おわり
月明かりも少ない夜、静かに東へ旅立った。
街道を振り返り、西を見る。きっと、相棒は西へ向かったはずだ。残してきた白柄の刀を抱え、泣きそうな顔をしたでこぱちの姿が思い浮かんだ。
既に決めた道だ。引き返しはすまい。
肩に重傷の黒猫を乗せ、隣を歩くのは烏之介。おかしな組み合わせだった。
「お前、夜叉族だったのか?」
烏之介に尋ねる。
「さあ、どうでしょうね」
コイツ、答える気ねぇだろ。
賽ノ地町奉行所に所属する盗賊狩り集団、烏組の頭として景元の命令で動いている気もするし、全く個人的な感情で動いているようにも見えるし、夜叉族の思惑の為に動いているようにも感じられるし、もしくは何も考えていないようにも見える。
本当に分からない。
江戸の猛暑の中でもほとんど肌を露出させない恰好で、汗一つかいていなかった。むしろ生き物であるかどうかから疑うべきだろうか。
江戸の東端、荒川に差し掛かった。
こんな時間に渡し船などあるのか知らないが、烏之介が手配をしている間に、その辺りの土手に休んだ。
暗闇と静寂に呼吸の音が五月蠅いくらいだった。
が、その静寂を破る甲高い声がした。
「おーい、待ってくれよーう」
聞き覚えのあるこの声。
はっと振り向くと、闇夜に目立つ白色の猛禽が長い尾羽を風に流しながら、こちらへ向かって飛んでくるところだった。
俺の頭上で空中旋回、大福餅が頭の上に落ちてきた。
重い。
「なあ、兄ちゃん。俺様、恩を返し足りねえんだ。あの小さな鳥籠の中で一生を終えると思ってたからよ。あの鬱屈とした日々、もう本当に忘れらんねえぜ。くううっ」
頭の上で喋り出した白く丸い生き物に、肩に乗っていた黒猫が驚いて目を見張った。
「だから兄ちゃん、俺様も連れて行ってくれよーう」
短い羽をバタバタさせて、嘴をパクパク動かして。
本当によくしゃべるヤツだな。
苛々して返答しないでいると、勝手に肯定の返事だと受け取ったのか、大福がまたぴーぴー啼き出した。
「ありがとよー、兄ちゃん! よろしく頼むぜ! 俺様、また役に立つからよ! あのバケモノを倒した時のようにさ!」
ああもううるさい。
そこで大福は、肩に乗っている黒猫に気付いた。
「あり? 黒猫の旦那も来たのかい? あんたも兄ちゃんに恩が?」
「お前、研究所にいたな」
「おおっ、覚えていてくだすったんで? そうそう、あの場所からこの兄ちゃんに連れ出してもらったんだぜい」
「では、私も同じだ」
黒猫は静かに答えた。
とりあえず、頭の上に乗っていた大福の頭を掴んで引きずりおろす。左腕で胸元に抱え込んで、口を塞いだ。
「おい黒猫、お前、名前は在るのか?」
「私の名前?」
黒猫は一時、迷ったようだ。多くの名がありすぎるのか、それとも長い時を生きた猫又であるが故、忘れてしまったのか。
「夜刀。夜の刀、と書く。姫様がくださった名だ」
その声が少し嬉しそうに聞こえたのは俺の気の所為だろうか。
こいつはおそらく、あの将軍が好きなのだろうな。飾らない自然体で感情的な将軍。将軍のもとに降りながら研究所にも属するという立場にいて、彼女の事を欺いてなどいられなかったのだろう。
だから、板挟みになり、少しずつ弱っていったのだ。
「お前、そのうち江戸城へ帰れよ」
夜刀は返事をしなかった。
帰る場所があるのなら、いつか帰るべきだ。
生きていれば、死に向かって弱って行く程に辛い事に出会うだろう。そんな時は逃げればいい思う。そして、逃げた先で力をつけて、また戻って来ればいい。
もちろん、戻ってくるのは尋常でない努力が必要だ。
しかし、戻る努力を重ねた後なら、かつて死が見えるほど辛かった場所も、別の見方が出来る用になっているかもしれない。
だから今は、逃げるべき時だ。
「あの将軍が江戸城と町を繋ぐ橋をかけるらしいから、それが出来る頃には絶対に帰れ」
「江戸城と町を繋ぐ橋?」
「ああ、大橋をかけるって、江戸住人全員の前で宣言してたぜ」
黒猫は頭をおろし、ぽつりと呟いた。
「姫様らしい」
「あの、将軍の後ろをずっとうろちょろしていたハゲが大げさに喜んでた」
「権左か……あいつは大丈夫か。私がいなくなると、比良の暴走を止めるヤツがおらん」
そうやってしばらく、嬉しそうに話をしていた黒猫はやがて目を閉じた。三日月のような金目は黒毛に隠れて見えなくなった。
江戸城の事はほとんど知らないが、道中、思い出話に付き合ってやるくらいの事はしてやるよ。
いつの間にか俺たちの会話を静かに聞いていた烏之介がくすくすと笑った。
「優しいですね」
「気休めの思い出話くらいには付き合うさ」
と、気を抜いた瞬間、大福が腕の中から逃れた。
「お喋りなら任せとけい! 俺様の得意分野だぜい。黒猫の旦那の気が紛れるように話しかけたらいいんだろ? いくらでも――」
再び左腕で抑え、口を止める。
これはこの先、苦労しそうだ。
江戸に最後のため息を一つ、落とした。
「では行きましょうか。まだまだ先の長い旅になりますので」
烏之介が闇を指差し、俺は土手から立ち上がった。
あの時花火を見た思い出が蘇る。鮮やかな円を脳裏に描き、俺は江戸に背を向けた。
同時に、長い間背を預けた相棒の事も、いつも迎えてくれた紅掛花色の彼女の事も、一度すべて忘れるつもりだ。
祭りも終わり、夏も終わる。
季節は既に変わりつつあった。
乱世が始まろうとしている。
救いなき世が混沌へと墜ちていく。
江戸を吹きまわっていた若菜色の風は姿を消し、既に悲風の気配を帯びていた。
おしまい
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




