後輩
1事件【過去と向き合って】
院内発砲事件まで…1日
世間でも注目を集めていた廃校舎事件から数週間経ち、警察内部も少しずつ落ち着いて来た。異常調査部への苦情も日が経つにつれ無くなり、久々に紾は晴れた気持ちで休日を送る事が出来そうだと思った
彼、蔡茌紾は6年間鑑識課の"直轄警察犬訓練士"として勤めていた。それが1ヶ月前、突然の移動通知により生活は一変する
移動先は刑事課でも有名な"異常調査部"。所属メンバーは3名で、その3名が異常だと言われる代名詞でもあり、一癖も二癖もある者達ばかりで、振り回される日々だった
休日の朝、特にやる事もなく紾はテレビをつけた。朝のニュースでも廃校舎事件の事は特に報道されておらず、ホッと胸を撫で下ろす
警察内部だけじゃなく、世間の熱りは冷めたようだ…
蔡茌 紾
「なんだか複雑だな」
安心する反面、本当の首謀者が捕まって居ない事への焦りもあった
廃校舎事件の再調査を少年課の皐月周から依頼され、異常調査部として請け負い、事件の背後には組織が絡んでいる事を知る
だが、報道ではその事は一切取り上げられず、逮捕した馬場と言う男に全ての罪が着せられた。無実の少年が救われたのは良かったが、何とも言えない感情が渦巻いた
蔡茌 紾
「怪我も治ったんだ、仕事の事は一旦忘れよう」
頭を左右に軽く振ると、紾は朝食の用意をする為、冷蔵庫を開けた…中は牛乳と卵、キムチにチーズだけだった
昼になったら買い物にでも行こうと思いながら、とりあえず牛乳を手に取りコップに移す
蔡茌 紾
(…ちょっと待て、そう言えばこの牛乳いつ買ったやつだ)
嫌な予感がし、パックに表記されている賞味期限を見てみると5日も切れていた。心の中で牛に謝りながら流しに捨てる
蔡茌 紾
「はぁ。疲れてるな…」
誰に言うでもなく、ため息混じりにそんな言い訳を呟いた
この数日、雲を掴むような調査ばかりで心身ともに疲れていた。調査だけなら良かったが、同僚の警察官の視線がより一層厳しく異常調査部を見ていたせいもあった
露見してしまった警察の誤認逮捕と不当な取り調べ…世間から大幅にイメージを下げた事で、同僚の怒りをかなり買ってしまい、正直生きた心地がしなかった
すれ違う度にあからさまな態度や舌打ち、何度か嫌味や暴言も吐かれ…嫌がらせは暫く続いた
因みに、他のメンバー達の様子も見ていたが、3人とも普段と全く変わらなかったので、おそらく今回ダメージを負っているのは紾だけだった
黎ヰ曰く『事実は事実だぁ、それを受け止めず暴いた者の所為にするしか出来ない奴ってのは、だいたいが多数派意見に押される奴か、吐口が欲しいだけの奴だろ?相手にするだけ無駄だって』
そう言いながら、異常調査部へと寄せられた苦情処理の殆どは黎ヰが対応していた。その度に何故か上機嫌だったのは追及しないでおいた
紾達は、黎ヰに頼まれ廃校舎で見つけた別の死体…照井ユミが殺害される前の行動をあらう
彼女の失踪前の行動は、彼氏や友人の証言もあり、おおよそ掴めていたのだが、日が経っていたせいもあり目撃証言は取れなかった
しかも運の悪い事に、防犯カメラは急な停電のせいで全て削除されていた。完全に空振り状態だ
蔡茌 紾
「…仕事の事は忘れようって言ったばかりなのにな」
元々、器用な性格じゃない上に馬鹿がつく程の真面目さのせいで、紾はずっとこの調子だった
蔡茌 紾
「はぁぁ…もしかすると、向いてないのかな…俺」
ふと出た言葉は彼の本音でもあった
お天気アナウンサー
『12時頃から翌朝にかけて大雨が予想されますので、外出される方は充分に気をつけて下さい!」
テレビから流れてくるアナウンサーの言葉に、気を引かれ紾は画面を見た。
映し出されているのは天気予報の画面で、先程言われていた大雨が降る地域を確認する
蔡茌 紾
「ここにも降るな」
ため息を吐き、仕方なく出かける準備をする
蔡茌 紾
「買い物は早めに済ませておくか、夕方には予定があるからな」
紾に気を遣ってか、黎ヰが異常調査部のメンバーでご飯でもと提案してくれた
なかなか仕事以外で会う機会もないし、折角だからと誘いに乗ったのだった
蔡茌 紾
「そう言えば、世瀬からは連絡はないな」
最後に呑んだのは先週末で、色々と愚痴をこぼしたのを覚えている。帰り際に当分忙しくなると言っていたから、暫く呑みに行く事はないだろう…
世瀬は、紾が異常調査部へと移動になる少し前に地方の警察庁から警視庁へと移動して来た
きっと、引越しの準備とかでバタバタしてるんだろうと思いながら紾は、頃合いを見て次は自分から誘おうと思うのだった
ーーー ーーー ーーー ーーー
気分転換も兼ねて、紾はいつものスーパーではなく少し離れた商店街へと来ていた
ついでにと切らしていた消耗品も購入すると、両手に膨らんだ買い物袋を2つずつ持つ羽目となってしまった
蔡茌 紾
「…考えて買えば良かったな…」
"後悔先に立たず"そんな言葉が頭に浮かぶ。多少鍛えてはいるが、今から歩いて持って帰るとなると、億劫になってしまう
杉野千 杏果
「あれ?蔡茌先輩じゃないですか」
背後から名前を呼ばれ反射的に振り返ると、そこに居たのは懐かしい後輩だった
蔡茌 紾
「?!、君は…杉野千じゃないか!」
紾が名前を呼ぶと、杉野千は嬉しそうに微笑んだ
杉野千 杏果
「良かった〜、ちゃんと覚えててくれたんですね。忘れられてたら、どうしようかと思いました」
蔡茌 紾
「流石に後輩の事は覚えてるよ」
杉野千 杏果
「本当かな〜、当てずっぽうじゃありません?」
杉野千は、怪しんでいるのか目を細めた
蔡茌 紾
「ちゃんと覚えてるよ、杉野千杏果だろ」
杉野千 杏果
「フルネームで覚えててくれたんですか!…先輩ちょっと未練たらしくありません?」
蔡茌 紾
「まったく、そう言う所は相変わらずだな」
茶化す杉野千に、紾は6年前と変わらない彼女に少し安心感を覚えた
杉野千 杏果
「蔡茌先輩は少し痩せこけました?なーんか、仕事に疲れ切った中年男って感じですよ」
鋭い指摘に紾は顔を引きつらせる
杉野千 杏果
「まさか、本当に?私確信ついちゃいました?…あはは、冗談のつもりだったんですけど……ごめんなさい」
蔡茌 紾
「謝られると余計に傷つくんだけどな…」
杉野千 杏果
「ですよねー、あっ!そうだ!」
微妙な空気が流れる中、杉野千はポンッと拳で手の平を叩いた
杉野千 杏果
「お詫びも兼ねて、お茶しましょうよ!」
蔡茌 紾
「言葉が変じゃないか?」
杉野千 杏果
「気にしない!気にしない!」
そう言うと、半ば強引に紾を引っ張る。抵抗しようにも両腕にある荷物が邪魔で出来ず、なされるがままとなってしまう
蔡茌 紾
「一体どこへ連れて行く気なんだ」
杉野千 杏果
「喫茶店です、そこに居るメイドさんが可愛いんですよ!勿論、料理も文句なしって感じです」
可愛いメイド…彼女の口から予想していなかった言葉を聞くと、紾は顔を歪ませる
蔡茌 紾
「待て待て待て待て!一応これでも、警察なんだぞ」
いくら休日とは言え、国家公務員である警察が朝から浮ついた場所へ行くのは躊躇われる。…そう言う意味でストップの声を掛けたのだが、杉野千は紾が警察官である事に興味を示した
杉野千 杏果
「そっかー、やっぱりまだ続けてくれてたんですね!良かった」
過去にあった出来事のせいで、杉野千は警察を辞めていた。彼女は全く気にしていないのだが、その後、紾が鑑識課へと移ったのを知ると、自分が辞めた罪悪感からなのではと、ずっと心の片隅に思っていたのだ
杉野千 杏果
「蔡茌先輩、今も鑑識課にーー」
"居るんですか"と、何気なく聞こうとした時だった…騒ぎ声と共に、ドスドスと言う重い足音が聞こえてくる。気になって見てみると、前方から凄い勢いで走って来る男の姿が映った
あまりにもいきなりだったので、杉野千は唯、呆然と男を見るだけしか出来なかった。刃物と大きいボストンバックを持って一直線に走って来る男を…
蔡茌 紾
「危ないっ」
紾が抱き抱えて、道の端に寄せてくれるまで杉野千は何が起こったのか理解出来なかった
杉野千 杏果
「へ、今のって?」
その質問に答えたのは周りの人達だった
「引ったくりだ!女の子から奪って逃げたぞ!」
「ナイフを持ってた!!」
「逃げろっ!!刺されるぞ!」
そんな声が飛び交う。思わず杉野千は守るように覆い被さる紾の肩を叩く
杉野千 杏果
「先輩!何してるんですか、早く追って下さい!私は大丈夫ですから!ね!」
蔡茌 紾
「…」
デジャヴめいた杉野千の言葉に、紾は過去にあった出来事を思い出す
あの時も、彼女は今と変わらない…精一杯の強がりな笑顔でそう言った…あの時、それをしたばっかりに杉野千は警察を辞めざる得なくなった…
杉野千 杏果
「先輩、早く早く!」
急かされる声で紾は、ハッと我にかえる
蔡茌 紾
「あ、あぁ…そうだな。直ぐに戻って来るから、なるべく人の多い場所に避難していてくれ」
昔と今は違う筈…そう考え直すと紾は、引ったくりの後を追いかけた
去って行く背中を見つめながら、杉野千は紾の反応に心を痛めていた
杉野千 杏果
「蔡茌先輩…やっぱりまだあの時の事、気にして…先輩の所為じゃないのに…どうしよ」
先程までの明るい笑顔は消え、今にも泣き出しそうな…そんな顔を浮かべる
???
「杏果さん?大丈夫ですか」
杉野千 杏果
「え」
急に声をかけられ、杉野千は驚いた。その足元には、紾が持っていた筈の大量の荷物が、中身と共に地面へと散乱している
杉野千を庇う際に、構わず捨てたのだろう…
杉野千 杏果
「げっ、これ先輩の」
慌てて踏まないよう動いたのが間違いだった
???
「危ないですよ!」
杉野千 杏果
「あわっ、わっ、」
ブシャ ブシュ
右足に紙パックの牛乳をヒールで思いっ切り踏みつけた時には、中の液体ごと辺りに飛び散らせた後だった




