第一話 遥か — from Tokyo
ほぼ入手不可能に近い。
サントリーホールで開催されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のアジアツアー最終公演。そのチケットを握りしめ、岳は足早に会場へ向かった。
岳は幼少期をザルツブルクで過ごした。ドイツ人の父はコントラバス奏者だった。
十五歳の時、母に連れられてウィーンで初めて観た交響楽団に、嫉妬に近い感覚を覚えた。
その嫉妬には、説明がつく。
当時、世界的なトピックとして、ある交響楽団に十六歳の、それも女性のヴァイオリニストが入団したというニュースがあった。
その名はHARUKAという。
岳は音楽家一家に育ったこともあり、一歳でセブンスコードの構成音を言い当て、地下鉄の案内音を音階で呟くほどの絶対音感を身につけていた。
幼い頃からヴァイオリンとピアノを始め、父の影響もあってか、弦楽器に適性があった。
オーストリアには『天才を見つけよう』という、視聴率40%を超える国民的テレビ番組があった。
六歳の岳は、その年の年間グランプリを獲得した。
国内外を問わず、投資目的のレコード会社や音楽事務所からオファーが殺到した。当然、母の母国である日本も例外ではなかった。
母は岳の将来を考えた。
普段の会話はドイツ語だったが、二人きりの時には日本語を使った。さらに英語も学ばせ、小学校入学前には三か国語を操れるようになっていた。
HARUKA。
美しい人だ。
僕は十歳で彼女と知り合った。彼女は十一歳だった。
互いの演奏に忖度のないフィードバックを与え合い、その指摘に忠実に向き合った。
HARUKAが最優秀賞なら岳は優秀賞。その逆も少なくなかった。
美しい人だ。
岳はHARUKAの家に足繁く通った。
彼女の母親も日本人で、岳のことをいたく気に入っていた。
一度、岳の母も交えた四人で東京を観光したことがある。
東京タワーが素晴らしかった。
それは岳とHARUKAに、同じくらい強く焼きついた記憶だった。
HARUKAの家では、ハーブティーと砂糖の塊でしかないようなオーストリアの菓子が出された。
それを頬張りながら、HARUKAはターンテーブルにショパンやメンデルスゾーンの、あまり有名ではないレコードを掛けた。
コード進行は単純明快ではない。しかし、音楽理論を逸脱しない心地よさがある。
岳も、その思考の理解者だった。
ソファに寄り掛かり、岳は対面のソファで同じように身体を預け、目を閉じてショパンを感じているHARUKAを見ていた。
僅かな胸の膨らみ。見えない脚の根元に目がいく。
その感情の置き場に戸惑った。
初めての感覚だった。
中学に上がる頃、両親が離婚した。
フルート奏者の母はジュネーブへ引っ越すことになった。
ヴァイオリンを続けるならオーストリアに留まるべきだったが、母は先回りして、世界的なコンクールで受賞歴のあるエレナのレッスンを受けられる環境を整えていた。
岳は思春期、いわば多感な時期を迎えていた。
エレナのレッスンは魂に訴える方法論だった。むしろ精神論、あるいは信仰に近い手法であり、技術という面では行き詰まりを感じていた。
離れ離れになった岳はHARUKAを想い、何通か手紙を交わした。
HARUKAから届く充実した近況に負い目を感じた。
行き詰まっていた岳は、ある時から返事を書かなくなった。
いつしか、HARUKAとの関係を自ら断ち切っていた。
世界的なトピック。
実際には、岳も得られたはずの栄誉だった。
岳は十八歳までスイスとその隣接国を中心に演奏活動を続けたが、母の強い希望もあり、大学は日本の音楽大学を選んだ。
母方の祖母が住む成城から大学へ通う日々だった。
ジュネーブ時代には、溢れる性欲の解決だけを目的にスイス人女性と恋をした。
彼女は岳に寄り添い、ヴァイオリニストとしての肩書きを気にすることもなく、ただただ優しかった。
「岳が主役なら、私は脇役でいいの。でも、ずっと脇役でいたいな……」
高校生としては、随分と早熟で短絡的な言葉だ。
岳はその程度にしか感じなかった。
HARUKAはどうしているだろう。
岳のいない晴れ舞台で、彼のことなど忘れて過ごしているのだろうか。
音楽活動といっても、メジャーアーティストのサポートとして全国ツアーに付き添う仕事が中心だった。
オファーがあれば金銭的な余裕は生まれるが、一過性である。
岳は自ら音楽出版会社を立ち上げ、コンサートのイベンター業務や書籍の販売など、これまでの人脈を利用して事業の基盤を整えた。
職業柄、コンサートの情報は嫌でも耳に入る。
そんな時、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がアジアツアーの最終公演をサントリーホールで開催することを知った。
HARUKAが今も在籍しているか、調べるのは容易だった。
十年以上前に入団した彼女が、今も所属しているのか。
今回の東京公演のメンバーに入っているのか。
調べれば分かる。
でも、調べなかった。
チケットは伝手で入手した。
当日、別件の打ち合わせが長引いた。
打ち合わせ場所だった赤坂見附のホテルから、岳はサントリーホールへ向かった。
HARUKAに会いに行くためだった。
文通を自分の負い目だけで一方的に終わらせ、その後も一方的に想いを募らせた。
勝手に嫉妬し、憎悪した。
サントリーホールの名物であるパイプオルガンは雄大だが、飾り物である。
ほとんどの人が、そう評価している。
幕が上がる。
指揮者から向かって左上。時計でいうと50分の位置に、HARUKAを確認した。
美人を押し出さない、控えめなたたずまい。
演奏は煌めいていた。
和音を単音で聞き分けることのできる岳の耳は、HARUKAの奏でる周波数に合わせられていた。
繊細でありながら、低音の抜けは素晴らしい。
岳よりも数回多く最優秀賞を獲得しただけのことはある。
興奮が冷めないまま、幕が閉じていく。
その途中で、HARUKAが岳のいる席の方を見た。
……気がした。
岳は夜風に当たりたくなった。
六本木から麻布を抜け、日比谷公園まで歩こうと思っていた。
右を見上げると、東京タワーが見えた。
赤い光に誘われたのか、足先がそちらを向いた。
それにしても値上がりした。
かつては千円足らずで展望台まで行けたはずが、今では三千円近くになっていた。
高速エレベーターで耳が嫌がった。
その機械音がG、つまりソの音であることが苦痛だった。
展望台に着いた。
照明が装飾され、幻想的な世界を安易に演出している。
それでも綺麗だった。
真っ先に六本木の方角を探した。
さっきまで感動の渦に巻き込まれていた、サントリーホールのある方角だった。
「あらら、そんなに演奏が良かったのかしら?」
まったりとした、聞き覚えのある声。
そこにはHARUKAがいた。




