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遥かなる Wonderful World — from Tokyo  作者: march


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7/7

最終話 遥かなる Wonderful World

東京タワーは赤かった。


赤くなかったことなど、ほとんどない。

それでも岳は、今日の東京タワーが昨日までのそれとは違うものに見えた。


「あらら、そんなに演奏が良かったのかしら?」


岳は振り返った。


15年という時間は、人の顔を変えるには十分だが、声を忘れるには不十分らしい。


HARUKAが立っていた。


「君は、いつから僕に気づいていた?」


「気づいてないわよ」


「じゃあ、どうしてここに?」


「東京タワーが好きだからよ」


正論だ。


この女性は昔からそうだった。


何事にも特別な意味を与えようとする岳に対し、HARUKAは驚くほど単純な答えを用意する。


「岳は変わらないわね」


「15年も会っていないのに?」


「そういうところよ」


岳は笑った。


彼女も笑った。


15年前、ウィーンの小さな練習室で二人は毎日のように顔を合わせていた。


演奏が終われば互いに批評する。


HARUKAの音は繊細でありながら力強く、岳の音は正確でありながらどこか窮屈だった。


「岳は間違えないことが好きなのね」


11歳のHARUKAはそう言った。


「間違えないほうがいいだろう?」


「でも、間違えないだけなら機械でもできるわ」


岳は三日間、彼女と口を利かなかった。


四日目には、また彼女の家でショパンを聴いていた。


⸻


「ねえ、岳。今は何をしているの?」


「音楽関係の会社を経営している」


「ヴァイオリンは?」


「仕事で必要な時に弾くよ」


「そうじゃなくて」


HARUKAはガラス越しの東京を眺めた。


「あなたは今も、ヴァイオリンが好き?」


岳は答えられなかった。


⸻


翌日、岳は赤坂のオフィスにいた。


若手演奏家育成プロジェクトの企画書を前に、拓哉という男が腕を組んでいる。


「岳さん、これって結局いくら儲かるの?」


「初年度は赤字ですが、三年目には黒字化を見込んでいます」


「見込んでいる、ね。何を根拠に?」


「類似したプロジェクトの実績です」


「それって、成功した事例だけ拾ってない?」


岳は黙った。


拓哉は嫌な男だった。


努力を褒めない。


理想に共感しない。


目的と手段を容赦なく切り分ける。


19世紀末、アメリカで生まれたプラグマティズム。


真理はその実用性や効果によって判断されるべきだという、いかにもアメリカらしい哲学である。


拓哉はリアリストなのだ。


人のプロセスではなく、アクチュアルを見る。


「音楽って、利益だけで測れるものじゃないんです」


「もちろん。だったら利益を目的にしなければいい」


「そう簡単な話じゃありません」


「簡単だよ。岳さんが何をしたいか、決めればいいだけだから」


岳は昨日のHARUKAを思い出した。


あなたは今も、ヴァイオリンが好き?


どうして皆、簡単に答えられない質問を、簡単な言葉で投げかけるのだろう。


「拓哉さん、恋愛もそうやって考えるんですか?」


「どういう意味?」


「合理的に考えて、最善を選ぶ」


「そうだね」


「うまくいきました?」


拓哉は資料を閉じた。


「いかなかったよ。。。」


意外だった。


「どうしてですか?」


「最善だと思ったものが、相手にとっても最善とは限らないからね」


岳は初めて、この男に興味を持った。


拓哉はその夜、堀切ジャンクションを通る予定だった。


三年前、紗英という女性とパリに行くはずだった。


現実はそうならなかった。


彼女は別の男とシャルル・ド・ゴール空港に降り立ち、拓哉は東京に残った。


合理的な判断だった。


今も、そう思っている。


しかし、合理的な判断が幸福を保証しないことについては、いまだ有効な反証を持ち合わせていなかった。


⸻


HARUKAから連絡が来たのは、その日の夕方だった。


「明日、時間ある?」


「あるよ」


「まだ何も言っていないわ」


「君に会う時間ならある」


少し沈黙があった。


「そういうこと、昔は言わなかったわね」


「昔は子供だったから」


「今は?」


「子供じゃないつもりだよ」


HARUKAは笑った。


「じゃあ、明日。昔みたいにレコードを聴きましょう」


岳は自宅にあったターンテーブルを引っ張り出した。


何年も使っていない。


針は交換する必要があった。


結局、新しいカートリッジを買った。


翌日、HARUKAは約束の時間より20分早く到着した。


「相変わらず几帳面な部屋ね」


「君ほどじゃないよ」


「私の部屋なんて知らないでしょう?」


「昔の君は知ってる」


「昔の私と今の私は違うわ」


彼女は持参したレコードを取り出した。


バッハだった。


「覚えている?」


「もちろん」


「あなた、これを弾いた後、私と三日間口を利かなかったのよ」


「よく覚えてるね」


「だって、寂しかったもの。。。」


岳は彼女を見た。


寂しかった。


たった五文字が、15年分の時間を飛び越えた。


「HARUKA、僕は君に嫉妬していたんだ」


「知ってたわ」


「知ってた?」


「ええ。あなたは私に勝ちたかった。でも、私はあなたに勝ちたいと思ったことがなかった」


岳は苦笑した。


「それが一番残酷だよ」


「どうして?」


「僕だけが競争していたことになる」


HARUKAはレコードに針を落とした。


「違うわ。私はあなたと一緒に弾きたかったの」


美しい旋律が部屋を満たした。


岳は彼女を見ていた。


昔と同じようにソファへ身体を預け、目を閉じている。


かつて岳は、その横顔を見つめながら、自分でも説明のつかない感情を抱いた。


今は説明できる。


彼女が好きだったのだ。


そして、おそらく今も。


「ねえ、HARUKA」


「なあに?」


「僕が手紙を返さなくなった理由、聞きたい?」


彼女は目を開けた。


「聞きたかったわ。ずっと」


「君がウィーン・フィルに入団した時、僕は嬉しくなかった」


「そう」


「自分でも入れると思っていた。君より優秀だと思っていた時期さえある」


「そうね」


「否定しないんだ」


「岳は上手だったもの。羨ましいと思った。。。」


岳は笑った。


「でも、僕は君から逃げたんだ」


HARUKAは少し考えた。


「逃げたというより、置いていったのよ」


岳は何も言えなかった。


「私はあなたから手紙が来なくなった理由をずっと考えていた。怒らせたのかもしれない。私の演奏が嫌いになったのかもしれない。ほかに好きな人ができたのかもしれない」


「ごめん。。。」


岳はうつむいた。


「謝ってほしいわけじゃないの」


彼女はレコードを止めた。


「あなたがいなくなって、私、とても寂しかったのよ」


岳は15年前の自分を殴りたくなった。


⸻


週末、拓哉から食事に誘われた。


場所は六本木の小さなレストランだった。


もう一人、竜という製造業の管理職が同席していた。


「岳さん、この人は竜さん。今回の企画で少し協力してもらうかもしれない」


「初めまして」


「よろしくお願いします」


竜は穏やかな男だった。


相手の話を丁寧に聞き、否定しない。


拓哉とは対照的である。


「岳さんは、音楽一本で生きてこられたんですね」


「そうですね。ほかのことを知らないだけですが」


「素晴らしいですよ。好きなことを仕事にできるなんて」


岳は少し違和感を覚えた。


好きなこと。


HARUKAに同じことを聞かれた。


食事の終盤、岳は15年ぶりに再会した女性のことを話した。


「それはいいですね。15年も経って、また会えるなんて」


竜は微笑んだ。


「でも、15年も会わなかったわけですから、今さら何を話せばいいのか分からなくて」


「そうですか」


竜はワイングラスを置いた。


「僕にも、忘れられない人がいますよ」


拓哉は黙っていた。


「今は?」


岳が尋ねた。


「結婚しました。僕の知っている人と」


「それは、つらいですね」


「いや、幸せなら、それでいいんです」


竜はいつものように穏やかに答えた。


「でもね、たまに考えるんですよ。あの時、違う答えを出していたらって」


「後悔しているんですか?」


「どうでしょうね。後悔する資格があるのかも分からない」


竜は笑った。


「岳さん。会えるうちに会っておいたほうがいいですよ」


岳は頷いた。


竜はそれ以上、松子のことを話さなかった。


左薬指に輝いていた数カラットでクラリティも高い指輪。


よそよそしく、でも大胆に主張していたあの指輪を、竜は今でも覚えていた。


そして、彼女の最後の言葉も。


「端的に言ってもらって良いですか?」


あれほど多くの言葉を使いながら、結局、何一つ答えなかった。


⸻


竜が帰ったあと、拓哉は岳をもう一軒誘った。


西麻布の地下にあるバーだった。


薄暗い店内に、妙に姿勢の良い男が座っていた。


その隣には、もう一人、少し疲れた表情の男がいた。


「Ben、久しぶり」


「やあ、拓哉」


Benキタモトは立ち上がらず、グラスを軽く持ち上げた。


「こっちは修二。古い知り合いなんだ」


修二は軽く頭を下げた。


「初めまして」


「こちら、音楽家の岳さん」


「よろしくお願いします」


Benは握手をした。


「クラシック?」


「ヴァイオリンです」


「なるほど。人生の大半を、木の箱から音を出すことに費やしたわけだ」


岳は苦笑した。


「そう言われると、ずいぶん滑稽ですね」


「人間の営みなんて、大抵は滑稽なものだよ」


Benはグラスに残っていたCinzanoを飲み干した。


「僕の祖父はドミニカ共和国の建国に少し関わったと、家ではそう伝えられていてね」


「ドミニカの建国ですか?」


「もっとも、何をしたのかは曖昧だ。革命家だったという人もいれば、金を貸しただけだという親戚もいる。父は英雄だと言った。でも祖母は、ただの女好きだったと言っていた」


拓哉が笑った。


「ずいぶん評価が分かれるね」


「死んだ人間の人生は、残った人間の都合で編集されるからね」


修二は、その言葉に少しだけ反応した。


「生きている人間も、同じじゃないですかね」


Benは修二を見た。


「どういうこと?」


「自分が何をしたかより、周りがどう受け取ったかで、その人間の評価が決まってしまうことって、ありますよね」


修二はグラスを置いた。


少し前、彼は職場で処分を受けていた。


自分なりに説明した。


反省すべきところも考えた。


しかし、何がどこまで間違っていたのか、今も納得できない部分があった。


結果だけが残った。


数日間の出勤停止。


始末書。


そして、社内に知らされる自分の名前。


「僕は、誰かを困らせたかったわけじゃないんです」


修二は言った。


「でも、そう受け取られたら、もうどうしようもないのかなって」


拓哉が口を開いた。


「意図と結果は別だからね」


「そうなんですよ」


修二は頷いた。


「それは分かるんです。でも、僕の意図はどこに行っちゃうんですかね」


拓哉は黙った。


いつもなら、結果がすべてだと言っていただろう。


しかし、今日は言わなかった。


岳は修二を見た。


「それで、これからどうするんですか?」


「普通に仕事しますよ」


修二は笑った。


「それしかないですから」


「辞めようとは思わなかったんですか?」


「思いましたよ。何度も」


少し沈黙があった。


「でも、負けたくないんです」


修二はグラスを見つめた。


「どうしていつも、こうなるんだろうって。僕はどうしてダメなんだろうって。そういうことばかり考えてしまう。でも、別に誰かに勝ちたいわけじゃないんですよ」


Benが尋ねた。


「じゃあ、何に負けたくないんだい?」


修二は考えた。


「……自分ですかね」


「それは厄介だ」


Benは笑った。


「自分は、どこに逃げてもついてくるからね」


修二も笑った。


岳は、15年前の自分を思い出していた。


HARUKAに勝てなかった自分。


勝つことばかり考えて、彼女の手紙を返さなくなった自分。


修二は続けた。


「周りがどう思うか、気にならないと言えば嘘になります。でも、ずっとそれを考えていたら、何もできなくなるでしょう」


「そうだね」


岳は答えた。


「だから、普通にやろうと思います。これまでと同じように」


修二は少し照れたように笑った。


Benはその様子を眺めていた。


「君は真面目なんだね」


「そうでもないですよ」


「いや、真面目だよ。僕なら、もっと適当に生きる」


拓哉が言った。


「Benは適当すぎるんだよ」


「その通り!」


あまりに素直に認めるので、修二は声を上げて笑った。


⸻


「ところで岳さん」


Benが言った。


「君には、忘れられない女性がいるんじゃないか?」


岳は驚いた。


「どうして?」


「さっきから、携帯が鳴るたびに画面を見ている。でも出ない。仕事の電話ではないんだろう」


岳は携帯を伏せた。


「昔、好きだった人と再会したんです」


「いいね」


「でも、15年間会っていなかった」


「それもいい」


「何がいいんですか?」


Benは少し笑った。


「15年という時間は、君には長い。でも、地球にとっては何でもない。ドミニカの祖父なんて、今では親戚の酒の肴だ」


岳は黙って聞いていた。


「僕たちは自分の人生を大きく捉えすぎる。失敗した恋も、失った仕事も、傷ついた自尊心も、まるで世界の歴史に残る事件のように扱う」


「でも、本人にとっては大きいですよ」


岳が言った。


「もちろんだよ。そこが面白いんだ」


Benは初めて、心から楽しそうに笑った。


「宇宙から見れば取るに足らないことに、僕たちは命を懸ける。それでいいんだ」


修二が頷いた。


「でも、本人にとっては、宇宙より大きいこともありますよね」


「そうだね」


Benはグラスを傾けた。


「ただし、自分の人生を俯瞰したつもりで、他人の人生まで小さく扱い始めたら終わりだよ」


その言葉を発したBen自身、沖縄で出会ったキャシーに偽の連絡先を渡したことを思い出していた。


もっとも、後悔しているわけではない。


彼は自分の矛盾を認識することと、その矛盾を修正することを、別の行為として扱っている。


「あなたは、好きな人を失ったことがあるんですか?」


岳が尋ねた。


「あるよ。正確には、僕が失わせたんだろうね」


「どういうことですか?」


「僕はね、誰かと一緒にいると、必ずその人が何かを要求してくると思ってしまう。愛情とか、約束とか、未来とか。そうすると逃げたくなる」


Benは新しいグラスを受け取った。


「でも、一人になれば、誰かに触れたくなる。実に不合理だよ」


拓哉が言った。


「それって、単に自分勝手なんじゃないの?」


「その通り!」


拓哉は呆れた。


「僕は立派な人間ではないよ。ただ、そんな自分を遠くから眺めることには慣れている」


Benは岳に向き直った。


「君はどうしたいんだい?」


岳は少し考えた。


「彼女に会いたいです」


「それで?」


「一緒にいたい」


「だったら、そうすればいい」


「そんなに簡単ですか?」


「簡単じゃないさ。でも、難しくしているのは君かもしれないよ」


Benは腕時計を見た。


「僕はそろそろ失礼するよ。明日はドミニカに関係する商談があってね」


「お仕事ですか?」


「いや、祖父の話を聞きたいという人がいるんだ。何も知らないんだけどね」


Benは笑った。


「知らないことを知っているように話すのは、わりと得意なんだ」


拓哉は呆れた。


「それ、仕事としてどうなの?」


「結果次第だろう? 君の好きなプラグマティズムだよ」


Benは店を出た。


修二も立ち上がった。


「僕も、明日仕事なので」


「修二さん」


岳が呼び止めた。


「はい?」


「今日、話せてよかったです」


修二は少し驚いた顔をした。


「こちらこそ」


そして、いつものように丁寧に頭を下げた。


岳はその背中を見送った。


Benとは違う。


拓哉とも、竜とも違う。


修二は、自分に起きた出来事を、まだうまく整理できていないのだろう。


それでも明日、職場へ行く。


そのことを岳は、少しだけ羨ましいと思った。


⸻


同じ夜、竜は帰りの電車で携帯を開いていた。


松子とのメッセージは削除していない。


最後のやり取りは三年前で止まっている。


彼女の左手には、今では別の男から贈られた指輪がある。


幸せに暮らしているだろう。


そう思いたかった。


「元気にしていますか?」


新しいメッセージを入力した。


しばらく眺めて、送信せずに消した。


窓の外に流れる夜景を見ながら、竜はイヤホンを耳に入れた。


スピッツの『ロビンソン』が流れてきた。


あの頃、二人で何度も聴いた曲だった。


竜は曲を飛ばそうとして、やめた。


⸻


翌朝、HARUKAから岳にメッセージが届いた。


「明日、ウィーンに戻ります」


岳は携帯を握った。


帰国することは知っていた。


知っていたが、その日付が近づくことを考えないようにしていた。


「空港まで送るよ」


「ありがとう。でも、迎えがあるから大丈夫」


「じゃあ、今日会えない?」


しばらく返信がなかった。


岳は何度も画面を確認した。


15年前、手紙の返事を待っていたHARUKAも、こうだったのだろうか。


夕方になって返信が届いた。


「東京タワーにいるわ」


岳はタクシーを拾った。


赤坂から六本木を抜け、芝公園へ向かう。


東京タワーは赤かった。


展望台に上がると、HARUKAは窓際に立っていた。


「来てくれたのね」


「呼んだのは君だろう?」


「呼んでないわよ。ここにいるって伝えただけ」


岳は笑った。


この女性には勝てない。


「HARUKA、聞いてほしいことがある」


「なあに?」


「君がウィーン・フィルに入ったとき、僕は自分の人生が終わったような気がした」


「大げさね」


「本当だよ。君と同じ場所に立てない自分を認められなかった」


彼女は黙って聞いていた。


「でも、昨日気づいたんだ。僕は君と同じ場所に立ちたかったんじゃない」


「じゃあ?」


「君の隣にいたかったんだ」


HARUKAは窓の外を見た。


「15年もかけて、それに気づいたの?」


「そうみたいだ」


「ずいぶん遅いわね」


「うん」


「私は待っていたわ」


岳は息を止めた。


「手紙も、電話も。ウィーンに入団した時も、あなたからのお祝いを待っていた」


「ごめん」


「それから、誰かと恋をしたこともあったわ。。。」


岳は頷いた。


「私も、あなたのことを忘れた時期があった」


当然だ。


15年という時間は、誰かを待つには長すぎる。


「でもね、岳」


彼女は振り返った。


「あなたと再会して、昔のことを思い出したの。音楽のことも、東京タワーのことも。あなたが私の演奏に遠慮なく意見を言ってくれたことも」


岳は黙っていた。


「それでね、少し腹が立ったの」


「どうして?」


「私の15年を、あなたが勝手に不幸だったことにしている気がしたから」


岳は顔を上げた。


「私は幸せだったわ。ウィーン・フィルに入って、たくさんの人に出会って、素晴らしい音楽を演奏してきた」


「うん」


「でも、あなたがいれば、もっと楽しかったと思う」


岳は彼女を見た。


「それって、どういう意味?」


HARUKAは呆れたように笑った。


「音楽家なのに、言葉には鈍感なのね」


彼女は岳の手を取った。


「あなたが好きだったのよ」


岳は笑った。


「過去形?」


「あなたの真似よ」


二人は東京の夜景を眺めた。


六本木の向こうにはサントリーホールがある。


さらに遠くには、二人が知らない人々の生活が続いている。


岳は思った。


HARUKAを取り戻したわけではない。


そもそも彼女は、自分のものだったことなど一度もない。


ただ、もう一度、彼女と同じ時間を生きてみたい。


その願いだけは、15年前よりもずっと明確だった。


「HARUKA、僕もウィーンに行くよ」


「いつ?」


「来月」


「仕事は?」


「何とかする」


「会社は?」


「何とかするよ」


「ずいぶん無計画ね」


岳は笑った。


「拓哉さんに怒られるかな」


「誰、それ?」


「何でも合理的に考える男だよ」


「素敵ね」


「そうかな」


「でも、私ならそんな男とは恋をしないわ」


「どうして?」


HARUKAは岳の肩に頭を預けた。


「恋愛なんて、合理的に考えたら、しないほうがいいもの」


岳は初めて、彼女の言葉に反論しなかった。


⸻


翌朝、拓哉は岳から届いたメッセージを読んだ。


「来月、ウィーンに行ってきます。事業の件は戻ってから相談させてください」


拓哉は呆れた。


契約交渉の重要な時期に、経営者が私的な理由で渡欧するなど合理的ではない。


返信を入力しかけ、指を止めた。


紗英のことが浮かんだ。


彼女と訪れるはずだったパリ。


あの時、自分は仕事を優先した。


正しい判断だった。


今もそう思っている。


だが、彼女は別の男とパリへ行った。


拓哉は返信した。


「楽しんできてください。仕事は何とかします」


送信した後、自分らしくないと思った。


その夜、拓哉は暗がりの首都高を走っていた。


Hey、hey、hey、girl。


どんなときーもー♪


車内で歌った。


少し音程が外れた。


「頑張りましょう。。。」


一人呟き、堀切ジャンクションを通り過ぎた。


⸻


その頃、竜は職場でいつも通りの仕事をしていた。


松子の結婚から一年が経とうとしていた。


彼女のことを思い出す頻度は少しずつ減っていたが、忘れたわけではなかった。


昼休み、携帯にメッセージが届いた。


松子だった。


「お久しぶりです。お元気にされていますか?」


竜は画面を見つめた。


「元気だよ。松子は?」


しばらくして返信が来た。


「私、離婚しました」


結婚生活は一年で終わったらしい。


何があったのかは書かれていない。


竜も尋ねなかった。


「そうだったんだ。大変だったね」


ありきたりな言葉だった。


「今、下妻に戻っています」


竜は携帯を握った。


三年前、砂沼で彼女は言った。


「端的に言ってもらって良いですか?」


竜は答えられなかった。


当時は妻がいた。


仕事もあった。


住居も金銭も、簡単に整理できるものではなかった。


彼女を愛していたことも事実だが、そのためにすべてを捨てる覚悟がなかったことも事実だった。


今も、その事情は大きく変わっていない。


それでも竜は、今回は会いに行こうと思った。


週末、下妻駅に降り立った。


田園風景は変わらない。


改札の向こうに松子がいた。


日傘を差していた。


三年前より少し痩せたように見えたが、相変わらず美しかった。


「お久しぶりです」


「久しぶり」


二人は砂沼まで歩いた。


水面に陽が反射していた。


あの日と同じ景色だった。


「どうして来てくれたんですか?」


松子が尋ねた。


竜は少し考えた。


「君が離婚したと聞いて、もちろん心配だったし、何か力になれることがあるかもしれないと思った。でも、それだけじゃないんだ。あの時、僕は自分の状況を説明することばかり考えていて、君が何を望んでいたのか、十分に考えられていなかった気がする。僕自身、いろんな事情があったし、それを簡単に無視することもできなかった。でも、だからといって、君への気持ちが嘘だったわけではないし、今もあの時のことを考えることがあって、それで……」


松子は笑った。


「相変わらずですね」


竜は言葉を止めた。


「長いですよ」


「そうだね」


「でも、今日は最後まで聞きます」


竜は彼女を見た。


「僕は、君に会いたかったんだと思う」


松子は水面を見つめた。


「私も、会いたかったです」


二人はしばらく歩いた。


竜は松子の手を取らなかった。


松子も求めなかった。


二人の未来は、まだ何も決まっていなかった。


⸻


同じ頃、Benキタモトはドミニカ共和国のサントドミンゴにいた。


カリブ海を見下ろすホテルのテラスで、氷の溶けた酒を飲んでいる。


祖父が何を成し遂げたのか、結局はよく分からなかった。


英雄だったのか。


卑怯者だったのか。


あるいは、ただ運の良い男だったのか。


それでも祖父の存在がなければ、自分はここにいない。


携帯電話が震えた。


元妻からだった。


また金銭に関する話だった。


Benは画面を眺めた。


「やれやれ。。。」


今度は声に出した。


離婚して何年も経つ。


それでも、何かが終わったという実感はなかった。


沖縄の海を思い出した。


洞窟の先に広がる、一人の海。


寄り添ってくれたウミガメ。


あの生き物は何も要求しなかった。


人間もそうであればいいのに。


しかし、人間はウミガメではない。


Benは返信を打った。


「これ以上は応じられません」


送信した。


これで終わるとは思っていなかった。


Final answer?


自分に問いかけた。


少し笑った。


そんなものがあるなら、とっくに答えている。


⸻


修二は職場に戻っていた。


朝、いつもの時間に出勤した。


何人かと挨拶を交わした。


以前と変わらず接してくれる人もいれば、少しよそよそしい人もいた。


その違いが、気にならないわけではなかった。


しかし、修二は仕事を始めた。


昼休み、携帯電話を開いた。


古い友人からメッセージが届いていた。


「落ち着いたら飲みに行こう。奢ってね」


修二は笑った。


ずいぶん勝手な男だ。


しかし、ありがたかった。


何も聞かず、何も変えず、いつも通りに接してくれる。


自分の正しさを証明してくれるわけではない。


世間の評価を覆してくれるわけでもない。


ただ、飲みに行こうと言っている。


修二は返信した。


「奢ります」


少し考えて、もう一文加えた。


「今度こそ、楽しく飲みましょう」


送信した。


午後の仕事が始まった。


修二は席を立った。


彼の人生は、まだ続いている。


⸻


翌週、若手演奏家育成プロジェクトの予算承認会議が開かれた。


岳はウィーン渡航の準備を進めており、拓哉が代理で出席していた。


竜も同席している。


「えーーー、今回の件についてはですねぇ、非常に意義のある取り組みでありましてぇ」


白井有三が喋っていた。


「ただし、事業としての採算性も当然ながら重要でありましてぇ、そのあたりをですねぇ、総合的に判断していく必要があると」


拓哉は時計を見た。


竜は資料を眺めていた。


後方では、携帯電話を意味もなくいじくっている人もいた。


中には鼻糞を穿る人もいた。


「で、白井さん。結論は?」


拓哉が尋ねた。


有三は微笑んだ。


「えーーー、前向きに検討する方向でぇ、いったん持ち帰りたいと思います」


拓哉は天井を見上げた。


竜は苦笑した。


有三は満足そうだった。


彼にとって、何も決めないことは、決して失敗ではない。


決めないことによって、間違った判断をするリスクを回避できるからだ。


父が好んだ毛利元就の三本の矢。


聞かない。


言わない。


拘らない。


その三本を束ねれば、どんな難局にも耐えられる。


有三は天才なのだ!


拓哉は資料を閉じた。


「じゃあ、次回までに判断基準を明確にしてください」


「ええ、もちろん。その方向で、関係者と十分に認識を合わせながらですねぇ……」


有三は再び喋り始めた。


竜は時計を見た。


会議は予定時刻を過ぎていた。


有三は今日も折れなかった。


⸻


その夜、岳はHARUKAに電話を掛けた。


ウィーンは昼前だった。


「ねえ、岳」


「何?」


「今度来る時、ヴァイオリンを持ってきてね」


「どうして?」


「一緒に弾きたいから」


岳は笑った。


15年前、彼女は同じことを言っていた。


あの時、岳は自分の音が彼女に劣っていることを恐れていた。


今も上手く弾ける自信はない。


でも、もう構わなかった。


「いいよ。何を弾こうか?」


「何でもいいわ」


「君が決めてよ」


「じゃあ、メンデルスゾーン」


岳は声を上げて笑った。


「意地悪だな」


「昔からよ」


窓の外には東京の夜が広がっていた。


遠くに東京タワーが見えた。


その下では、誰かが恋をしていた。


誰かが別れを惜しみ、誰かが仕事を終え、誰かがまだ終わらない会議に付き合っていた。


正しい答えを求める男がいた。


答えを出せない男がいた。


答えを出さない男もいた。


最終回答などないと笑う男がいた。


自分の答えを信じたいのに、他人の評価に傷つく男もいた。


岳はヴァイオリンケースを開いた。


長く使い込んだ楽器を取り出し、弓を弦に乗せる。


音が出た。


決して完璧ではなかった。


それでも、悪くなかった。


「HARUKA」


「なあに?」


「僕は、今もヴァイオリンが好きだよ」


電話の向こうで、彼女が笑った。


「知ってるわ」


岳は窓の外を見た。


東京タワーは赤かった。


赤くなかったことなど、ほとんどない。


それでも、今日の東京タワーは、昨日までのそれとは違うものに見えた。


It’s Wonderful World.


答えは、15年前から変わっていなかった。

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