第1話 猫石の、住む町。
瀬戸内海に面した尾之浦町は、海と山の間に家々がひしめく港町だ。
港から坂の方を見上げれば、斜面に沿って瓦屋根が重なり、その間を縫うように、石段や細い路地がいくつもの寺社へ続いている。
町のいたるところには、「猫石」がいる。
握りこぶしほどの丸い石を一匹の猫に見立て、顔や身体を彩ったもの――正式には、来福猫石という。商店の軒先や民家の庭先、海沿いの道、寺社へ続く坂道の途中。今では、誰もわざわざ立ち止まらないほど、町の景色に馴染んでいる。
そんな猫石には、昔から少し不思議な噂がある。
――猫石は、夜になると、まるで生きているように動き出すという。
* * *
「猫石が家出したんだって!」
「猫石が家出?」
7月6日、木曜日。
期末テスト最後の科目の答案が回収され、ホームルームが終わったばかり。教室は、数日分の息苦しさをまとめて吐き出したような騒がしさに包まれていた。鞄をつかんで早々に出ていく者もいれば、机を囲んで答え合わせを始める者もいる。
そんな中、窓際の一番後ろに座る、高校一年生の宮坂蓮は、すぐ前の席から椅子ごと振り返った御牧珠美の言葉に眉を寄せた。
「そう! まさに『奇々怪々! 尾之浦町の生きた猫石』――って感じ!」
珠美が眼鏡の奥の目を輝かせた。
パッツリと切りそろえたボブに、妙に大げさな言葉選び。珠美は自他ともに認めるオタク女子だった。
「なんかまた面白そうな話してるね」
声とともに、西浦三咲と菱野柑奈が机の間を抜けてやってきた。
三咲は、歩みに合わせて長い髪を背中で揺らしながら、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。その落ち着いた物腰のせいか、時々、同い年とは思えないほど大人びて見えることがある。
「猫石を三回撫でると願い事が叶うって言って、柑奈が見かけるたびに撫でてたことあったよね」
「む、昔の話でしょ!」
短い髪からのぞく耳まで赤くして、柑奈が頬を膨らませる。
「何をそんなに必死にお願いしてたんだろうねえ?」
珠美がにやにやしながら、その顔をのぞき込んだ。
「必死って言うな、珠!」
柑奈が珠美を指さす。小柄な身体には収まりきらないような勢いだった。
「なんだ、また面白そうな話してんな。俺も混ぜろよ」
教室の後ろから、木崎弥太郎がやってきた。
クラスの中でも一番背が高く、顔立ちだって悪くない。黙っていれば、たぶん女子に騒がれるタイプだ。
「なんか楽しい計画を立てるなら、天才参謀の俺抜きじゃ駄目だろ」
「テストが終わった途端、元気になる天才参謀?」
柑奈が冷たい目を向ける。
「テストの話はもうするな」
そう言って肩を落とす姿こそ、蓮が見慣れた弥太郎だった。
「それで? 猫石が家出って、どういうことなんだ?」
いつもの五人がそろったところで、蓮は珠美に話の続きを促した。
「うちの隣の家に、猫石がいるんだけどさ。たぶん、私が生まれる前からずっといる子で――」
その家の玄関へ続く階段の脇、道路に面したコンクリート壁の上には、いつも一匹の猫石が置かれていた。
珠美は昨日、帰宅途中に隣家のおばさんと顔を合わせ、そこで話を聞いたらしい。おばさんが玄関を出ると、猫石がいつもの場所から姿を消していたという。
「どんな猫石なんだ?」
「片方の目のまわりに、丸く縁取られたみたいな模様があるの。おばさんは『丸目』って呼んでた」
「家族の誰かが動かしたんじゃないの?」
柑奈が首を傾げた。
「おばさんもそう思って、家の人に聞いてみたんだって。でも、誰も知らないって」
「それで、家出か」
蓮が言うと、珠美は頷いてにやりと笑った。
「みんなも聞いたことない? 夜になると猫石が動き出すって話」
「あったね、そんな話」
三咲が懐かしそうに言った。
「ああ、小学生の頃に聞いた覚えがある」
もちろん当時から本気にしていたわけではないが、そんな怪談話で盛り上がった記憶があった。
「待って、怖い話は禁止だからね!」
柑奈が胸の前で両手でバツ印を作って抗議した。
「まあ、誰かのいたずらなんじゃねえか」
弥太郎が言った。
「普通に考えれば、そうだろうね。近所の子どもが、深く考えずにどこかへ動かしちゃったとか」
三咲はそう言って笑ったが、続く言葉は少しだけ真面目だった。
「でも、ずっとそこにいたなら、元に戻してあげたいね」
「そうなんだよねえ」
珠美がしみじみと頷く。
「ちょうど目に入りやすい高さにいてさ。別に意識して見てたわけじゃないけど、いなくなるとちょっと寂しいんだよ」
「お隣のおばさんも寂しがってた?」
柑奈が尋ねた。
「『早く帰ってくるといいんだけどね』って笑ってた」
もちろん、猫石は石だ。生き物ではない。
それでも、この町の人たちは「置いてある」ではなく「いる」と言う。丸い石を猫に見立てたものは、いつの間にか一匹の猫石として、町の暮らしに馴染んでいる。蓮は、尾之浦のそんな空気が好きだった。
「みんなでさ、探さない?」
珠美が言った。
「テストも終わったし、来週からは夏休みまで午前授業でしょ?」
「うん。私はいいよ」
柑奈が真っ先に答えた。
「そうだね。見つけて、連れ戻してあげようか」
三咲も柔らかく笑った。
「夏休みの自由研究にちょうどいいな!」
弥太郎が得意げに言った。
「弥太、あんた小学生の宿題でもやるつもり?」
珠美がすかさず突っ込み、五人の間に笑いが起きた。やがてそれが収まると、四人の視線が自然と蓮へ集まった。
こうして何かを始める前、最後のひと言だけは、なぜか蓮の役目になる。頼まれた覚えも、引き受けた覚えもない。それでも、四人が返事を待っていることだけは分かった。
「うん。じゃあ、その家出猫石、みんなで探そうか」
「よっしゃ!」
珠美が勢いよく立ち上がった。
「名付けて――『家出猫石捜索大作戦』、開始!」
「相変わらず、そのまますぎる作戦名だね」
三咲が言うと、また五人の笑い声が教室に広がった。
「まずは現場検証といきますか」
珠美は鞄を肩にかけると、さっそく教室の出口へ向かった。
「行き当たりばったりで探して大丈夫? もうちょっと作戦会議とか……」
珠美は、首を傾げながらついてくる柑奈に、チッチッチッと人差し指を振って見せると、演技がかった口調で言った。
「事件は教室で起きてるんじゃない。現場で起きているのだよ、柑奈くん」
「それ言いたいだけじゃん」
柑奈に突っ込まれながらも、珠美の足取りは軽い。残る四人も鞄を手に取り、そのあとを追った。下駄箱で外履きに履き替え、校舎を出る。
途端に、強い日差しと熱気が五人を包んだ。試験勉強に追われている間に季節は一足先に進んでいたようで、七月に入ってまだ数日だというのに、空はもうすっかり夏の色をしていた。
「暑っ」
柑奈が顔の前を手であおいだ。
「テストから解放されたと思ったら、今度は暑さに捕まったな」
弥太郎が制服のシャツの襟元をつまみ、ぱたぱたと風を送る。
「答案が返ってくるまでは、まだ解放されたとは言い切れないんじゃない?」
「わかった、もうこの話はやめよう!」
いつものやり取りを交わしながら、五人は校門を出た。
珠美の家までは、学校から坂を下って十五分ほどだ。海の方へ向かう細い道の両側には、古い家々の瓦屋根や石垣が続いている。家並みの隙間からは、夏の日差しを照り返す海がわずかに見えた。
「その猫石……『丸目』って言ったっけ。片方の目のまわりに丸い模様があるんだよな」
蓮が珠美に尋ねた。
「うん」
「右目? 左目?」
「……どっちだったかな」
「覚えてねえのかよ」
弥太郎が呆れたように言う。
「あー、たぶん左目だと思う。……たぶんね」
「左目のまわりに、丸い模様か」
三咲が確かめるように呟いた。
学校から続く石段を下りきったところで、道は二手に分かれている。右手には、斜面に建つ古い家の敷地を支える石垣が続いていて、その角に一匹の猫石がいた。
「そうそう。ちょうどあんな感じで――って、あれ?」
珠美が足を止めた。つられて、四人も石垣の上へ目を向ける。
丸い身体。左右で少し違う形に描かれた耳。そして、左目のまわりをぐるりと囲む線。
「丸目だ」
家出した猫石は、見知らぬ家の石垣の上で、何食わぬ顔をして五人を見返していた。
※この作品は、『その黒猫は、夜の港で待っている。』の続編にあたりますが、本作単体でも楽しんでいただけるように書いています。(たぶん)
……が、前作も読んでいただけると、登場人物たちのことがよりよく分かりますし、何より作者が喜びますので、ぜひ。




