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「玻璃の月に触れる」  作者: シンドゥー


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3/3

第三話

改めて読み返して見るとここまでよく書いたものだな。私は飽き性で日記や記録を付けるのあまり長続きするタイプではない。それでも私は書いた。それは"美"に対する私の思いは本気なのだということだ。それを実感するのは性格の変化だと思う。私はもともと人を過度に憎んだりはしたことはなかったそれでも今の私は桔梗をひどく憎んでいる。人は周囲の人間に与えられた役割やキャラを演じてアイデンティティを形成していくものだ思い込んでたが。案外己の自我1つで自由に曲げられるのか。

さてお気持ちはここまでにして最近の近況について記していこう。


朝の儀式はいつの間にか静かな宗教になっていた。

目覚ましの音より先に目が覚め、布団の中で手探りにして体重計の上に立つ。数字は冷たく、しかし正直に私を返す。ノートに小さな字で書き込む。日付、体重、前日との差。数字が目標に近づくと胸の奥が少しだけ軽くなる。届かなければ、鏡の前で自分を叱る。体重計の数字は私の世界の尺度だった。


授業の合間、私はスマホを手に取る回数が増えていた。桔梗の投稿、先輩のストーリー、霞のいいね。指先が画面を滑るたびに、胸の中の小さな火種がくすぶる。

そこでふと広告が目に入る。美容クリニックのビフォーアフター、短期間で顔が変わるという謳い文句、安価な施術の宣伝。最初は無視していた。だが無視することがだんだん難しくなっていった。

効果の速さ。焦る人間においてその言葉は甘い蜜であり、耐え難い誘惑だ。


昼休み、財布の中身を確かめる。残高は千数百円。美容液のボトルは半分を過ぎている。私は計算をした。バイトを増やせばいい。節約すればいい。だが節約にも限界がある。鏡の中の変化は確かにあったが、それはまだ"振り返らせる"ほどの変化ではない。桔梗の光は遥か遠くそれは天を超え宙にて輝く星であった。地を這いつくばり星を見上げるのはもううんざりなんだ。私はもっと早く、もっと確実に結果を出したかった。


ある夜、帰宅してメールを開くと、見知らぬアカウントからダイレクトメッセージが届いていた。件名は短く、誘いのようだった。


「短期で変わりたいなら、一度相談に来てみませんか?初回割引あります」


リンクを開くと、クリニックのページが出てきた。症例写真は確かに劇的で、説明は簡潔だった。リスクの記載は小さく、注意書きはさらに小さかった。私はスクロールしながら、胸の奥がざわつくのを感じた。理性は警告する。滅びに至る門は常に広いと。だがその夜、鏡の前で自分の顔をじっと見つめると、理性は薄い霧のように消えた。結果が欲しかった。早く、確実に、誰もが振り返るような美しさが欲しかった。


翌日、私はバイトのシフトを増やすことにした。夜のカフェで皿を運び、コーヒーを淹れ、レジを打つ。手は疲れ、足は重く、だが財布の中の数字が少しずつ増えるのを見ると、胸の中の火はまた少しだけ燃え上がった。帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見て、私は小さく笑った。笑顔はまだぎこちないが、確かにそこにあった。


だが、努力は必ずしも安心をもたらさない。ある週末、サークルの撮影会で桔梗と霞がふたりで話しているのを見かけた。遠目には何でもない光景だった。桔梗が笑い、霞がそれに合わせて微笑む。霞の手が無意識に桔梗の肩に触れ、何かを伝えている。私はその場に立ち尽くし、胸の中で何かがドロドロと蠢いていたものが固まるのを感じた。説明のつかない怒りと、底に沈む寂しさ。霞は私の恋人だ。だがその手の動きは、私の中で別の意味を持ってしまう。私は自分がどれほど小さな存在に見えているかを、再び突きつけられた。


帰宅してから、私はその光景を何度も反芻した。霞の笑顔は私にも向けられていたはずだ。だがその笑顔の奥に、桔梗の影があるのではないかという疑念が消えない。スマホを開き、霞のアカウントを確認する。いいねの履歴に桔梗の投稿が並んでいるのを見て、胸の中の火は一気に燃え上がった。理性はまたもや後退する。私は自分を正当化する言葉を探した。いいねは無意識の行為だ。だが言い訳は薄く、私の不安は深まるばかりだった。


その夜、私は決断した。もう少しだけ、もっと確実に変わるために、私はクリニックに連絡を取ることにした。初回割引の期限は今月末までだと書いてあった。私は電話番号を押し、声を震わせながら予約を入れた。オペレーターは丁寧で、説明は簡潔だった。リスクの話はあったが、専門用語で淡々と流されると、私の耳には遠い音にしか聞こえなかった。予約を終えた瞬間、胸の中に小さな勝利感が生まれた。これで一歩進める。これで桔梗に追いつける。これで霞の視線を自分だけに向けさせられるかもしれない。


だが勝利感は長くは続かなかった。翌朝、鏡の前で顔を洗っていると、手が震えた。洗面台の水が指先を冷やし、現実が戻ってくる。私は自分の決断がどれほどの代償を伴うかを考えた。金銭的な負担、身体への影響、周囲の目。だがその瞬間、鏡の中の自分が私を見返した。目は少し鋭く、口元は引き締まっていた。私は自分に言い聞かせた。代償は払う。結果が出れば、それでいい。そもそも代償を払わずしてどうして何かを得られよう。


クリニックの待合室は白く、無機質だった。雑誌のページがめくられる音、受付の小さな電子音。私は椅子に座り、手の中のスマホを握りしめた。予約票の文字が小さく震えて見える。隣の席の女性が雑誌を閉じ、私をちらりと見た。彼女の視線は好奇心と同情が混ざっていた。私はその視線を受け止めることができず、視線をそらした。


診察室に呼ばれ、医師の説明を受ける。リスク、回復期間、期待できる効果。言葉は理性的だが、私の心は既に結果を想像していた。施術の同意書にサインをする手が震えた。ペン先が紙に触れるたびに、私は自分の中で何かを失っていくような気がした。だが同時に、何かを得る予感もあった。得るものは大きい。失うものも大きい。私はその天秤の片方に、自分の未来を乗せた。


帰り道、夜風が頬を撫でる。街灯の下で自分の影が伸びるのを見て、私はふと笑った。その笑いは乾いていて、どこか遠かった。私は自分がどこへ向かっているのか、まだ完全には分からない。ただ一つ確かなのは、もう後戻りはできないということだった。美しさを手に入れるために払う代償は、いつか私自身を形作るだろう。私はその形がどんなものになるかを、恐れと期待の混ざった気持ちで見つめていた。



白い包帯の端が耳の後ろでひんやりと張り付いていた。鏡の前に座ると、顔の輪郭がいつもより少しだけ鋭く見えた。だがそれは、光の角度と腫れが作る幻影に過ぎないことを私は知っていた。鏡の中の目は眠そうで、唇の端にはまだ麻酔の痕が残っている。確かな変化を期待していた手応えは、まだ来ていなかった。


帰宅後、私はベッドに横になりながらスマホを握った。施術前に撮った自分の写真と、今の顔を交互に見比べる。違いはある。だがその違いは、私が想像していた「世界が振り返るほどの差」ではなかった。胸の奥に小さな不満が生まれる。もっと、もっと劇的に変わるはずだったのに——という苛立ち。医師から全て聞いていた、故にわかっていた。期待し過ぎない方が良いと。それでも期待せずにはいられなかったのだ。金やプライド私は多くの代償を支払った。それ相応の対価を期待するのは当たり前だろ。


翌日、腫れが引き始めると同時に、SNSの通知が鳴った。桔梗の投稿にいいねを押す霞。先輩のコメント。サークルのグループチャットの軽いやり取り。私の施術については誰にも言っていない。だが、誰かが気づくのではないかという期待と恐怖が交互に襲う。変化は他者の視線で確かめられて初めて意味を持つ。私はその視線を待っていた。


数日後、腫れが落ち着き、写真を撮る勇気が出た。角度を変え、光を選び、フィルターをかける。加工は裏切らない。画面の中の私は、確かに以前よりも輪郭がはっきりしていた。だがその写真を投稿しても、反応は思ったほど大きくはなかった。いいねは増えたが、桔梗の投稿に群がる数百の波には遠く及ばない。数字は冷酷だ。私は数字を見つめ、胸の中の空洞がまた広がるのを感じた。



日常は少しずつ変わっていった。バイトのシフトは増え、睡眠時間は削られ、肌の手入れはより念入りになった。施術の効果を維持するためのクリーム、サプリメント、次に試すべきと勧められた小さな処置の情報。出費は膨らみ、財布の中身はまた薄くなっていく。だが私はそれを「投資」と呼んだ。これはギャンブルではない投資だ。投資はいつか回収されるはずだ私はそう自分に言い聞かせた。


サークルの活動では、以前よりも自分を撮らせることに躊躇がなくなっていた。写真に写る自分の角度を研究し、笑い方を微調整し、視線の先を計算する。桔梗の隣に立つとき、私は以前のようにただ背景に溶けることを拒んだ。だが桔梗は相変わらず無邪気に笑い、周囲の空気を変える。勝てない、敵わない桔梗に対する妬ましさは増すばかりだった。



ある日、展示会の準備で桔梗がメインのパネルの前に立ち、先輩たちが写真を囲んで話しているのを見た。人々の視線が自然と桔梗に集まる。私はその輪の外側で、カメラのファインダー越しに彼女を見つめた。シャッターを切るたびに、胸の奥の何かが締め付けられる。撮った写真を確認すると、やはり桔梗の写真は光を掴んでいた。私の写真は、光を追いかけるだけだった。光は速く追いつくことは出来ない。小さい頃は同じだったはず、そう同格だったのだ。なのに今は、桔梗は速すぎる。どんなスピードど追いかけたら私は桔梗に並べるのか。



関係は少しずつ亀裂を見せ始める。霞との会話はぎこちなく、些細なことで言葉が途切れる。霞は変化に気づいているのか、あるいは気づかないふりをしているのか。ある夜、霞が私の顔をじっと見て言った。


「無理してない? 最近、頑張りすぎてる気がするよ」


その言葉は優しさのつもりだと分かっている。だが私の耳には、同情と距離が混ざった音として届いた。私はその言葉を受け流し、笑ってごまかした。だが笑顔の裏で、私は自分がどれほど脆い存在かを再確認していた。霞の視線が桔梗に向くたび、私の中の不安は再燃する。疑念は小さな亀裂から大きな亀裂へと広がっていった。


ある週末、私は桔梗の家の前で偶然二人を見かけた。桔梗が何かを話し、霞がそれに笑って応じる。二人の距離は自然で、私の存在はそこに必要ないように見えた。胸の中で何かが切れた。私はその場から走り去り、駅のトイレで自分の顔を見つめた。鏡の中の目は赤く、呼吸は荒かった。自分が何を求めているのか、何を失っているのかが、はっきりと見えた瞬間だった。


変化は外見だけでは終わらなかった。私の内面の輪郭も、少しずつ変形していった。人に好かれることと、選ばれることの違いを執拗に考えるようになり、他者の好意を素直に受け取れなくなった。先輩の優しさは慰めではなく、私の弱さを暴く刃に見えた。友人の心配は同情に思え、同情は私の誇りを傷つける。私は他者の言葉をすべて測り、裏を読む癖がついた。それだけじゃない、私は可愛くない女子や弱い男子を見下すようになった。ダメだとは分かっている。桔梗だったらそんな事はしないし、それがバレたら人に好かれなくなってしまう。嫌でも馬鹿馬鹿しく思える人にも優しく接しなくてはいけない。私を主人公へと押し上げるのは周りの人の存在なのだから。



ある夜、サークルのチャットに桔梗の写真が上がった。コメントはいつも通りの賛辞で溢れていた。私はスマホを握りしめ、画面をスクロールする手が震えた。指は無意識に「いいね」を押しそうになったが、止めた。私の中で何かが変わって来ていた。承認を求める行為が、同時に自分を裏切る行為に思えたのだ。


その代わりに、私は別の行動を選んだ。夜中に自分の写真を撮り、加工し、細部を修正し、完璧に近い一枚を作り上げる。そしてそれを匿名のアカウントに投稿した。反応はすぐに来た。知らない人たちの称賛、短いメッセージ、フォロー。匿名の世界では、私の顔は評価され、数字は増えた。だがその数字は私の本名のアカウントには反映されない。匿名の称賛は、私の現実を変えない。仮初めの煌めきにすぎないかった。


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夜、ベッドに横たわりながら、私は自分の手を見つめる。施術の痕は薄くなり、肌は滑らかになっていた。だが手のひらの中にあるのは、満たされない感情と、次に払うべき代償の計算だった。美しさは手に入れたかもしれない。だがそれは、私が想像していた「世界が振り返る美しさ」とは違っていた。世界は簡単には変わらない。人の視線は移ろいやすく、評価は刹那的だ。


私は静かに立ち上がり、窓の外の月を見た。玻璃のように脆く、触れれば砕ける光。私はその光に手を伸ばす。しかし指先に触れるのは冷たいガラスだけだ。だがその冷たさが、私の決意を冷ますことはなかった。むしろ、冷たさは私を研ぎ澄ませる。次に何をするか、どれだけの代償を払うか——計算は続く。世界が私を主人公として認めるその日まで、私は止まらない。

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