棘と朝陽
毎朝、清次は薄闇の中で自分の体を持て余す。
布団から起き上がろうとするだけで、腰の奥が鈍く軋み、両膝が強張る。
「……あぁ」
かすれた息が漏れる。どこもかしこも痛む。八十二年の間に溜め込んだ澱のような重さが、骨の髄にべっとりとへばりついている。若い頃は、体など自分を運ぶただの入れ物に過ぎなかった。意識すらしなかった。だが今は、体そのものが巨大な岩になり、清次を布団の底へ引きずり込もうとしている。
時間をかけて体を起こし、ベッドの端に腰掛ける。足の裏が冷たいフローリングに触れる。そこでまた一息つき、傍らに置いた杖を握る。手に力を込めると、今度は指の関節が小さく悲鳴を上げた。ここ数年で、指の節々が少しずつ変形してきている。
杖を頼りにリビングへ向かう。すり足で進むたび、右膝の中で骨と骨が直接擦れ合うような不快な音が響く。まるで油の切れた古い機械だ。
白湯を沸かすためにキッチンへ立ち寄り、コンロに火をつける。青い炎がぼんやりと浮かび上がるのを横目に、清次は仏壇の前に座った。
三年前に先立った妻、静子の遺影は、いつもと同じ顔でこちらを見ている。線香に火を灯し、チーンと澄んだ音を鳴らした。紫色の煙が細く立ち上り、空気の淀みに巻き込まれて形を変え、やがて消える。
静子はこの三年、一度も痛がっていない。
病床で顔をしかめ、荒い息を吐いていた彼女はもういない。写真の向こう側は、ただ凪いでいる。
「……冷えるな」
誰に言うでもなく呟いた声は、部屋の静寂に吸い込まれた。静子は何も答えない。ただ、穏やかな目でこちらを見下ろしているだけだ。清次は腰をトントンと叩きながら立ち上がり、やかんで沸いた湯を湯呑みに注いだ。白湯が胃の腑に落ちていく温かさだけが、今朝の清次が感じる唯一の「心地よい」感覚だった。
二
朝食はいつも同じだ。
食パンを一枚焼き、インスタントのコーンスープを淹れる。それだけだ。
包丁を握ってりんごの皮を剥いていた時期もあったが、指先の強張りがひどくなり、一度手を滑らせてからやめてしまった。刃物が指をかすめた時のヒヤリとした感覚と、自分の体が自分の意思通りに動かなくなったことへの情けなさが、清次を台所仕事から遠ざけた。
焼けたパンの匂いが鼻をくすぐる。
口に入れると、入れ歯の下の歯茎が少し痛む。咀嚼するのも一苦労だ。
それでも、腹は減る。
腰が軋み、膝が鳴り、指が曲がらなくなっても、胃袋だけは定刻になると空っぽになり、何かを詰め込めと要求してくる。
「厄介なもんだ」
スープでパンを流し込みながら、清次はカレンダーを見た。
今日は月に二度の、整形外科へ通う日だった。カレンダーの数字の下に、静子の几帳面な字を真似て書いた「病院」という赤い文字が、ひどく億劫に感じられた。
食事を終え、薬を三種類飲む。血圧を下げる薬、胃の粘膜を保護する薬、そして、気休め程度にしかならない痛み止め。
着替えを済ませ、片手に杖を持ち、玄関を出た。
外の空気は冷たく、肺の底まで刺さるようだった。
通りを、小学生たちがランドセルを揺らしながら駆け抜けていった。
「おはようございます!」
元気な声が耳をつんざく。清次は曖昧に頷き返した。彼らの足取りは軽く、地面から跳ね返る重力を微塵も感じていないようだった。
「あら、清次さん。おはようございます。今日はお出かけですか?」
背後から声をかけられ、清次はゆっくりと振り返った。隣に住む鈴木の奥さんだった。清次より一回りほど若く、いつも小綺麗な身なりをしている。手にはゴミ袋が提げられていた。
「ええ。いつもの、膝の注射にね」
「そうですか。朝は冷え込みますから、お気をつけて」
鈴木夫人の視線が、清次の杖と、不自然に曲がった右膝に向けられる。親切心から出た言葉だと分かっているが、清次は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう。……行くだけで一仕事ですよ」
彼女は少し同情的な顔をして、会釈をして去っていった。
清次は自分の足元を見下ろした。年老いていくということは、他人の好意を重荷に感じ、自分の無力さを何度も突きつけられる過程でもある。
三
バスに揺られ、二つ先の停留所で降りる。
目当ての整形外科の待合室は、今日も清次と同じような老人たちで溢れかえっていた。部屋中に、独特な湿布の匂いと消毒液の匂いが充満している。
「いやあ、昨日から雨が降るのが分かっとったよ。古傷が疼くからね」
「あんたもかい。私も腰が抜けるように痛くてねえ」
待合室のあちこちで、まるで天気の話でもするように「痛み」の話が交わされている。
清次は部屋の隅の長椅子に腰を下ろし、テレビで流れている朝のワイドショーをぼんやりと眺めた。
ここに来る老人たちは皆、どこかしら痛みを抱えている。直る見込みのない、ただやり過ごすしかない「老いの痛み」だ。彼らはそれを手放すことができないと知っているからこそ、こうして互いの痛みを自慢するように語り合い、慰め合っている。
「清次さん、中へどうぞ」
看護師に呼ばれ、診察室に入る。
若い医師がカルテを見ながら、決まりきった台詞を口にした。
「どうですか、膝の調子は」
「相変わらずです。朝起きる時が一番辛い」
「お年ですからねえ。軟骨がすり減っているのは治りませんから、うまく付き合っていくしかないですね。今日もヒアルロン酸、打っておきましょう」
ベッドに横になり、ズボンの裾を捲り上げる。ひんやりとした消毒液が塗られ、細い針が関節の隙間に入り込んでくる。チクリとした痛みの後、薬液が注入される重い感覚があった。
「うまく付き合っていく、か」
帰りのバスの中で、清次は医師の言葉を反芻した。
痛みとうまく付き合う。それはつまり、この重く鈍い不快感を手放すことなく、死ぬまで背負い続けろということだ。それが老いるということなのだと、頭では分かっている。分かっているが、時折すべてを投げ出してしまいたくなるほどの疲労感に襲われることがあった。
四
家に戻ったのは、昼前だった。
たった数時間の外出で、体の芯まで冷え切り、足腰は鉛のように重くなっていた。
リビングのソファに倒れ込みそうになるのを堪え、清次は縁側へと向かった。外の空気を吸い、鬱屈とした気分を晴らしたかった。
窓を開けると、静子が世話をしていた小さな庭が目に飛び込んできた。
主がいなくなって三年が経つというのに、今年も何種類もの薔薇が青々とした葉を広げている。清次は最低限の水やりしかしていないというのに、植物の生命力というものは大したものだ。
ふと、その緑の中に小さな赤い点を見つけた。蕾だった。
静子が一番好きだった、深紅の薔薇。『クリムゾン・グローリー』という、やけに大仰な名前の品種だ。
庭履きをつっかけ、清次は杖をつきながら薔薇の茂みに近づいた。
ふいに、静子の声が耳の奥で蘇る。
『清次さん、この子、すごく香りがいいのよ』
あれは退職してすぐの春だった。二人で立ち寄った園芸店で、静子はこの苗を一目見て気に入った。
麦わら帽子を被り、土に汚れた軍手をして笑う静子。あの頃の彼女は、いつも庭に出ては花の世話をしていた。時には棘に刺されて「痛っ」と声を上げることもあったが、すぐに指先を舐めて、また土いじりを再開していた。
清次は花のことなどよく分からなかったが、静子が嬉しそうにしているのを見るのは好きだった。休みの日には重い土の袋を運び、彼女の指示通りに穴を掘った。あの頃は、力仕事をして腰が痛んでも、一晩寝れば消えていた。痛みは、体を治すための一時的な信号に過ぎなかった。
五
しかし、その静子が、最後はベッドの上で、ただ痛みと闘うだけの存在になってしまった。
最初は「少し背中が張るだけ」と言っていた。彼女は自分の痛みを隠そうとしていた。だが、癌が骨に転移していると分かった時には、もう手遅れだった。
モルヒネも効かない日があった。
『痛い……清次さん、痛い……』
細く痩せこけた手で、清次の腕を力強く握りしめる。その握力の強さに、清次の方が恐怖を覚えるほどだった。彼女の体は、生きようとする本能と、細胞を破壊する病魔が激しく衝突する戦場だった。
清次が手を握っても、額の汗を拭っても、彼女はもう清次を見てはいなかった。ただ、自らの体を内側から食い破る「痛み」という怪物とだけ向き合っていた。代わってやりたいと何度も願ったが、痛みだけは誰とも共有できない。あの待合室の老人たちのように語り合う余裕すら、静子には残されていなかった。
『……もう、いいよ』
ある夜、静子は掠れた声でそう言った。
それは諦めであり、解放への祈りだった。
そしてその数日後、彼女は祈り通り、すべての痛みから解放された。
顔の強張りは解け、穏やかな、少し冷たい彫刻のようになった静子を見たとき、清次が感じたのは悲しみよりも先に、安堵だった。ようやく彼女は苦痛から逃れられたのだと。
六
清次は、目の前の薔薇の蕾を見つめた。
雑草が、その根元に無遠慮に絡みついている。静子が生きていた頃は、こんな雑草は一日たりとも放置されることはなかった。
「……少し、むしっておくか」
清次は杖を傍らの壁に立てかけ、注射をしたばかりで重だるい膝を庇いながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
湿った土の匂いが鼻を突く。
雑草の根元に手を伸ばし、力を込めて引き抜こうとした。
その時だった。
「――っ」
薔薇の枝に隠れていた硬く鋭い棘が、清次の人差し指の腹を深く、容赦なく引っ掻いた。
反射的に手を引っ込める。
シワだらけの乾燥した指先から、赤い血の滴がぷっくりと膨らんだ。
鋭い痛みが、トクン、トクンと脈打っている。
それは、腰や膝の鈍く淀んだ痛みとも、先ほどの注射の冷たい痛みとも全く違う。ひどく鮮烈で、生々しい感覚だった。
清次は、指先の赤い滴をじっと見つめた。
痛い。ジンジンと熱い。
雲間から完全に姿を現した昼前の陽光に照らされて、その血は驚くほど鮮やかな色をしていた。まるで、今にも零れ落ちそうな小さなルビーのように。
腰は冷たく重く軋んでいる。膝は曲げたまま固まっている。
なのに、この指先だけが妙に熱く、騒がしく脈を打っている。
自分の内側に、まだこれほど赤く熱いものが流れていたのかと、清次は奇妙な驚きを感じていた。
七
ふと、庭の静けさに耳を澄ませた。
遠くでカラスが鳴いている。大通りを走るトラックのくぐもった音が聞こえる。
頬を撫でる風は冷たく、抜いたばかりの雑草の青臭い匂いがする。
そして、指先は脈打ち、痛みを脳へと絶え間なく送り続けている。
家の中を振り返る。
薄暗いリビングの奥で、線香の煙だけが細く揺れているはずだ。
額縁の中の静子は、ただ静かに微笑んでいる。
彼女の世界には、もうこの痛みを伝える脈拍もない。冷たい風も、土の匂いも、陽の光の眩しさもない。あの壮絶な戦いを終え、彼女は絶対的な凪の中へ旅立った。
清次は再び、自分の指先を見た。
トクン、トクン。
まだ痛む。まだ血が滲む。
親指の腹で、その赤い滴をそっと拭い取った。
赤い染みが、指のシワに沿ってべっとりと広がった。血の生臭い匂いが、ふわりと鼻をかすめた。
「……痛ぇな」
ぽつりと呟いた声は、冬の澄んだ空気に白く溶けた。
痛い。鬱陶しい。体が重い。他人の親切すら煩わしい。
だが、そのすべてが、自分がまだあの凪いだ世界には行かず、この騒がしく、面倒で、泥臭い庭に立っているという確かな感触だった。
死者の世界は静かで穏やかだ。しかし、そこには薔薇の香りも、血の熱さもない。
生きているということは、この絶え間ない重力と痛みに耐え続けることなのだ。それは医師が言った「付き合っていく」という諦観でもあるが、同時に、今この瞬間に自分の心臓が動いているという、どうしようもない事実でもあった。
清次は壁に立てかけてあった杖を引き寄せ、カクッと鳴る膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
ズキリと腰が鳴る。
ふいに、腹の虫が小さく鳴った。
パン一枚では、とうにエネルギーは尽きている。
「……まったく、世話の焼ける体だ」
痛む右足を引きずり、指先の熱を感じながら、清次は家の中へと向き直る。
棚の奥に、レトルトのカレーが残っていたはずだ。昼飯はそれにしよう。
そんなことを考えながら、老人はまた、面倒で騒がしい一日を歩き始めた。




