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うまい、の向こう側
これは、ひとりの主婦が料理を通して見つけた、小さな喜びと、少しだけ危うい心の揺らぎの物語です。
「お母さん、このドレッシング、お店の味みたい」
木曜の夕食の席で、中学二年の真央が箸を止めて言った。
「最近、全部おいしいよね。レパートリーも増えたし」
「ごま油をね、少しだけ焦がしてあるの」
「へえー。ねえ、これもっとかけていい?」
向かいで、隆がワイングラスを揺らしながらうなずいた。
目はつけっぱなしのテレビ、野球中継に向いたままだ。
「うん、うまい。美由紀、お前ほんとに腕を上げたよなあ。
昔は肉を焦がしたり、味が濃すぎたりしたもんだが。
小料理屋の親父でも憑依したか」
「そうかもね」
美由紀は笑って、白磁の皿に残ったバルサミコのソースを、パンの端でぬぐった。
うまい。隆は結婚して十五年、その一言しか言わない。焦がした肉にも、うまい。
塩を入れ忘れた味噌汁にも、うまい。
今夜、四十分かけて炒めた飴色玉ねぎのソースにも、
まったく同じ声で、うまい。
——ええ。おいしくなったでしょう。
胸の中でだけ答えた。その言葉の宛先が、
この食卓のどこにもないことを、美由紀は知っていた。
続




