出会い
杉野千に荷物を踏まれている事など知らない紾は、引ったくり犯を追いかけていた
黎ヰに脳筋認定されているだけあって、彼の基礎体力は警察の中でも群を抜いていた。元々、鍛えることは嫌いじゃない上に、筋肉が付きやすいという体質にも恵まれている
そんな紾が、引ったくり犯に追いつくのには、そう時間は掛からなかった
背中が見えて来た辺りで、相手は刃物を持っているのだと警戒心を強め、一気に取り押さえようと距離を詰めようとする…が、引ったくり犯は小道へと続く曲がり角を曲がった
蔡茌 紾
(直ぐに捕らえないと)
今日は休日だ、どこも人通りは多いだろう。凶器を持っているとなると、いつ一般人に被害が出てもおかしくはない
引ったくり犯
「退け退け!な、なんだっお前?!う、うわぁ!!」
何故か叫び声が聞こえた数秒後、追って来た紾の頭の上を通り抜けるようにして、引ったくり犯は吹っ飛んだ
蔡茌 紾
「…え…」
恐らくひったくり犯を投げ飛ばしたであろう人物は、曲がり角の先で立っていた
ドスンッ
引ったくり犯が抱えていた、ロゴ入りのボストンバックだけが、紾の横に落下する
ガラガラ ドシャン
蔡茌 紾
「?!」
慌てて後ろを振り返ると、思わず派手な音に納得してしまう…そんな光景を目の当たりにする
通るたびに人々の心を癒してくれていた筈の花壇は、引ったくり犯が勢いよく落下したせいで花は踏まれ、土は掘り返され、花壇の一部が破損してしまっていた。
肝心の引ったくり犯はすでに気を失っているのか、ピクリとも動かない
紾は引ったくり犯の事も気になったが、視線を小道の方へと戻し、この惨状を作り上げた張本人を見た
蔡茌 紾
「曳汐…どうして、いやそれよりその手は…」
彼女に関して色々と聞きたい事はあったが、曳汐の左手がナイフの刃の方を握っており、血だらけなのがあまりにも印象的過ぎた
曳汐 煇羽
「蔡茌さん、おはようございます」
だが、当の本人は気にするどころか、頭を少し下げて呑気な挨拶をする
蔡茌 紾
「挨拶より、先に早く手当しないと!」
曳汐 煇羽
「その心配は要りません。それよりも早く身柄を押さえた方が良いかと思います」
言いながら曳汐は、紾の横を通り抜け、壊れた花壇の上で気を失っている引ったくり犯の方へと歩いて行く
警察
「大丈夫ですか!」
丁度そのタイミングで、通報を受けた警察官が駆けつけてくる
曳汐 煇羽
「問題ありません」
そう答えた曳汐だったが、この状況は誰が見ても…いや、曳汐と黎ヰ以外は"問題あり"と言うだろう
警察
「君は?!確か、例の…」
曳汐の顔を見るなり、警察官はだんだんと険しい顔つきになっていく
曳汐 煇羽
「申し遅れました。刑事課、異常調査部の曳汐です」
警察
「やはり、あの部署か!この状況を説明して貰おう」
曳汐 煇羽
「たまたま居合せたので、武器を奪ったのち、軽く投げ飛ばしーー」
この説明の仕方はヤバい。咄嗟にそう思った紾が二人の間に割って入る
蔡茌 紾
「あ!あぁ、えーとですね。俺と彼女とでここまで追い詰めたんですが、抵抗されて少し争いになってしまい…」
曳汐 煇羽
「…」
背中から曳汐の、何とも言えない視線を感じたが、紾は構わず続けた
蔡茌 紾
「襲い掛かって来た彼を跳ね退けた力が、少々強過ぎて…運悪く花壇がありまして…」
警察
「貴方も異常調査部の人間ですか」
曖昧な説明にもっと突っ込まれると思っていた紾だったが、予想してなかった質問に呆然としてしまう。それと同時に嫌な予感がした
蔡茌 紾
「はい、監視係の蔡茌紾です」
嘘をつく訳にもいかず、素直に自己紹介する紾を見ると、より一層顔をしかめた
警察
「…なるほど、この騒ぎに納得しました。余計な事はせず後の事は任せて下さい、わざわざご協力頂き感謝します」
刺刺しい言葉で言われ、これ以上何も言えなくなる
曳汐 煇羽
「では、よろしくお願い致します」
それだけ言うと曳汐は、凶器であるナイフを警察官へと渡すとその場を去る
蔡茌 紾
「あそこのボストンバッグは、引ったくり犯が持っていたものです」
警察
「あー、はいはい…分かりました、盗品でも入ってるんでしょう」
言いながら警察は、紾に"邪魔をするな"と目で訴える。非番な上、これ以上ここに居ても何も出来ないと察し、紾は一礼したのち、曳汐の後を追った
意外にも早く追いつき、ポケットから洗い立てのハンカチを取り出すと曳汐に渡す
蔡茌 紾
「良かったら使ってくれ」
曳汐 煇羽
「お気遣いありがとうございます。ですが自分のがありますので、ご心配なく」
さっきまで血だらけだった左手は、ハンカチにより隠されていた。きっと歩きながら自分で巻いたのだろう
蔡茌 紾
「消毒をしないと細菌が入ったら大変だ、ちゃんと手当をしよう。それと、どうしてそうなったのか聞いてもいいか?」
あの時、曳汐は一瞬で向かってきた引ったくり犯から、ナイフを奪い投げ飛ばしたのは、間違いないだろう。だが紾が聞きたいのはそう言う事ではなく、なぜ自分の手を犠牲にしたのか…なぜ取り押さえるのではなく、投げ飛ばしたのかだった。
曳汐 煇羽
「会ったのは偶然でした。騒ぎが聞こえたので気になって振り返ったら不審者が居たもので」
返ってきた言葉は、相変わらず淡々としていて、その表情も普段と何一つ変わらない
蔡茌 紾
「咄嗟に出た行動、か…それにしたって、素手でナイフを握って、痛かっただろうに」
もう少し早く自分が追いつけていたらと、紾は自身を責める中、曳汐は首を傾げる
曳汐 煇羽
「想定内でしたし、効率を重視した結果です。一般人に被害が出ないよう、身を呈するのが私の役目ですので、蔡茌さんが気に留める事は何も無いかと」
彼女の咄嗟に出た行動が自分を犠牲にする事なのだとしたら、紾はそこに危うさを感じた
蔡茌 紾
「他にも方法があったんじゃないか」
曳汐 煇羽
「確かに一理ありますね。実際、花壇を破壊してしまいましたし…善処します」
蔡茌 紾
「あ、あぁ」
思わず言い淀んでしまったのは、曳汐に何の変化も見られなかったからだった
怒るでも悲しむでもなく、彼女は紾の言葉を仕事上の注意として受け取っている…何となくそれが分かってしまった
だが、紾が彼女に伝えたい事はそうじゃない
蔡茌 紾
(自分の怪我に対して躊躇いがないんだよな)
その行動力は心強くもあるが、同時に自身を守れないと言う弱点でもあるように思える
曳汐 煇羽
「蔡茌さん」
紾の心配を他所に、曳汐は腕を伸ばし指を揃えながら、前方の人間を指し示す
曳汐 煇羽
「先程、ご一緒にいらした方じゃないですか?」
蔡茌 紾
「あれは、杉野千?!追って来てくれたのか」
曳汐の言う通り、荷物を抱えた杉野千が誰かと一緒に向かって来るのが見える
が、一つの疑問が浮かぶ
蔡茌 紾
「ん?どうして、曳汐が杉野千の事を知ってるんだ」
何気ない疑問に曳汐は、涼しい顔で答えた
曳汐 煇羽
「先程、蔡茌さんがあの方と歩いているのを、お見かけしたので」
蔡茌 紾
「それなら、声を掛けてくれれば良かったのに」
曳汐 煇羽
「その必要性がなかったので」
これは曳汐との距離感のせいなのか…それとも、単に彼女の性格なのか、どちらかは分からなかったが微妙に傷ついてしまう
蔡茌 紾
「そうか…そうだよな…」
紾の顔が暗くなっていくと同時に、こっちに気づいた杉野千が手を振るのが見えた
杉野千 杏果
「せんぱーい!」
???
「あの人ですね!」
隣にいる見覚えのない人物は、杉野千につられてか、同じように手を振った
蔡茌 紾
「誰だ?」
曳汐 煇羽
「あの服は、メイドさんですね」
曳汐の言う通り、ヒラヒラのメイド服を着たその子は、短い黒髪を揺らしながら紾達の元へと走って来る。
蔡茌 紾
(なんだこの子は…)
紾が戸惑う中、彼女は真っ直ぐに目を見て言い放った
???
「あのっ、お金返して下さい!」
蔡茌 紾
「はぃぃ?!!」
全く心当たりのない事を言われ、混乱する紾。助けを求めるように曳汐を見たが、興味があるのか無いのか読めない表情で、にっこりと微笑んだだけだった
???
「大事なお金なんです!お願いします、返して下さい!」
より声量を上げ、勢いよく頭まで下げられてしまうと、側からみれば完全に加害者は紾だ
突然言われた身に覚えのない罪に、紾の思考は暫く停止するしかなかった
ーーー ーーー ーーー ーーー
喫茶店『はんなり』
杉野千一押しの喫茶店は、アンティーク調で統一され、店内はこじんまりとしていた。
流れるジャズのBGMがより一層、高級感を漂わせる
薄汚れた買い物袋を、両手に持って入る事が躊躇われる。そもそもオシャレな喫茶店に入店する事自体あまり経験した事がない紾からすれば、この店の難易度はかなり高く緊張してしまう
蔡茌 紾
(他に人が居なくて良かった)
別に悪い事をしているわけではないが、この状況下で人が居ない事にホッとしてしまう
荒兎
「さっきは、いきなり失礼しました」
先程までの勢いをなくした荒兎は、申し訳なさそうに頭を下げた
蔡茌 紾
「気にしないでくれ、それに誤解が解けて良かったよ」
彼女が紾に返せと言ったのは、引ったくり犯が奪い取ったこの店のお金の事だった
買い出し途中で、ナイフで脅され財布を取られた荒兎は、慌てて後を追った…その先で、店の常連である杉野千を見つけ声を掛けた
引ったくり犯の事を話した荒兎は、杉野千から紾が追っていると聞くと、一緒に後を追った結果、紾に会うなり出会い頭に「お金を返して下さい」と言い放ったのだった
引ったくり犯を撃退した後、警察官から追い払われた紾達が、取られた財布を持っている訳もなく、それを説明すると、荒兎は携帯で店に連絡し、別の子に受け取りを任せた
本当なら一緒について行きたかったが曳汐に「嫌われている自分達が同席してしまうと、話がややこしくなるのでは」と言われ、仕方なく彼女達が働いている店で待つ事になった
荒兎
「お詫びと言ってはなんですが、試作品のデザートを良ければ食べて行って下さい。今日はお店は休みですから、ゆっくりできますよ」
杉野千 杏果
「そっか!今日は月一の試作の日だ!やったぁ、ラッキー」
蔡茌 紾
「何の日だって?」
何故かはしゃいでいる杉野千に、紾は不思議そうな顔を向ける
杉野千 杏果
「だから、月一の試作の日ですよ!お店はお休みして、新しいデザートを作る日です」
蔡茌 紾
「…なんとなく、分かったよ」
雑な説明にぎこちなくうなづく
カラン カラン
店のドアが勢いよく開くと、荒兎同様、制服であるメイド服に身を包んだ子が、お財布を持って入ってきた
畔
「荒兎…取り返して来た」
荒兎
「取られたのは私のせいなのに、代わりに受け取りに行ってくれてありがとう」
どうやら、無事に財布を返してもらったらしい…二人のやり取りに紾は一安心する
蔡茌 紾
「良かったよ、それじゃ俺は帰…」
杉野千 杏果
「無事に解決したって事で!デザートタイムにしましょう!」
紾の言いたい事は、元気な杉野千の声に掻き消されてしまう
荒兎
「えぇ、是非そうして下さい。畔は奥で休んでいて、疲れたでしょ」
畔
「あぁ、その前に…ちゃんと礼を言っておかないと」
そう言うと、畔と呼ばれた子は、小さく頭を下げた
畔
「協力してくれて助かった」
杉野千 杏果
「畔ちゃんの貴重な"デレ"後生大事にして下さいよ、先輩!」
正直、杉野千が何を言っているのか丸っ切り理解できない紾は、苦笑いを返すしかなかった
曳汐 煇羽
「消毒液お貸しくださり、ありがとうございました」
店の奥から、傷の手当てをしていた曳汐が出てくる
荒兎
「手の傷は大丈夫でした?」
曳汐 煇羽
「はい、おかげさまで。ところで蔡茌さん」
いきなり名前を呼ばれた紾は、さっきの出来事が頭によぎりドキリとしてしまう
蔡茌 紾
「ど、どうしたんだ」
曳汐 煇羽
「一応先程の事を、黎ヰさんにも報告しときました」
蔡茌 紾
「あ、あぁ…ありがとう。助かるよ」
二人のやりとりに、杉野千は怪しむように目を細め、ニヤニヤと笑う
杉野千 杏果
「おやおや、お二人はどう言ったご関係で?」
蔡茌 紾
「あのなぁ〜」
ふざけている杉野千を注意しようとした矢先…
荒兎
「それ、私も気になってたの!畔はどう思う?」
何故か目をキラキラと輝かせた荒兎が会話に入ってきた
畔
「私に話を振るな」
杉野千 杏果
「うーん、恋人!と推測したいけど、無神経で乙女心に鈍感な先輩の事だから、その線は薄いとみた!」
荒兎
「だとすると…ご家族とか?」
答えを求めるように、女性陣三人の視線は曳汐へと向けられる
曳汐なら「唯の仕事上の付き合い」だと、言ってくれると思った紾だったが、その期待は簡単に裏切られてしまう
曳汐 煇羽
「さぁ、どうでしょう」
蔡茌 紾
「?!」
はぐらかした彼女の態度に絶句してしまう
一体どう言う事なのかと、曳汐を見てみたがその表情からは、何も読み取れない
杉野千 杏果
「ますます怪しい〜」
荒兎
「言えない関係って事?!」
蔡茌 紾
「彼女は同じ部署の同僚で、さっきたまたま出会っただけだ。頼むから変な詮索はしないでくれ」
これ以上騒がれる前に、紾は曳汐との間柄を説明する
曳汐 煇羽
「蔡茌さんの仰る通りです。曳汐煇羽と申します」
紾の説明が気に入ったのか、微笑みながら名前を名乗った曳汐を見てようやく、さっきはぐらかした理由が分かる
蔡茌 紾
(説明するのが面倒だったのか…)
なら、最初からそう言ってくれればと思いながら、紾は頭痛がする頭を押さえた