第1話:婚約破棄?――では、国ごと終わりますがよろしいですか
アルヴェリア王城の朝は早い。
――正確に言えば、“一部の人間にとってだけ”早い。
「……これ、昨日の分ですよね?」
机の上に積まれた書類の山を見て、エリシア・フォン・グランツ公爵令嬢は静かに問いかけた。
「はい、昨日“まで”の分でございます」
にこやかに答えたのは宰相補佐官だ。
「……では、今朝の分は?」
「これから届きます」
「そう」
エリシアは一度だけ目を閉じた。
そして、すぐに開く。
「では、片付けましょう。国は待ってくれませんものね」
さらりとした言葉と共に、彼女は最初の書類を手に取った。
――財務報告。
――赤字。いつも通り。
――いや、いつもより悪い。
(原因は……ああ、やっぱり)
ページをめくる指が止まる。
王太子主導による「民の笑顔倍増計画」。
名前だけはやたらと立派だが、内容は実に簡潔だ。
――税を一部軽減し、その代わりに“善意の寄付”を募る。
(善意で国家が回るなら、誰も苦労しませんわ)
エリシアは無表情のまま、赤字の穴埋め案を書き込んでいく。
削減できる支出、延期可能な事業、外交での譲歩。
そして――王太子に気づかれないように計画を“修正”する方法。
慣れたものだ。
そう、慣れてしまっているのだ。
「お嬢様」
控えていた侍女が、そっと声をかける。
「本日は、王太子殿下との打ち合わせがございます」
「ええ、存じていますわ」
エリシアは手を止めない。
「議題は?」
「“理想の国家像についての自由討論”とのことです」
ぴたり、とペンが止まった。
「……自由、ですか」
「はい。特に資料の指定はないそうで」
「つまり、何も考えていない、と」
「恐れながら」
「正しい認識ですわね」
エリシアは再びペンを走らせる。
(“自由討論”の前に、まず現状認識をしていただきたいのですが)
思わないでもない。
だが、それを言っても意味がないことも、彼女はよく知っている。
なぜなら――
「エリシア!」
扉が勢いよく開かれた。
「ちょうどいいところにいたな!」
現れたのは、この国の王太子――レオンハルトである。
朝から妙に元気だ。
(嫌な予感しかしませんわね)
エリシアは顔を上げ、優雅に一礼した。
「おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう。いやあ、昨夜は素晴らしいことを思いついてな!」
「はあ」
すでに胃が痛い。主に周囲の人間が。
後ろに控えていた宰相ガイウス・ローデンが、さりげなく胸元を押さえている。
騎士団長レオン・ヴァルクは遠い目をしていた。
「聞いてくれ! 我が国はもっと“優しく”あるべきだと思うのだ!」
「と、申されますと?」
「うむ。例えばだな――税を減らし、兵の訓練も減らし、その分、民との交流を増やすのだ!」
その場の空気が、すっと静まった。
(ああ、これは“昨日の続き”ですわね)
エリシアは理解した。
そして同時に、これをどう“修正”するか思考を巡らせる。
「殿下」
穏やかな声で、しかし一切の迷いなく問いかける。
「税を減らした場合の、財源の補填についてはどのようにお考えでしょうか?」
「うむ、それはだな……」
一瞬の沈黙。
「……民の善意、ではだめだろうか?」
(だめに決まっておりますわ)
だが、それをそのまま言うわけにはいかない。
「善意は素晴らしいものですが、安定性に欠けますわね」
「む……では、どうすればよい?」
「例えば、段階的な減税と並行して、新たな産業を育成し――」
「難しい話はよそう!」
ぱん、と手を打って、王太子は笑った。
「もっとこう、心で分かり合うのだ! 理屈ではなく!」
宰相ガイウスが、静かに崩れ落ちた。
騎士団長レオンが、目を閉じて何かを祈っている。
侍女が、慣れた手つきで宰相を支えている。
(いつもの光景ですわね)
エリシアは深く息を吸い、そして吐いた。
「承知いたしました、殿下」
にこり、と微笑む。
「では“心で分かり合う”ための制度設計を、こちらで整えておきますわ」
「おお、頼もしいなエリシア!」
何一つ理解していない笑顔だった。
だが――それでいい。
理解されなくても、国が回ればいいのだから。
少なくとも、今は。
「では、後ほどの“自由討論”でお会いしましょう」
「ああ、楽しみにしている!」
嵐のように現れ、嵐のように去っていく王太子。
扉が閉まった瞬間。
沈黙。
そして。
「……もう無理です」
床に座り込んだまま、宰相が呟いた。
「お気持ちは分かります」
騎士団長が遠い目で頷く。
「ですが宰相殿、まだ午前です」
「だから何ですか」
「本番は午後です」
「やめてください」
エリシアは、そんなやり取りを横目に見ながら、静かに次の書類を手に取った。
「さあ、皆様」
落ち着いた声で言う。
「まだやるべきことが山積みですわ」
誰もが顔を上げる。
その中心にいるのは、一人の令嬢。
本来なら、ただ美しく微笑んでいればよいはずの立場の少女。
だが現実は違う。
「この国は、まだ終わっておりませんもの」
その言葉に、わずかながら力が戻る。
――この国は回っている。
奇跡でも、理想でもない。
ただ。
誰かが、必死に回しているからだ。
そしてその“誰か”が、どれほど少数であるかを――
この時、まだ多くの者は知らなかった。




