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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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フェアリーテイル

 ……彼がわたしの前に来たとき、わたしは彼の吐く息に死を嗅ぎ取ったわ。でも彼は言った。おれは何度も世界を一周した、あらゆる土地のあらゆる女たちを見てきた、だからおれは言えるのさ、お前はこの世で一番気位が高くて、親切で、美しい女だってね……


「ごめんなさい、顔を伏せてらしたのでわからなかったわ」


 頭上から声をかけられて、奈津子は本から目を上げた。

 ライムグリーンのワンピースにレース地の白いカーディガンを着た詩織の姿がそこにあった。

 頭上に広がる桜の淡いピンクのもとで、しなやかな立ち姿は若葉のように光っていた。

「詩織さん、ああよかった、ほんとにお元気そうで。体のほうはもうすっかりいいの」

 ベンチに読みかけの本を伏せて奈津子は立ち上がった。

「もう退院して五か月もたつんですから。この通り、長旅も余裕です」

「お仕事も始められるのよね」

「ええ、五月から。関岡プロに移って心機一転」

「よかった、本当によかったわ」

 幾分細くなったかに見えるその腕を、奈津子はしっかりと握った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。つられて滲んだものを隠すように、詩織は目を細くして微笑んだ。

「組は若頭が継いだんですけど、しつこく求婚されたんですよ。自分と一緒に組を盛り立ててくれって。思いっきり断りました。まっぴら御免だわ、そんな人生」

「それはそれで、あなたらしいとも思うけれど」

 奈津子は笑いながらそう言うと、ベンチの上を手で払い、詩織を隣に座らせた。

「それにしても、アメリカで桜並木を見るなんて妙な感じだわ。本当に綺麗ですね」

 詩織は川のほうに頭を巡らし、チャールズリバー沿いのけぶるような桜並木を見た。

「桜は百年前に日本から送られたものなんだけど、ボストンの街中はしだれ桜や八重桜が多くて、このチャールズリバー沿いはソメイヨシノが多いの」

「ボストンでの個展も盛況だそうですね。わたしも明日うかがわせていただきます。今週いっぱいでしたっけ」

「土曜日が最終。主人はラストの日には西海岸からこちらに来る予定なんだけど、あちらも忙しいようでね」

「“子どもの船”で彼女たちをこちらに運んでいただいてから、難民申請とかでお忙しかったんですよね。本当に、正臣さんのお力がなかったらどうなっていたか」

「自分に財力と今のポジションがあってよかったと、これほど思ったことはないと言っていたわ」奈津子は笑った。

「でもひとつ、SYOUからは宿題を残されたのよ。それをかなり恐れてるの」

「宿題?」

「彼から送られてきた鍵があってね、地図も一緒に入ってたわ。パンドラの箱だそうよ。

 箱を開けて出て来るものの使い方は、正臣さんに一任しますと。この国のためになるように、政治がまともになったら開けてくださいって。そう書いてあったわ」

 奈津子はいったん言葉を切ると髪をかき上げた。

「怖いでしょ。明和党から民自党に政権も移ったし、伊吹さんも総理に就任したし、彼と晶太が望んだ変化はかたちになってきたけれど、どこで開けたらいいのか、中を見るのが怖いそうよ」

「……」

 詩織は前髪にかかった花びらを払って、少し考える風に下を向いた。

「何か知らないけれど、箱の周辺もいつまでも無事かわからないし、いちおう早く中を見たほうがいいんじゃないですか」

「そうね、……そう言っておくわ」

 詩織は顔を上げると、真顔になって聞いた。

「そういえば、(パオ)(チン)は……。元気なんでしょうか、あれから」

「元気よ。こちらの施設で、SYOUに言われたとおり同郷の子たちのリーダーになってるわ。とても頭のいい子で、特に語学のセンスは抜群なの。ちょっと教えてみたんだけど書のセンスもいいし、語学と書道の教室で報酬もらってお手伝いもしてるのよ」

「そうですか。……よかった。よかった、本当に……」

 ため息と同時に、心からの安堵が声になって漏れ出した。奈津子も軽く息をつくと言った。

「それでも、耐えているのはわかるのよ。失った空間と時間にね。

 彼女もわたしもそしてあなたも、置いていかれた身だけれど、それでも信じて祈ることができるだけ、たぶん不幸じゃないわ」

「若宮さんも、そう言っていました」

 詩織の答えに微笑みながら、奈津子は文庫本を入れようと鞄を開けた。

「あのかたもきっと、思いは同じね」

「日本の本ですか?」詩織は覗きこむようにして言った。

「翻訳ものよ。ガルシア・マルケスの、エレンディラ。原題は、“無垢なエレンディラと無情な祖母の、信じがたい悲惨の物語”」奈津子は大きな花を咲かせているサボテンの表紙を見せた。

「ああ、ノーベル文学賞作家ですね、コロンビアの」

「よくご存じね」

「SYOUに勧められて、“百年の孤独”は読んだんです。なんだか美しい蜃気楼みたいな物語だったわ」

 鞄にしまうのをやめ、再び奈津子が開いたページに、頭上から桜の花びらが舞い落ちた。

「あの子の好きな作家は覚えていたわ。ジャック・ケルアック、ヘミングウェイ、ガルシア・マルケス。目につくと買いあさって読んでたの。好きだといっていた絵、音楽、映画、いろいろ、なんていうか、気配を追うみたいに次々拾い集めちゃうのよ」

 その思いは痛いほど詩織の気持ちと重なっていた。

「どんな話なんですか」

 奈津子は開いたページに挟まった桜の花びらをつまむと、風に放した。

「十四になったばかりの美少女エレンディラが主人公で、彼女は自分の失態で祖母と暮していたお屋敷を全焼させちゃうの。そして無慈悲な祖母は、孫娘に身を売らせることで損失を回収しようとするのよ。

 足に鎖をつないで、豪奢なテントに幽閉して。少女の美しさに、行く先々で砂漠の町に男たちの行列ができるの」

 詩織は目を見開いて奈津子の顔を見た。

「なんだか、……」

「ええ、なんだか……、よね」奈津子は意味ありげな顔で詩織を見た。

「エレンディラは最後まで不幸なままなんですか」

「最後のほうで彼女を愛する美青年が現れて、魔女のような祖母を殺し、彼女は自由を手に入れるの」

「じゃあ、ハッピーエンドなんだ」

「いいえ」奈津子は本を閉じた。

「エレンディラは自分のために手を血に染めてくれた美しい男を置き去りにして、砂漠に走り去って行くの。ただ、自由だけを求めて。そのあとのことは、誰も知らない」

「……」

 背後から歓声が聞こえてきた。色とりどりの風船を山ほどもって宙に舞い上がりそうな売り子の横で、子どもが風船をねだっている。

 奈津子は立ちあがった。

「少し歩きましょうか」

 目の前では、雁の親子が行列を作って道を横断しようとしている。やり過ごそうと足を止めると、母雁が警戒してこちらを睨み、一声鳴いた。

「奈津子さんと初めてお会いしたのも、桜の季節でしたね」

 横を歩いて行く雁の列を見ながら、詩織は言った。

「ええ」奈津子は懐かしそうに目を細めた。

「日本の桜は散り際が一番美しいと、あの時思ったわ」

「……奈津子さんにお会いしたいと、こちらに来てから突然連絡差し上げたのには、理由があるんです」

 意を決したように詩織は言った。奈津子は歩調を緩めた詩織を見やった。

「SYOUの事務所に移って、北原さんがマネージャーになって、新しいお仕事の下見にここへ来たというのは?」

「それは本当です。若宮監督が新しい仕事の監督を務めるというのも本当です。お電話でお伝えしたことは全部。でも、お伝えしていないことがあるんです」

「……改まって、何かしら」

「わたし、SYOUのお父さんの故郷にいきました」

 奈津子は立ち止まった。

「……兄の?」

「賢治さんとは、お電話でお話ししました。でも、そのかたの故郷じゃありません」

「じゃあ……」


「郷田秀夫」


 詩織が口にした名前に、奈津子は絶句した。

「SYOUは本心では彼を父親と思っている、そして周囲も。そうですよね」

「どうしてその名を……」

「すみません、調べたんです。いろいろ知りたくて。若宮さんにも手伝ってもらって」詩織は堅い口調で言った。

「SYOUの母親を連れ回しては客をとらせていたヤクザ男……、十四の彼が、母親のほのかさんと心中しようとしていた郷田の車に石をぶつけてとめたあの事件で、結果、郷田秀夫は命を失いました。わたしはSYOUから別れを告げられたとき、事件をひどい言葉で揶揄して彼に一生残る傷を負わせたんです。

 そのことを、忘れたことはありませんでした。

 彼は、母親が自分たち家族を守るために男の言いなりになっているのを知っていて、なんとか男から母親を守ろうとしたのに。そして実は自分の父親が彼ではないかという恐怖にとりつかれていたのに。

 わたし、彼の傷と自分の罪を見つめるために、どうしても彼の出自と傷に近づきたいと思ったんです」

 奈津子は無意識に口元を押さえていた。

「ご存知と思いますけど、わたし、頭の怪我のせいで、船での事件の前後はほとんど覚えてません。お医者には逆行性健忘と言われました。

 なんだかかすれた絵みたいになっちゃった記憶の中で、SYOUを傷つけた痛みだけは鮮烈で、どこまでも痛かった。だから戻りたかったんです。わたしと、SYOUが抱えてきた記憶の中に」

「故郷に行ったの、本当に。……あの男の故郷に」

「ええ、賢治さんから聞きました。新潟県の、日本海に面した寒村。賢治さんも以前、調べたことがあるそうです」

「……」

 奈津子は独り言のように詩織に尋ねた。

「……それで、兄は夢の話をあなたにした?」

「夢?」

「女性のなりをした晶太と街中で会う夢を見たと言ってたわ。ほのかさんにそっくりで、どうしてそんな姿なんだ、どこに行くんだと聞いたら、ごめんね父さん、とだけ繰り返して人ごみに消えたって。謝りたいことがたくさんあったのに、謝れなかったって」

「……いいえ。ただ、晶太が幼いころ酷い言葉ばかり投げたことが負い目になって、父親としてまともに向き合うことができずに来たと。それを後悔していると、そんなことをおっしゃっていました」

 二人は道を外れ川べりに出た。チャールズリバーの川面にも桜の花びらが無数に揺蕩い、鴨たちがたわむれにつつきまわしていた。

 詩織はきらめく川面を見ながら口を開いた。


「故郷でも親族のかたは会ってくださいませんでした。かかわりたくないといって。

 彼は父親の再婚相手と折り合いが悪く、衝突を繰り返して十六で家を追い出されたそうです。

 東京で放蕩暮らしをして、暴力団の傘下で荒稼ぎをして、一応お金をためて手土産とともに十九で一度故郷に帰って。でも、門前払いされてからは二度と家族と会っていないということでした。

 それでも、彼と付き合っていたという同郷の女性から話を聞くことができました。

 そしてわかったことがあるんです。

 郷田秀夫さんは、パイプカットをしていたんです」

「え?」

「パイプカットです、ほのかさんに出逢う前に、自分みたいなろくでなしができないようにと。

 だから、彼には子どもはいないんです」

 奈津子はただ黙って、詩織の静かな顔を見た。


「柚木晶太は、正真正銘、柚木賢治さんの子どもなんです」


 奈津子は口元にやった手をおろし、微かに首を振った。

「……そんな。それじゃあ、……」

「郷田秀夫が、妊娠した前妻に切りつけて流産させたという件も、自分の子ではないことがわかっていたからじゃないでしょうか」


 赤い風船を手にした幼児が後ろから走ってきて、鴨に餌を投げ始めた。

 ついてきた両親が後ろからにこやかに声をかける様子を視界の端にしながら、奈津子は言った。

「兄は、……自分と晶太の容貌が似ていないことをよく言ってたわ。身長も体型も全然違うと……」

「ほのかさんは出自は分からないけれど、混血なんですよね。白人系の。

 SYOUがクォーターだということを考えれば、あちらの血が濃く出た結果だということで説明がつくんじゃないですか?」


 奈津子は茫然とした。考えてみれば、その通り。たったそれだけのことなのだった。

 それを、父親が郷田秀夫だ、という単純な先入観念から、だれも仮定の内にも入れなかった。

 どれだけの負債を、彼は周囲から無言のうちに背負わされてきたのだろう。凶悪犯の血を引いているという確信は、彼の中で生涯の呪縛になっていたのだ。誰もが口にせぬまま確信していることを否定することは、当人にはできない。奈津子の胸に、とりかえしのつかない未知の痛みが静かに広がっていった。

「兄に、それを言った?」奈津子は尋ねた。

 詩織は首を振った。

「親戚でもなんでもないわたしが立ち入る問題じゃないはずだし、そんなことを他人から聞かされるのも嫌でしょう。わたしはただ、SYOUにまつわるすべてを知りたいと言って故郷の場所を聞いただけなんですから。

 でももしも、賢治さん……SYOUのお父さんが知るべきことだと思うなら、どうぞ奈津子さんからお話ししてあげてください。……大事なことですから」


 二人は顔を上げて、しばらく桜色の甘い風に全身をさらした。

 ややあって、奈津子が口を開いた。


「……こんなふうに、目に見える風景だけを受け取って、感じて、足元の地面を踏んで、それだけで生きていければ、間違うこともなかったのかしら。

 見えない世界を、勝手な物語を、それぞれががそれぞれの頭の中に作り上げなければ、あの子も……」

「ものがたりはSYOUは好きでした。わたしのために脚本まで書いてくれたんです。美しいストーリーでした。監督はそれをもとにドラマか映画を作ろうとしているんですよ、まだ構想段階ですけど。わたし、すごく楽しみなんです」 

 詩織は無邪気に笑った。

「彼はもののなりたちや、殻に覆われたものの中身を知るのが好きでした。もちろん人間も。むしろ俳優じゃなければもの書きになっていてもおかしくなかったと思うんです」

「それはそうね。おかげで彼が家にいたとき、小型電子機器がほとんど分解されちゃったわ」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 奈津子は少し躊躇した後、口を開いた。

「じゃあ、わたしからもひとつお話しするわ。正臣から聞いたことで、確かな話じゃないんだけどね。

 リンの父親、……大千大師の消息についてだけど、

 大師はもう、この世のひとではないらしいの」

 奈津子は詩織の顔を見ないまま、手元のハンカチを握りしめた。

「アメリカに逃れてすぐ、という話だったわ。

 信者の代わりにわが身を差し出す勇気もなく、迫害をやめさせることもできない自分に耐えられず、ひっそり毒をあおった。たまに信者の前に姿を現してみせる大千氏は影武者。

 娘を自由にしてやってくれと遺書に残したけれど、遺体そのものとともに、陽善功の絶対存続派たちによって闇に葬られたらしい。

 そう、夫は言っていたわ。あくまでひとつの説として聞き流しておいてね」

「そうですか……」

「リンを拾ったあの清い流れに自分の骨を撒いてくれと、遺書には書いてあったそうよ」


 淡いピンクの天井の下で、二人はしばらく黙りこんだ。

 奈津子は静かな声で続けた。


「……身勝手な想像だけど、あの子が自首すると言っていたという話に、わたしは心のどこかですがっていたのよ。待っていればいずれは会えるんじゃないかって。

 でも、無理な話よね。

 二人を守るものがもう何もない今、捕まれば二人とも極刑かそれに近い裁きが待っている。出て来られるわけがないわ。

 でね、……わたしにはどうしても、彼が今この世にいる気がしないの。

 あ、悲しい意味にとらないでね。大千大師がいるところにいっちゃったとか、そんなことじゃないのよ。

 なんていうの、この世でもあの世でもない、日の出も日の入りもない、

 永遠に桜の花が咲いては散っているような、そんな世界のはざまにいるような」

「……わかる気がします」

 そう答えると、詩織は前髪をかきあげてぽつりと言った。


「でも、電話は通じていると思います」


 意表を突いた答えに、奈津子はきょとんとした。

「電話がなんですって?」

「……ときどきかかって来るんです」

「ええ?」

 奈津子は思わず大声を出していた。

「一体いつどこからかかってきたの。なんていってたの」

「それはわからないんです。ただの非表示の無言電話ですから」

「無言……」

「退院してから、だいたい半月に一度くらい。いつもなにもいわないんですけど、気配が満ちているんです。なんていうか、彼の、ふたりの気配が」

「ふたりの気配? ……声も聞けないのに?」

「説明が難しいんですけど、感じるんです。そうとしか言えません。

 だからわたしときどき、話しかけちゃうんです。こちらがどんな天気か、今日は何を食べたか、今どんな仕事をしているか。

 

 ……あ、ごめんなさい。ちょっとした冗談です。

 ひとりぼっちは結構きついし、無言電話も多いもので、ついそんな風に考えちゃうのかも」

 奈津子はほっとしたような表情をしたが、次に泣き笑いのような顔で微笑んだ。

「たとえ無言でも、あちらにいるのが晶太なら、わたしも電話口に出たいわ」

「じゃあ次にかかったら、お知らせしますね」

 詩織はいったん俯くと、何か決心したような表情で顔を上げた。


「奈津子さん。

 リンはずっと、SYOUのそばにいます。SYOUもリンのそばにいます。

 だからわたしも今、ここにこうして生きているんです」




 一人きりのホテルの部屋はしんとして、時計の音もしない。

 こじつけの名目で奈津子と乾杯し続けたワインが、まだからだの芯に残っている。

 詩織はシャワーを浴び終えた体を、固めのベッドに横たえた。


 静寂は嫌いではない。

 病院のベッドで一人目覚めたときから、この静けさだけが、SYOUとリンの最後の記憶へとつながる道になったのだ。


 右手と、左手が、あたたかい。

 幸福な体温。あたたかな思いと、涙。

 記憶が、ことばが、雨だれのように降り注ぐ。



 ……好き?


 好きだ。


 愛してる?


 うん、愛してた。


 よかったわ。

 わたしもシオリが好き。あなたを愛するあの人のきれいな魂が好き。

 ふたりなら、助けられる。



  耳にではなく直接魂に響いてきた、あの不思議な会話。

  自分の肉体がどこにあるのか、ここはどこでいまはいつか、

  何もわからない深い霧の中に、あのとき自分はいた。

  わかっていたことはひとつ。

  右がSYOU。

  左がリン。



 泣かないで、ショウ。今ならきっと間に合う。

 わたしの思いだけでは、彼女を繋ぎとめられない。だからあなたが強く呼びかけて。

 ただ念じるの、ここにシオリの魂と体温を戻してくださいと。

 できるなら、じかにつかみに行って。手を離したばかりの風船を捕まえるように……


 詩織。ぼくはここだよ。

 どこにも行くな。ここに戻っておいで。

 きみが大好きだ。いま、今までのうちで一番、大好きだ。

 この魂を搾り取って、きみにささげる。


 生きろ、頼む。生きてくれ、詩織。

 


  あの両手の暖かさ、流れ込んできた一途な思い。

  あの幸福な記憶があれば、きっと自分は一生一人でも生きていけるのだ。

  詩織は頬にこぼれる涙を手の甲で拭いた。



 不意に部屋の電話が鳴った。詩織は起き上がり、手を伸ばして受話器を取った。

 フロントの取次の声はない。ただ、静けさだけがあった。


「ハロー」


 返事はない。

 数秒おいて、いつもの気配に向かい、詩織は言った。


「……あのね。きょう、奈津子さんと会ったわ」


 傍らのメモ帳に、桜の花びらをペンで描きつける。


「相変わらず綺麗で、あなたがすすめたガルシアマルケスの小説を読んでたわ。無垢なエレンディラと無情な祖母の、信じがたい悲惨の物語」

 窓の外、ボストンの煌く夜景から、遠くサイレンの音が流れ込んでくる。

「すごく興味深い内容だった。今度読んでみるわね。

 でも、あれはエレンディラの物語。リンの物語とは違う。

 似ているけれど、わたしは知ってる。だってあなたたちはずっとそこで一緒にいるもの」

 詩織は目の前の冷めた紅茶をひと口すすった。

「チャールズリバー沿いの桜並木を歩いていたとき、リンと初めて会ったときのことを思い出してたの。傷の男がそばにいて、リンはひたすら、美しかった。そして、こんな綺麗な人がライバルなんて、神様はなんて意地悪なんだろうと思ったわ。

 リンはわたしの前で、讃美歌を歌った。そして傷の彼といっしょに、渦巻く桜の散華のなかに消えた。なんだか、何もかもが夢みたい。

 いろいろ思い出すととめどもなくなるの。桜の並木はまるで、この世のあの世をつなぐトンネルみたいね。


 ……今まで言わずに来たけど、一番大事なことを言うわね。

 SYOU、あなたは、柚木賢治さんの子。

 きちんと調べたの。あなたが父親と思っている人は子どもはできない身体。

 あなたは、正真正銘、柚木賢治さんの子なのよ」


 あー。


 電話の向こうから、かすかに、猫の声のようなものが聞こえた。

 詩織は耳をすませた。猫の声のようなものは続いた。

 あー。ああ、あああ、あー、あー。


  ……赤ん坊?


「SYOU。もしかして、そこに赤ちゃんがいるの?」


 若宮から、噂の一部として聞いていた。

 リンは妊娠している、身ごもったまま姿を消している。それはたぶん……

「SYOUの子なのね? そこにいるの、そこにいるのね?」

 詩織は口元を押さえた。

「顔を見せて。あなたたちの姿を見せて、SYOU。

 近くで声を聞かせて。三人ともそこにいるのね?」


 あー。


 ひときわ大きな声が受話器のすぐそこから聞こえてきた。

 詩織は夢中で受話器にキスをした。と、口元に温かい何かが、かたちのない風のように伝わってきた。遥かな距離の向こうの、愛しい唇の感触。

 そしてひそやかな笑い声、おそらく幸せな少女の、……あるいは野薔薇が揺れて窓ガラスをかする音、またはそれぐらいの風の音が反響したと思うと、深い、あたたかな、ため息のようなかすかな囁きをひとつ残して、電話は切れた。




 し・お・り。




 耳には風のようなその声が残っていた。



 詩織は受話器を置くと、呆然とベッドに座り込んだ。

 急に強くなった風がぱちぱちと、窓硝子に小枝をぶつけた。

 詩織は頬を拭うのも忘れて、両手で自分の肩を抱きしめた。



 あなたが。

 あなたとリンが勝ち続け、この世にありつづけることが、わたしの望むすべてだった。

 そのためだけにわたしは戦い続けたの。

 あなたの声は、わたしの勲章。


 おやすみなさい。この世のどこかにいる、わたしの愛しい恋人たち。

 あなたたちを隠して回るこの世界の隅々まで、同じに美しい夜明けが来ますように。

 そしてもし叶うのならば、神様、

 お伽噺の住人達の幸せな姿を、わたしのまぶたの裏にそっと届けてください。

 姿を変え命を変え、出会い続ける不変の恋人たちの、

 その美しい映像を抱きしめて、わたしがこれからも生きていけますように。

 世界を愛しながら、生きていけますように。


 やがて子猫のように丸まった詩織の身体の奥、今眠りにつこうとする小さな心の中に、

 やさしいひとつのささやきと、あかね色の映像が落ちてきた。



  ……そしておうじさまとおひめさまは、かわいいあかちゃんをさずかって、

  どこともしれないひかりのくにで、

  えいえんに、しあわせにくらしました……



挿絵(By みてみん)


 一年にわたって書きつづけてきた長いお話も、今回で最終回です。読み続けてくださった方、本当にほんとうにありがとうございました。

 もし何か感じるところがありましたら、ほんの少しでもいいので、感想欄にお寄せいただけると幸いです。

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