言うな。これは匈奴の馬乳酒だ。漢の酒より強いぞ」


呂布は広間に入ると、壊れた柱や卓の跡をしばらく見つめていた。その顔には、珍しく沈痛な表情が浮かんでいる。


「媛妹には、悪いことをした」


「今更か」


「ああ。俺はな、孝父。昔からそうだ。自分のやったことが、どれほど人を傷つけるか、考えたことがなかった。公台の策に乗って、姉の縁談を持ちかければうまくいくと思っていた。それが媛妹をどれほど傷つけるか、考えもしなかった」


呂布は杯を置き、大きな手で顔をこすった。


「媛妹を捨てた時も、俺は何も考えていなかった。樊氏を娶れば董卓に気に入られる。ただそれだけだった。董卓を討った時も、王允どのに言われるままだった。自分の行動が媛妹にどれほどの傷を与えるか、考えもしなかった。そして今回も、公台の策に乗って、また媛妹を傷つけた」


「今、そのことを後悔しているのか」


「わからぬ。後悔というのがどういうものか、俺にはよくわからぬ。ただ、媛妹の泣き顔を見て、胸が痛んだ。それは確かだ」


高順は杯を手に取り、静かに酒を啜った。


「単于、これだけは言っておく。俺はお前を恨んでいない。董媛も、おそらく恨んでなどいなかった。ただ、お前の無神経さが、時として人を深く傷つける。それだけは覚えておいてほしい。そして、陳宮どのの策に乗る前に、一度だけ自分の頭で考える癖をつけてほしい。お前はもはやただの武人ではない。匈奴の単于なのだから」


「ああ。姉の話は、もうしない。公台にもそう伝える」


「それでよい」


二人はしばらく無言で酒を酌み交わした。馬乳酒は確かに強かった。口に含むと、酸味と共にアルコールの刺激が鼻腔を抜ける。北の草原の味だった。


「孝父、俺はこれから匈奴の地に帰る。娘は陛下に託した。俺は俺で、草原の王として民を治める」


「それがよい」


「だが、もし何かあれば、いつでも俺を呼べ。かつての主君として、いや、友として、お前の力になる」


「友、か」


高順は微かに笑った。


「孟徳にも同じことを言われた。俺は友運だけはいいらしい」


「曹操と俺を同列に扱うな」


呂布は憮然とした顔をしたが、その目は笑っていた。


呂布が洛陽を発ったのは、それから三日後のことだった。娘の玲綺を後宮に残し、彼は匈奴の地へと帰っていく。見送りには皇帝をはじめ、曹操、高順、そして多くの廷臣たちが立ち会った。


董媛は見送りには姿を見せなかった。高順は一人で城門の上に立ち、遠ざかっていく呂布の騎馬隊を見下ろしていた。


呂布は赤兎馬に跨り、匈奴の騎馬隊を率いて洛陽を後にした。その背中は、かつて虎牢関で見た飛将軍のものと少しも変わらない。ただ、その手に戟はなかった。代わりに、草原の王としての杖が握られている。


高順はその姿を見送りながら、昨夜、董媛が言った言葉を思い出していた。


「私はもう、あの男を憎みません。憎しみは疲れるだけです。でも、許しもしません。ただ、なかったことにします。あの男は、私の過去にはいたけれど、未来にはいない。もう媛妹と呼ばれることもない。そう思うことにしました」


それは董媛なりの決別だった。愛も憎しみも、すべてを過去に置き去りにして、前を向くこと。高順はその強さを、心から誇りに思った。


城門の上から戻ると、董媛が王府の門の前に立っていた。彼女の手には、手入れの終わった陌刀がある。


「夫君、そろそろ訓練場に行きませんか。飛熊衛の若い者たちが、夫君の指導を待っております」


「ああ。行こう」


高順は董媛の手を取り、二人で訓練場へと歩き出した。


洛陽の夏は、まだまだ続く。曹操の娘・曹節が後宮に入り、呂布の娘・呂玲綺が后となったことで、宮廷の勢力図は少しずつ変わり始めていた。曹操は外戚としてさらに発言力を増し、匈奴との関係は安定した。陳宮は今回の策が失敗に終わったことで、次の手を練っていることだろう。


高順は洛陽の王府で、董昭が持ち込む書簡の山と格闘する日々を送っていた。学堂の設立は順調に進み、飛熊衛の訓練も軌道に乗っている。竇輔は西涼で馬騰の学堂設立に関わっているらしく、今のところ不穏な動きは見られなかった。


しかし高順は、胸の奥で燻る小さな火種を感じていた。竇輔の真の狙いは何なのか。陳宮は次の策をどこに仕掛けてくるのか。それを確かめる術は、まだなかった。


董媛が新しい茶を運んできた。陌刀は壁に立てかけられ、彼女の表情はいつもの穏やかさを取り戻している。


「夫君、壊れた柱の修理がようやく終わりました。呂布どのから届いた修理代で、なんとか足りました」


「そうか。次からは、陌刀を振るう前に少しだけ考えてくれると助かる」


「善処します。ただし、約束はできませぬ」


董媛はそう言って微笑んだ。その笑顔にはもう、かつての翳りはなかった。


「でも、もう大丈夫です。私は過去と決別しました。これからは夫君と、お義姉さまと、飛熊衛の将兵たちのために生きます」


「媛、それはお前のために生きることになるのか」


「はい。それが私の幸せですから」


高順はそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。


洛陽の夏空は、今日もどこまでも青く澄み渡っている。董媛の心の傷が完全に癒えるには、まだ時間がかかるかもしれない。しかし彼女は確かに、前に進み始めていた。高順はそのことを、心から嬉しく思った。

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