第四十話 メイドと青年と邂逅
「…………はぁ」
人で溢れた町通りを早足で歩き去っていくロージーと、そんな彼女を付かず離れずの距離で追うアッシュヴェルの背中を立ち竦んだまま見送ったリーナは、ふたりの姿が人込みの中に紛れて完全に見えなくなってから、深い息を吐いた。
「お嬢様……」
去り際に主が見せた、険しく……そして寂しげな表情を思い出したリーナは、胸が張り裂けるような思いに圧し潰されたように項垂れる。
……と、
「おいアンタ! なに道の真ん中でボーっと突っ立ってるんだよ! 危ねえだろうがっ!」
何やら急いでいる様子で駆けてきて、悄然と佇んでいたリーナと危うくぶつかりかけた髭面のチンピラが彼女の事を怒鳴りつけた。
いつものリーナなら、「はぁっ? こんな往来で流れに逆らって走ってるそっちの方がずっと危ないわよ!」と強気で言い返すところだったが、ロージーとの仲違いでこの上なくしょげ返っている今の彼女にはそんな気力もない。
「……すみません……」
気もそぞろといった様子で謝罪の言葉を述べながら、深々と頭を下げたリーナを見たチンピラは、狐のように吊り上がった目を僅かに見開いた。
そして、食いでのある獲物が目の前に飛び出してきた狼のような表情で舌なめずりし……かけたが、
「……っと、いけねえ。今はそんな事してる暇は無えな……」
と独り言ち、恐る恐る背後を振り返ってから、来た時と同じように駆け足でその場を立ち去った。
「……」
チンピラが行ってしまった後も、しばらくそのままの体勢でいたリーナは、数十秒ほど経ってからようやく頭を上げる。
「お嬢様……」
そう呟いて、一旦はロージーが向かった方に歩を進めようとした彼女だったが、
『来ないでっ!』
「ひっ……」
先ほど主から投げつけられた鋭い声が脳裏に蘇るや、再び金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまった。
「うぅ……わ、私……どうしたら……」
自分の心に従ってロージーを追うべきか、メイドとして主の命令を忠実に守るべきか……情動と責務に板挟みにされたリーナは、どちらとも決めかねてこの場に立ち竦み、ぎゅっと目を瞑る事しか出来ない。
――と、その時、
「……どうかしたのかい、お姉さん?」
「……っ?」
唐突に、項垂れた頭の上から若い男の声が降ってきた。
それまで意識がひたすら自分の内面に向いていたリーナは、まるで楽器が奏でたかのような爽やかな声にハッと我に返り、うなだれたまま目を大きく見開く。
明るくなった視界にまず飛び込んできたのは、シミひとつない純白のズボンに包まれた長い脚と、腰のベルトに挟み込まれた特徴的な形状の剣の柄だった。
「……っ!」
いつの間に武装した男が至近の距離に立っていた事に気付いたリーナは、半ば無意識にロングスカートの襞の間へ手を差し込む。
だが――、
「ああ、ごめんね。ビックリさせちゃったかな?」
追って降ってきた苦笑交じりの男の声を耳にした瞬間、彼女は凍り付いたように動けなくなった。
――別に、敵意や、ましてや殺意を当てられた訳ではない。
むしろ、男の声は思わず聞き惚れそうになるほどの心地よい響きを帯びていた。……が、そんな彼の声を聞いた瞬間、なぜか全身からサーッと音を立てて血の気が引いていくような恐怖を感じたリーナは、蒼白になった顔を恐る恐る上げる。
彼女の瞳に、にこやかな笑みを浮かべた青年の顔が映る。
色素の薄い、まるで白金を薄く引き伸ばしたものかと見まごうほどに美しい長髪を後ろで束ねた青年は、男にさほど興味の無いリーナですら思わずドキリとするくらいの美貌だった。
女にしては背の高いリーナよりも更に頭一つ分は高い長身に、冬の空のような蒼色に染められた絹のシャツの上に分厚い生地のマントを羽織った青年は、まるで神話の一場面を描いた絵画の中から抜け出てきた天使のようだ。
……だが、青年を見上げたリーナの目には、その姿がひどく禍々しいものに映った。
「ええと……ホントに大丈夫?」
「……あ……っ」
おずおずといったトーンでかけられた問いかけでようやく我に返ったリーナは、心配そうに眉を顰めながら自分の顔を覗き込む青年に向けて、慌てて首を左右に振る。
「い、いえ……ちょ、ちょっと考え事をしていただけで……も、もう大丈夫……です」
「そっか……。ならいいんだけどさ」
うまく舌が回らない様子でたどたどしく答えるリーナを見て、青年は軽く首を傾げたが、それ以上は特に気にする様子も無く、「ところで……さ」と続けた。
「ちょっと人を追っ……探してるんだけど、お姉さんは見てないかな?」
「人を……探してる?」
「うん」
訊き返したリーナにコクンと頷いた青年は、両手で自分の目を吊り上げてみせる。
「ええと……こんな感じの目をした髭面のオッサンなんだけど、多分こっちの方に走ってきたと思うんだ。見覚え無いかな?」
「あっ……」
青年の問いかけに、リーナはハッとした。
それを見た青年は、冬の寒々とした青空の色をした目を僅かに細める。
「そのリアクションだと……見たみたいだね」
「え、ええと……」
「見たんだね?」
「ッ……!」
静かで穏やかな青年の声に潜んだ凄まじい圧を感じたリーナは、雷に怯える幼子のように身を震わせた。
冷たいものが幾筋も背中を伝い落ちているのが分かる。
今の彼女は、まさしく『蛇に睨まれた蛙』そのものだった。
「……」
リーナは、無言で髭面の男が走り去った方向を指さした。
それを見た青年は、彼女が指さした先をチラリと見てから、もう一度念を押すように訊く。
「向こうに行ったんだね?」
彼の問いかけに対し、リーナは黙ったまま何度も首を縦に振った。
それを見た青年は、その端正な貌に浮かべた爽やかな笑みをリーナに向ける。
「親切に答えてくれてありがとう。おかげで助かったよ」
そう言って、リーナに向けて軽く片手を挙げた青年は、髭面の男が立ち去った方に踵を返した。
その拍子に、彼が纏っていたマントが翻り、腰に差していた剣の全貌が一瞬だけ垣間見える。
(……あっ)
半ば呆然としていたリーナは、僅かに反っている黒い鞘の形状に、ふと既視感を覚えた。
(あれって……あのウォッチドッグが腰に差している剣と同じ……?)




