第5話 崩れる城
研究室には、ここ数日ずっと甘い空気が流れていた。
キーボードの音の合間に、ぎこちない会話が増えている。
「栂野、今日も一緒にやらないか」
「はい……!」
秋一郎は、以前よりずっと柔らかい表情で話しかけてくれる。
嫉妬作戦の一件以来、彼の視線は明らかに変わった。
HUDには、容赦なく数字が踊る。
「陥落率:92%」
「状態:恋愛」
(……こんな数字、見たくないのに)
スマートグラスを掛けるたび、胸がきゅっと締めつけられる。
(この幸せは……全部、偽物の上にある)
そんな恐怖が、日に日に大きくなっていった。
***
その日の午後。
研究室のドアが開き、冷たい空気が流れ込んだ。
「動かないで。通報により査察に来ました」
黒髪をきっちりまとめた、無駄のない紺のスーツ姿。
「しまこ……さん!」
秋一郎が驚いた声を上げる。
「え、知り合い……?」
「氷見志摩子さん。
大学のコンプライアンス室長で教授の元の奥さん」
志摩子は軽く会釈をすると、
すぐに研究室のメインモニターへ歩み寄った。
「……これは、ひどい!
あなたは、まだ、こんなことやってるの!」
山波教授をきっと睨みつける。
眉をひそめ、ログデータをスクロールする。
「山波先生!
このプロジェクト、倫理的に完全アウトです。
被験者のプライバシーを盗み、感情を数値化し、操作するなんて。
特にこの“被験体X”のバイタルデータ……
本人の同意は取っているのですか?」
(……被験体X?)
秋一郎が手を止める。
「被験体X? それは誰のことですか、氷見さん」
志摩子は当然のように答えた。
「小川くん、知らされていないの?
この栂野さんのスマートグラスが24時間スキャンし続けている。
あなたの心拍数や瞳孔のデータが収集されているわ」
空気が、凍りついた。
***
「……栂野」
秋一郎が、ゆっくりとこちらを向く。
「君がいつも付けていたその眼鏡……見せてくれないか」
「ま、待って、それは……!」
拒もうとした瞬間、
秋一郎は無言で手を伸ばし、スマートグラスを取り上げた。
そして、自分の顔に装着する。
レンズ越しに帆奈美を見た瞬間、秋一郎の視界に文字が溢れた。
「ターゲット:小川秋一郎」
「現在の心理状態:混乱・失望」
「推奨アクション:『兵は詭道なり』。
泣き落としで同情を誘い、戦況を立て直せ」
秋一郎は、力なく笑った。
「……そうか。僕が君にドキドキしていた時、
君はずっと……これを見ていたのか」
「ち、違うの、これは……!」
「僕の気持ちが、“バグ”か“成功報酬”に見えていたのか」
スマートグラスが床に落ち、乾いた音を立てた。
帆奈美の言葉を待つことなく、秋一郎は研究室を出ていった。
***
「秋一郎さん!」
追いかけようとするのに、足が動かない。
山波教授が、冷淡に言い放つ。
「まあ、データは取れた。これで論文は書けるな」
「ダメです! データは全て没収します」
「おい、志摩子、それはないだろう」
山波教授が、がっくりと肩を落とす。
「スマートグラス破損。
これよりホスト稼働に切り替えます」
AI孫子が、モニターを通じて無機質な声で告げる。
「ミッション失敗」
「ターゲットとの信頼関係毀損」
「これ以上の行軍は不可能」
「全データのアーカイブ化完了」
「システム終了」
(……そんなこと、どうでもいい)
スマートグラスの動作ランプが消えた。
「……いやだ……いやだよ……」
帆奈美は、何も映らなくなったスマートグラスを握りしめた。
涙が止まらなかった。
(秋一郎さん……ごめんなさい……)
研究室の片隅で、彼女は独り泣き崩れた。




