※第32話 あいつ、一人ではロクに生きていけないくせに……
「くそっ……どうしたらいいんだ……?」
誰もいなくなった静まり返る執務室で、俺は頭を抱えていた。
こんなことになると分かっていたら、最初からハンナにすべてを任せたりなどしなかった。
いや。
いっそ多額の退職金を払ってでも、もっと早く厄介払いをしておくべきだったのだ。
長年この屋敷に勤め、俺の乳母だったという事実が、奴をそこまで傲慢にさせてしまったのだろう。
「まさか、他のメイドたちまで言いなりになっていたとは……だが、全てをハンナに丸投げした自分の責任なのか……?」
山のように積み上がった書類の束を見つめながら、深々とため息をつく。
「……本当に、せめて彼女がエリザベスの様に聡明だったら……」
思わず、そんな本音がポツリとこぼれ落ちた――
****
――エリザベスは、本当に聡明な女性だった。
高等教育を首席で卒業し、時折子息令嬢たちの教育係として貴族の嗜みを教えるほどの気品があった。
俺が当主を引き継いだ後も、的確なアドバイスで支えてくれた。
将来を固く誓い合っていたはずだったのに……。
ある日突然現れた公爵夫妻が、俺たちの仲を引き裂いた。
金に物を言わせ、エリザベスの前で目もくらむような大枚を叩いて俺の前から無理やり去らせたのだ……と思う。
その代わりに押し付けられたのが、頭が空っぽだと陰口を叩かれていた公女だった。
もとより妻として迎える気など毛頭なかったが、公爵家に逆らうことなどできるはずもない。
形だけの夫婦にすると決め、本来なら妻の役目であるはずの屋敷の采配も、面倒臭さのあまりすべてハンナに丸投げしてしまった。
(だが、……本当に、あいつは何も出来ない女だったな)
物覚えは悪く、簡単な計算問題すらあやふや。
極度の方向音痴で、広大な屋敷の中ですら平然と迷子になる。
自分の役に立つどころか、ただのお荷物でしかなかった。
だから何もかも、諦めたのだ。
(万が一、公爵夫妻が様子を見にやって来たら、一体何と言い訳をすればいいんだ……?)
「やっぱり、こうなったのも全て俺の責任なのか……?」
何度目かの重いため息をついたとき。
「――はい。こうなった責任は、すべて旦那様にあります」
「おわぁっ!?」
突然聞こえてきた声に、心臓が跳ね上がるような悲鳴をあげて飛び上がった。
いつの間にか、部屋の隅にウィリアムが立っていた。
「な、なんだ……っ! いつの間にそこにいた!?」
ドクドクと荒く脈打つ胸を押さえながら睨みつけると、ウィリアムは涼しい顔で答えた。
「つい先ほどからですが。何度もお声がけいたしましたが、旦那様が一向にお返事されなかったもので」
「……そうだったか? それで、奴らはどうなった?」
気まずさをごまかすように、わざと平静を装って質問する。
「はい。全員に監視をつけ、直ちに荷物をまとめて夜明け前までに屋敷を去るよう命じております」
「そうか、ご苦労だった」
「いえ。ちなみにハンナは、最後まで『どうかおぼっちゃまにお会いさせてください』と涙ながらに願い出ておりましたが……」
「はっ? 冗談じゃない。誰が会うものか」
ハンナの知る「おぼっちゃま」はもうここにはいない。
俺はこの屋敷の当主なのだから。
「……さようでございます、か……」
気のせいか、ウィリアムの肩が小さく震えている。
「おい……まさか、まだ笑い足りないのか?」
「い、いえ! 滅相もございません! それより――」
口角をあげていたウィリアムが、ふっと真顔になった。
「そこまで奥様が出ていかれたことを後悔されているのでしたら、何故あのとき、素直に『行かないでくれ』とおっしゃらなかったのですか?」
「だから、何度も言わせるな! 本当に、あいつにはうんざりしていたんだ! 夜会に連れて行けば、男同士の仕事の話の最中にも傍にピッタリ張り付いてくるわ、盛大に欠伸はするわ……俺が今までどれだけ恥をかかされたと思っている!」
思いだすだけ腹立たしい。
だから貴族たちの間で密やかに「カプシーナ(ピーマン)夫人」と言われていたのだろう。
まさか、使用人たちの間まで「カプシーナ」が浸透しているとは思わなかったが
「……まぁ、それに関しては私からは何も申し上げられませんが……」
「だろう? ……それにしても……本当に大丈夫なのか? あいつ、一人ではロクに生きていけないくせに……」
「旦那様……」
心のどこかで言い知れぬわだかまりを残しながら、窓の外へ目を向けた――
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