20.二人きりの空間
しんと静まり返った部屋の明かりを点ける。
「ほんと久しぶりだね、ウチに来るの」
緊張が顔に出ていないかな……?
観覧車以上に翔太の存在を強く感じてしまう。
そんな私の心境に全く気付きもしない様子で、翔太は、そっとピアノに近づいて、フタを開けた。
昔私たちは同じピアノ教室に通っていて、翔太が遊びに来ると必ず二人で練習していた。
私にとって他の遊びをするよりも最高に幸せな時間だったのを覚えてる。
翔太が次々弾きこなしていく練習曲に、次はどんな曲なんだろう……と、自分の練習はそっちのけで楽しみにしていたものだ。
そっと鍵盤に触れた翔太の指が魔法をかけた。
次第に静かな空間に、音の粒がキラキラと広がっていく。
ドビュッシーの、喜びの島だ。
翔太の隣で聴いていた私は、彼の衰える事のない指先から、まるで色や感触が伝わるような生き生きとした音色に、じっと耳を傾けた。
最後の音を名残惜しい気持ちを胸に、大切に耳に収める。
「翔太……凄い、凄いよ!!! 最近色々落ち込むことがあって、なかなか気分が上がらなかったんだけど……なんか、身体中の血が、一気に踊り出したみたい!!」
「俺、あれから結構弾いてたんだぜ。実花は俺が弾くと、すっごく喜んでくれただろ? 弾いてる時は、実花が嬉しそうにしてる顔が思い浮かんで、ピアノに向き合う時間が、実花に会える時間みたいなもんだった」
興奮している私を見て、翔太はクスクスと笑った。
「ありがとう……」
逢えない時も自分の事を想ってくれていた……
そんな嬉しさに心が幸せで満たされる。
「わたし、翔太のおかげで、ピアノの演奏を聴くことが大好きになって……。この前、祐介くんと来てくれたバイト先の喫茶店にもピアノがあるでしょ? たまに、プロの方が来て弾いてくれたりしてさ。だから、今のお店で働けていることが今の私の癒しになってるんだ」
ピアノの音色を聞いていると、翔太との時間を思い出した。
目の前にはいなくても、聴いているだけで、ひとりじゃないんだ……と慰められた。
「森下先輩も弾くの?」
ドキッとした。
なんで翔太が駿先輩がピアノを弾くこと知ってるんだろう……?
駿先輩の優し気な演奏に、正直癒されていた事は事実で、後ろめたさを感じる。
「翔太、駿先輩、ピアノ弾く事知ってたの?」
少し強張ったように感じる彼の表情を伺う。
「有名だよ、森下先輩は。あの人コンクールでは毎回入賞する、ピアノの猛者みたいな人だよ」
笑いながらも、ふっと視線を落とす翔太。
座った私の膝に視線が移動しハッと気づいた顔を見せた。
「……どうした? 足……」
心配そうに見つめる。
「あっ、これ? 全然平気、気にしないで! 私、おちょこちょいだからさ」
翔太の目に触れないように私はひざを両手で隠した。
「一体どこでこんなに……! 駅で別れた時はなんでもなかっただろ?」
一瞬、嫌な予感が俺の頭をよぎった。
今日、一日、俺の周りを取り囲んでくる女子たちの様子が、なんだかおかしかったのだ。
あまり実花と関わりのなさそうなあの子たちと、駅で一体なんの用があったんだろう……?
まさか……!?
「実花、あいつらになんかされたのか?!」
翔太の勢いに驚き、取り繕うようにタジタジになりながら答える。
「いや、う、ううん、私が悪いの、つまづいただけだよ」
「実花、本当のこと言ってくれ。頼むから……」
あまりにも苦しそうに聞いてくる翔太の表情を見て心が痛んだ。
早く話題を変えようと必死になる。
「その話は大丈夫だからさ。それより……私も聞きたかった事があって……」
「……ん?」
「ユミ先輩と翔太の事は、この前聞いたけど……ユミ先輩はずっと翔太とは付き合ってるつもりでいたのと違うかな……?」
「実花……?」
「ご、ごめんね。だって、周りの子たちもほとんどの子、翔太とユミ先輩付き合ってるって思ってたと思うよ。私自身もそうだったし……」
「……実花の言う通りだと思う。ユミに俺ははっきり好きとも言われてなかったし……。ただ、周りの噂だけがどんどん広まっていって、俺が黙っている事が実際そんな関係を認めているようなものだったって、ユミに言われた時に初めて気がついた」
「だったら……私たちが付き合っている事、学校では内緒にしよう? ユミ先輩の気持ち考えたら、やっぱりいい気分しないと思うし……周りの子たちも納得しないと思う」
実花の必死で訴える姿にやっぱり何かあったな…と俺は思ったが、追求したところで実花が本当のことを話すとは思えず、『わかったよ』そう納得した。
「その代わり、俺の願いも聞いてほしい。実花に、俺、聴いてもらいたい曲があるんだ。実はずっと練習してきた。実花の心、誰の演奏よりも奪える自信があるから」
キザな台詞だと分かっていても、実花の瞳をしっかり見つめて話す。
「今度の文化祭で、その曲弾きたいって思ってるんだ。聴いてもらえるかな……?」
「……うん。わかった、必ず聴きに行くから!」
そう言う実花を、優しく抱きしめた。
本当は実花を彼女だと胸を張ってみんなに自慢したかった。
でも、自分の知らないところで、自分のせいで実花を苦しめているのかもしれないと思ったら、それどころではない……そう思った。
実花を抱きしめる腕が強くなる。
「実花……お願いだ。一人で苦しまないでくれ。もう、実花のそばには俺がいる。いつもいつも、実花を守ってやりたいんだ」
コクリと頷く実花。
「もっと俺を頼ってくれ。信じてくれ。必ずみんなに認めてもらえる日は来るから、実花には、安心してその日を待っていてほしいんだ」
「……うん……分かった。翔太、信じてるから……」
部活終わりの微かな汗の匂いと、包み込む力強い彼の腕の感触にドキッとした。
こんなにも思ってくれている翔太のためなら、私はもうどんな仕打ちを受けてもいいと思う。
きっと、どんな辛いことだって耐えられる……
顔を上げると、目の前には包み込むような翔太の笑顔があった。
二人は唇を重ね、一つになるかのように求め合う。
「実花……実花……」
耳元で名前を何度も呼ぶ。
ずっとこうして、目の前で実花の名前を呼びたかったんだ。
想いが叶って、止まらない感情が溢れ出す。
実花の全てが欲しいと思った。
何度も、見つめ合い、実花の顔を確かめるように、額から、耳……頬を唇でなぞり、また唇を合わせる……
とまらない感情が自分をコントロールできなくなりそうだった。
だけど、実花を男として守れるようになるまでは……そんな思いが、走り出す感情を制止させる。
「……実花……。俺止まらなくなっちゃう前にもう帰るよ……。毎日電話するし、またすぐ遊びに来ると思う。
一人じゃないから……、忘れないで……」
壊れそうな笑顔で私を見つめる翔太。
「うん……」
もっとそばにいて欲しい……翔太となら……
そんな思いを押し殺し、翔太を見送った……




