第一話
私には、すべてがあった。
これは自慢ではない。ただの事実として、記す必要がある。なぜなら私はこれから、自分がいかに不幸であるかを書き残していくつもりで、その前に一度だけ、公平な目で自分の手札を確認しておきたいからだ。
恋人がいた。名前は鈴草 霞といった。顔は悪くなかったし、声も低くて聞きやすかったし、私が落ち込んでいる時には察して連絡をくれた。友人もいた。複数形で言えるくらいには。サークルで知り合った子たちで、一緒にご飯を食べたり、試験前にノートを見せ合ったりする程度の、過不足ない関係だった。大学にも受かった。第一志望ではなかったけれど、親が安堵した顔をするくらいには、まともなところに。
そして親友がいた。
幼い頃からずっと隣にいる、勇城桔梗という女が。
だから私は幸福であるはずだった。
はずだった、という言葉の意味を勘繰って欲しい。
四月、大学が始まった。
構内は新入生の熱気でむせ返っていた。知らない顔、知らない声、知らない笑い方をする人間たちが、示し合わせたように眩しい服を着て歩き回っていた。私はその中に溶け込もうとして、うまくできなくて、気づいたら桔梗の隣に立っていた。
桔梗の隣にいると自然と何でも上手くいった。昔からそうだった。桔梗が笑えば周り笑う。桔梗が話せば周りは話を聞く。桔梗が行く方向に周りはついて行く。本人には自覚はないようだがただそこに存在するだけで空気を支配していた。私はそんな桔梗の隣にずっといた。
入学から間もない頃、桔梗が写真サークルに入ろうと言った。
理由を聞いたら
「面白そうじゃない?」
それだけだった。私は特に写真を撮るのも見るのもが好きだったわけでもない。でも桔梗がそう言うなら、と思った。昔からそうだった。桔梗の「面白そう」は大抵当たっていたし、桔梗のいる場所はいつも居心地が良かった。
結局私は桔梗の言葉に身を任せるように写真サークルに入った。
サークルの見学日桔梗の顔を見て先輩達の顔つきが変わった。女の先輩も男の先輩も見学をしに来た同級生も例外なく魅了し空気を支配した。桔梗は長い髪を棚引かせ少し緊張をした様子で頭を下げた。それすら絵になった。さながら世界が待ち望んでいた主役がやっと姿を見せたかのようで。
そして私は主役を引き立てる脇役であり、背景だった。
その後サークルに馴染むのに時間はかからなかった。
正確には桔梗がサークルに馴染み私はその周囲にいるという形で収まった。
虎の威を借る狐
私は狐、だけどこの頃は感謝していた。桔梗の友人は私の友人になり、桔梗が笑う輪の中に私も入れてもらった。そのおかげで私は霞とも出会うこともできて恋人どうしになることができた。
穏やかで平和な日常。自分の力で得たものでなくとも嬉しかった。
午前中に講義を受けて、学食で桔梗と昼を食べて、午後もまた講義を受けて、夕方にサークルの部室に寄ることもあった。週末は霞と会った。霞は私の話をちゃんと聞いてくれたし、手を繋いで歩くのが好きだった。桔梗とは帰り道が一緒のことも多くて、二人で他愛ない話をしながら電車に乗った。
とても満ちていた。
なのに息が浅く苦しかった。
理由も分からない違和感を抱えたまま春が流れ夏が芽を出した。
サークルの合宿で海の近くに行った。潮風と紫外線が肌を刺激して不快だったが、ビーチバレーや砂遊びをするのは楽しかった。誰かがギターを持ってきていて、上手くはなかったけれど声を出して歌うのは凄い気分が良かった。
楽しかった間違いなくそう言える。少なからず最初は。
桔梗はいつの間にか先輩たちの輪の中心にいた。よく笑っていた。誰かが話しかければ丁寧に答えて、誰かが困った顔をしていれば自然と声をかけていた。計算している様子がまったくなかった。ただそこにいて、ただそのようにしているだけだった。
私は桔梗を呆然と観察していた。
霞が
「桔梗さんて人気だよね。」
と言った
私は
「そうだね。昔からああやって人気なんだよ。」
それだけだった。その時は。
夜、写真がサークルのグループに流れた。
幹事の先輩が撮りまとめた記録だった。
海と人、笑顔と笑顔。私も何枚かに映っていた。桔梗の隣で、ちゃんと笑っていた。
その中の桔梗と私が写ったツーショットの写真をSNSに投稿した。
瞬く間に通知が来た。来た、来た、また来た。
私はスマホを持ったまま、ひとつひとつ読んだ。
桔梗ちゃん可愛すぎるんだけど♡
桔梗さんってモデルとかやってないんですか笑
桔梗ちゃんの笑顔ほんとに好きです〜
桔梗ちゃん今日も綺麗だったな〜
桔梗ちゃんの隣の子も可愛いね。
三十四件。
三十三件が、桔梗に向けられていた。
私に向けられたのは一件だった。桔梗ちゃんの隣の子も可愛いね。
隣の子。
"隣の子"
私には名前がある。天鳳仙花という名前が。両親がつけてくれたそれなりに凝った美しい名が。
でもその夜、私は名前のない人になった。物語のサブキャラですら名前を与えられている。でも私には与えられなかった。
私は桔梗という主人公がいる物語のサブキャラにすらなることができないモブ。
幼馴染で小学校も中学校も高校も一緒だったのに。
同じ部活に入り同じスポーツをして同じように勉強してきたのに。
私は結局
桔梗を美しい花にするためだけの栄養分、背景、供え物。
スマホを伏せた。
布団を被った。隣で寝ている桔梗に泣いているのをバレたくなくて。結構長い時間泣いたと思う。最初は悲しかった、悔しかった。でも落ち着いた後、私を襲ったのは怒り憎しみ嫉妬だった。
私は桔梗と何が違う?何が足りない?何を持ち得ない?
何が? 何を? 何で?
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
答えは中々出なかった。
私が桔梗と比べて劣るに人間である事は分かっていた。それは周知の事実だったから。
それでも主人公とモブになるほどの明確な差はどこから来てるのか知りたかった、理解したかった。
一通り泣き終わり喉が乾いた。
私は布団から出て水を飲みに行った。スマホを極力見ないように意識した。
でも手に取ってしまう。現代病なのかもしれない見れば傷つくことなんて分かってたそれでも見てしまう。
結果的に見たことは正解だったのかもしれない、なぜなら私はこの疑念の種に芽を咲かせ事ができたのだから。
スマホの画面には、まだコメントが増えていた。
深夜だというのに。こんな時間にも桔梗への賛辞は止まらない。私はその通知の一つ一つを、傷口に指を突っ込むような気持ちで読んだ。
そして気づいた。
コメントをしている人間の中に、霞のアカウントがあった。
桔梗さん綺麗すぎ笑 仙花と並んでても映えるね
映えるね。
私と並んでも、映える。
私は霞の恋人だ。付き合って3か月になる。毎週末会って、手を繋いで歩いて、私の話を聞いてくれる人だ。その霞が深夜に、私との写真に映った桔梗を綺麗と言っている。
仙花と並んでても、映える。
並んでても、という言葉の意味を私は三秒で理解した。
つまり霞にとって私は、桔梗の美しさを引き立てるための比較対象だ。私と並ぶことで桔梗はより映える。私はその為にそこにいた。恋人にすら、そう見られていた。
ーーー違うかもしれない。
その考え方が一瞬頭をよぎった。
でもこの時私にはそれを分析するだけの余裕はなかった。一瞬よぎった「違うかもしれない」を、私は飲み込んだ。
深く考える前に、答えが出た。確信に変わった
霞も、桔梗が好きなんだ。
喉の奥が焼けるように熱かった。
怒りでも悲しみでもない、もっと粘度の高い何かが、胸の中で煮立っていた。私はスマホを握ったまま、波打ち際の音を聞いていた。サークルの合宿、海辺の宿。壁一枚隔てた向こうで、波が繰り返し砂を攫っていた。
私には何が足りないのか。
もう一度、考えた。
もっと根本的な何かだ。もっと本質的な、生まれ持った何かだ。桔梗はそれを持っていて、私は持ち得ない。名前もつけられないその何かが、人を引き寄せる。人を惹きつける。人を桔梗の周りに集わせる。
私はスマホを置いて、洗面所に立った。
深夜の洗面所は蛍光灯が白くて、容赦がなかった。鏡の中に私がいた。泣いた後の顔で、目が腫れていて、髪が乱れていた。私はその顔をしばらく見つめた。
醜い、とは思わなかった。
でも美しくもなかった。
ただそこにある顔だった。特徴もなく、印象も薄く、見た次の瞬間には忘れられるような顔。桔梗の隣に並べば、それが余計に際立つ。桔梗の美しさは光で、私はその光が当たることで初めて輪郭を持つ影だった。
影は光がなければ存在できない。
私は今まで、桔梗の光で存在していたのか。
自分の頬を指で触れた。肌の質感を確かめるように。鎖骨のあたりを見た。腕を見た。腰のラインを見た。浴衣の帯の下で、私の体は桔梗より丸みを帯びていた。
そうか。
体か。
顔だけじゃない。
体も、肌も、所作も、
全部だ。全部が桔梗より劣っている。全部が足りない。全部が、私を背景に押し込めている原因だ。
美しさ、という言葉が浮かんだ。
顔の造形だけの話ではない。存在そのものの美しさ。桔梗が無自覚に持っていて、私が一片も持っていない何か。それを私は美しさと名付けた。その瞬間、土中から1つの芽が生まれた気がした。
私が美しくないから
霞が桔梗を向き、人々は私をモブに背景にする。
私はずっと、桔梗の隣の名もない誰かだ。全部、そこに収束した。
ならば美しくなればいい。
単純な話だった
問題が分かった。解決策も分かった。あとはやるだけだ。美しくなればいい。桔梗より美しくなればいい。そうすれば全部変わる。霞の目も、コメントの数も、写真の中の私の輪郭も。
全部変わる。
洗面台の縁を両手で掴んだ。
鏡の中の私が同じように縁を掴んでいた。
明日の朝食から変える、と決めた。
何を食べるか、何を食べないか。どう動くか。どう眠るか。肌に何を塗るか。髪をどう扱うか。写真にどう映るか。歩き方、立ち方、笑い方。全部、今日から考え直す。
これは意地じゃない。
これは私が私を取り戻すための、正当な戦いだ。
そう思った。
洗面所の電気を消した。
暗くなった鏡の中で、私の顔が消える。
部屋に戻ると、桔梗が寝息を立てていた。規則正しい、穏やかな呼吸だった。髪が枕に広がっていて、薄明かりの中でも綺麗だった。
憎い、と思った。
でも同時に、もう少しだけ待ってろ、とも思った。
窓の外に海があった。月が水面に映って揺れていた。触れれば砕けそうな、玻璃みたいな光だった。
私は手を伸ばした。
光に触れる事はできず窓ガラスの冷たさだけが、指先に返ってきた。




