第1話:国を回す者
私は、婚約破棄された。
自由を謳う王子に。
その結果、国外追放となった。
なぜこのような事になったのか。
その後どうなるのか。
それは――――――
◇◆◇◆◇◆
アルヴェリア王城の朝は早い。
――正確に言えば、“一部の人間にとってだけ”早い。
「……これ、昨日の分ですよね?」
机の上に積まれた書類の山を見て、エリシア・フォン・グランツ公爵令嬢は静かに問いかけた。
「はい、昨日“まで”の分でございます」
にこやかに答えたのは宰相補佐官だ。
「……では、今朝の分は?」
「これから届きます」
「そう」
エリシアは一度だけ目を閉じた。
そして、すぐに開く。
「では、片付けましょう。国は待ってくれませんものね」
さらりとした言葉と共に、彼女は最初の書類を手に取った。
――財務報告。
――赤字。いつも通り。
――いや、いつもより悪い。
(原因は……ああ、やっぱり)
ページをめくる指が止まる。
王太子主導による「民の笑顔倍増計画」。
名前だけはやたらと立派だが、内容は実に簡潔だ。
――税を一部軽減し、その代わりに“善意の寄付”を募る。
(善意で国家が回るなら、誰も苦労しませんわ)
エリシアは無表情のまま、赤字の穴埋め案を書き込んでいく。
削減できる支出、延期可能な事業、外交での譲歩。
そして――王太子に気づかれないように計画を“修正”する方法。
慣れたものだ。
そう、慣れてしまっているのだ。
「お嬢様」
控えていた侍女が、そっと声をかける。
「本日は、王太子殿下との打ち合わせがございます」
「ええ、存じていますわ」
エリシアは手を止めない。
「議題は?」
「“理想の国家像についての自由討論”とのことです」
ぴたり、とペンが止まった。
「……自由、ですか」
「はい。特に資料の指定はないそうで」
「つまり、何も考えていない、と」
「恐れながら」
「正しい認識ですわね」
エリシアは再びペンを走らせる。
(“自由討論”の前に、まず現状認識をしていただきたいのですが)
思わないでもない。
だが、それを言っても意味がないことも、彼女はよく知っている。
なぜなら――
「エリシア!」
扉が勢いよく開かれた。
「ちょうどいいところにいたな!」
現れたのは、この国の王太子――レオンハルトである。
朝から妙に元気だ。
(嫌な予感しかしませんわね)
エリシアは顔を上げ、優雅に一礼した。
「おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう。いやあ、昨夜は素晴らしいことを思いついてな!」
「はあ」
すでに胃が痛い。主に周囲の人間が。
後ろに控えていた宰相ガイウス・ローデンが、さりげなく胸元を押さえている。
騎士団長レオン・ヴァルクは遠い目をしていた。
「聞いてくれ! 我が国はもっと“優しく”あるべきだと思うのだ!」
「と、申されますと?」
「うむ。例えばだな――税を減らし、兵の訓練も減らし、その分、民との交流を増やすのだ!」
その場の空気が、すっと静まった。
(ああ、これは“昨日の続き”ですわね)
エリシアは理解した。
そして同時に、これをどう“修正”するか思考を巡らせる。
「殿下」
穏やかな声で、しかし一切の迷いなく問いかける。
「税を減らした場合の、財源の補填についてはどのようにお考えでしょうか?」
「うむ、それはだな……」
一瞬の沈黙。
「……民の善意、ではだめだろうか?」
(だめに決まっておりますわ)
だが、それをそのまま言うわけにはいかない。
「善意は素晴らしいものですが、安定性に欠けますわね」
「む……では、どうすればよい?」
「例えば、段階的な減税と並行して、新たな産業を育成し――」
「難しい話はよそう!」
ぱん、と手を打って、王太子は笑った。
「もっとこう、心で分かり合うのだ! 理屈ではなく!」
宰相ガイウスが、静かに崩れ落ちた。
騎士団長レオンが、目を閉じて何かを祈っている。
侍女が、慣れた手つきで宰相を支えている。
(いつもの光景ですわね)
エリシアは深く息を吸い、そして吐いた。
「承知いたしました、殿下」
にこり、と微笑む。
「では“心で分かり合う”ための制度設計を、こちらで整えておきますわ」
「おお、頼もしいなエリシア!」
何一つ理解していない笑顔だった。
だが――それでいい。
理解されなくても、国が回ればいいのだから。
少なくとも、今は。
「では、後ほどの“自由討論”でお会いしましょう」
「ああ、楽しみにしている!」
嵐のように現れ、嵐のように去っていく王太子。
扉が閉まった瞬間。
沈黙。
そして。
「……もう無理です」
床に座り込んだまま、宰相が呟いた。
「お気持ちは分かります」
騎士団長が遠い目で頷く。
「ですが宰相殿、まだ午前です」
「だから何ですか」
「本番は午後です」
「やめてください」
エリシアは、そんなやり取りを横目に見ながら、静かに次の書類を手に取った。
「さあ、皆様」
落ち着いた声で言う。
「まだやるべきことが山積みですわ」
誰もが顔を上げる。
その中心にいるのは、一人の令嬢。
本来なら、ただ美しく微笑んでいればよいはずの立場の少女。
だが現実は違う。
「この国は、まだ終わっておりませんもの」
その言葉に、わずかながら力が戻る。
――この国は回っている。
奇跡でも、理想でもない。
ただ。
誰かが、必死に回しているからだ。
そしてその“誰か”が、どれほど少数であるかを――
この時、まだ多くの者は知らなかった。




