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第9話:では、少しばかりの休暇を

 出立の朝は、驚くほど穏やかだった。

 空は晴れ渡り、風もやわらかい。

 まるで、何事も起きていないかのように。


「……本当に、行くのね」

 リディアが小さく呟いた。

「ええ」

 エリシアは、いつもと変わらぬ声音で答える。

「予定通りですわ」


 城門の外には、整然と並ぶ馬車。

 豪奢ではない。

 だが、長距離移動に最適化された、実務的な編成。


 公爵令嬢でありながら、その選択に無駄はない。

(最後まで、らしいですわね)

 誰かが心の中で思ったが、口には出さない。


「ルートの最終確認を」

 宰相が、手元の書類を広げる。

「第一関門ヴァルディア商業国は問題なし。第二関門セレーネ水都連邦も通達済み。第三――受け入れ先のルミナス王国は、すでに準備を整えているとのことです」

「結構」

 エリシアは頷く。


「三つ先の国、ですか」

 騎士団長が腕を組む。

「なぜそこまで?」

「近すぎると、巻き込まれますもの」

 あっさりと答える。

「かといって遠すぎると、対応が遅れる」

「……なるほど」

 短い説明で、全員が納得する。


 この“当たり前に理解できる空気”が、もうここにはないのだと――誰もが薄々感じていた。


「荷物の最終確認、完了しております」

 侍女長が一礼する。

「無駄なものは?」

「ございません」

「結構」

 衣装は最低限。

 装飾品も絞られている。


 その代わり――

「書類、資金、各種帳簿はすべて分散管理しております」

「ええ、見事ですわ」

 エリシアは微笑む。


 その笑みには、確かな信頼があった。

「……なんというか」

 騎士団長が、ふと呟く。

「遠征前より整っていないか?」

「気のせいではありません」

 宰相が即答した。

「精神的負担が減っております」

「は?」

「“あの方々”の対応がなくなりましたので」

「……ああ」

 全員が納得した。


「お嬢様」

 侍女が、そっと声をかける。

「本当に、よろしいのですか?」

「何がかしら?」

「その……少し、楽しそうで」


 一瞬の沈黙。

 そして。


「ええ」

 エリシアは、あっさりと頷いた。

「少しばかりの休暇ですもの」

 その言葉に、周囲の空気がわずかに緩む。


「温暖な気候、美味しい食事、落ち着いた環境」

 指折り数える。

「仕事も減るでしょうし」

「減る、のか……?」

 宰相が遠い目をした。

「“あの方々”の分は確実に減りますわ」

「それは……確かに」

 妙に納得してしまう。


◇◆◇◆◇◆


 一方、その頃。

 王都の一角では。

「おい、もう聞いたか?」

「ああ、有能連中がごっそり出ていくって話だろ?」

「マジかよ」

「まあいいんじゃねえか? 新しい時代なんだし」

 軽い調子で笑い合う。


 その横で。

「……いや」

 一人の商人が、低く呟いた。

「いいわけがねえだろ」

「何がだよ」

「抜ける面子、見たか?」

「いや?」

「見てこい。笑えなくなるぞ」

 そう言って、彼は立ち上がった。


「どこ行くんだ?」

「仕込みだ」

「仕込み?」

「“次”のな」

 それ以上は語らない。

 だが、その足取りは早かった。




 別の場所でも。

「今なら、規制も緩むしよ」

「稼ぎ時だな!」

「どこまで攻める?」

「限界までだろ!」

 目を輝かせる若い商人たち。

 その後ろで。


「……いつ抜ける」

 年配の商人が、ぼそりと呟く。

「は?」

「どこで引くつもりだ」

「何言ってんだよ、これからだろ?」

「だから聞いてんだよ」

 鋭い目。

「甘い汁は、長く吸うもんじゃねえ」

「……」

「引き際を決めてねえやつから死ぬぞ」

 重い言葉。


 だが。

「大げさだなあ」

 笑い飛ばされる。

 その反応を見て。

(……間に合うやつは、半分ってとこか)

 商人は、静かに目を細めた。


 そして大半の人々は。

「これから良くなるんだろ?」

「うん、きっとね!」

 何も疑わずに、笑っていた。


 危機など、考えもしない。

 考える必要もないと、思っている。


◇◆◇◆◇◆


「では」

 エリシアが、馬車に乗り込む。

「参りましょうか」

 その一言で、全てが動き出す。


 馬車が、ゆっくりと進む。

 誰も振り返らない。

 振り返る必要がないからだ。


 城壁を越えたところで。

「……静かですわね」

 リディアが呟く。

「ええ」

 エリシアは外を見た。


 遠くに見える王都。

 そこには、まだ歓声が残っている。

「向こうは、賑やかなようですが」

「そうですわね」

 少しだけ、間を置いて。


「良いことですわ」

 その言葉に、誰も否定しなかった。


 こうして。

 旧体制は、静かにその場を去った。

 逃げるでもなく、追われるでもなく。


 ただ。

 “任せた”だけだ。



 残された側は、まだ気づいていない。


 去った者たちは、すでに次を見ていることに。


 そして。

 同じように動き出している者が――

 少数だが、確かに存在していることにも。


 それでも。

 多くの者にとっては。


 まだこれは――

 “始まり”でしかなかった。

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