01.非日常的な日常
風に弄ばれる黒髪を片方の手で押さえ、彼方を眺めて嘆息する女。切れ長の瞳に、瞬きをする度長い睫毛が影を落としていた。
――僅かに漂う、血の、香り。
女は瞳を細めて彼方を眺めていた。立っているのは洋館のテラス、見下ろす彼方は洋館の周囲を囲む森の中。
――森のあちこちで、戦闘が行なわれている。それは、この洋館を攻めようとする者達と、それを阻もうとする者達の。今のところは、後者が優勢のようである。
「環希さん」
突然響いたのは、低く落ち着いた男の声。環希と呼ばれた女がそちらに視線を流せば、テラスに足を踏み入れる一人の男。仕立ての良い上品なスーツに身を包んだ、中年の。恐らく三十歳前後だろう、落ち着いた風貌。
「……政臣、部屋に居ろと言っただろう」
嘆息しながらの言葉にも、男――政臣は柔らかな笑みを浮かべるばかり。環希が頭を振ってテラスの手摺りにもたれかかろうとすれば、彼の腕がさり気なく彼女の腰に回り抱き寄せられた。
「……政臣」
環希の声音が剣呑さを帯びても、怯まない。それどころか、その顔がゆっくりと近付けられる。
環希が口付けの気配に半ば諦め、応えようと瞳を閉じた、その瞬間。
――敵奇襲部隊、『門』突破!
それは女王――環希の頭にだけ響く声。女王のしもべ、『従僕』の声。
「政臣、下がっていろ」
政臣から身体を離し、庇うように数歩足を踏み出す。それに、彼は困ったように呟いた。
「環希さん、さすがにそれは情けないんだけど……」
それを黙殺し、周囲の気配に全身を耳にする、ように。――空気が、変わった。
「……来る」
呟きに、政臣が問い返す暇すら無かった。『それ』は一陣の風、否、嵐。
「が、っ!」
その嵐に政臣は成す術も無く薙ぎ払われ、手摺りに背中を強かに打ち付けそのまま倒れこむ。
一方の環希は、その嵐――見た目は未だ年若い青年に、首元を掴まれ壁に押し付けられていた。
「女王の騎士が種馬一人たァ、お粗末なんじゃないか?」
青年の目が細められ、唇が歪められ、笑みを形作る。その笑みは普通の人間がするのとほぼ同じものだったが、決定的に違うものが一つあった。それは、額にて、やはり笑むように細められた第三の目。
「……躾がなっていない従僕だな、百瀬の家も堕ちたものだ」
環希の言葉に、青年がその手に力を入れた。――少しずつ、気管が締め上げられてゆく。
「今の立場わかってるの、女王様?
アンタを殺せばあの吸血鬼どもも無力化するし、紅の家も滅ぶ。アンタ達が守り続けてきた栄光も終わりだ」
くらり、と環希の視界が霞む。伸ばした手は爪先で青年の手に傷を付けただけ。
「環希、さ……」
倒れていた政臣が、擦れた声で彼女の名を呼びながら立ち上がろうとするが、叶わない。それを視界の端で捉えた瞬間、環希の頭に響く、声。
――敵確認、迎撃開始許可を……
力の入らない手を伸ばし、親指で地面を指す。……地獄へ落ちろ。
次の瞬間、どっと肺に流れ込む空気にむせ返る環希。解放され座り込む彼女の目前で、青年は、忽然と消えた己が両腕の肘から先を見つめ、それから背後を振り返った。
「馬鹿につける薬は無いな。
百瀬の従僕風情が御館様に手を出すなど、正気の沙汰とは思えん」
古風な言い回しをする低い声。まるで喪に服しているかのような古臭い漆黒のスーツを身に纏い、片手には冴々と光る日本刀を持った壮年の男――否、女王の従僕である吸血鬼。その足元には、肘からすっぱりと切断された片腕が転がっていた。
「その通り。
馬鹿だよねー、アンタもさ」
軽薄な調子の声。そこかしこにジャラジャラとぶら下げられた鎖やアクセサリー、様々な色の筋が入った銀髪、夜闇にも浮かび上がる派手な若い男。同じくこちらも吸血鬼。やはりその足元には本来の持ち主から切り離された片腕が転がっていたが、こちらは肘の辺りで捻り切ったようである。
「な、……!」
一度に両腕を失った青年は、酸欠の魚のようにぱくぱくと口を動かし、青ざめた。痛みよりも、驚愕と……恐怖。絶対的強者への、恐れ。
「御館様に……紅家に剣を向けるという事がどういう事か、その身に刻み込んでやろう」
「首でも送り付けてやればイイんじゃない?
二度と噛み付いてこようとは思わないだろうよ」
目の前で交わされるやりとりに、青年はじりじりと後ずさる。だが、それを見逃すほど、この従僕達は間抜けではない。
「逃がさない」
二人の声が、重なって。死体が一つ、転がった。
それから従僕達は主人の……女王の方を振り向く。
「大丈夫ですか、御館様……あぁ、首に跡が」
壮年の従僕が環希の前に屈み、落ち着いた声音で淡々と世話を焼き始め、
「マスター、どうするんスかこれ。
埋葬してやる義理も無いですよねぇ?」
派手な頭をかきながら、もう一人の従僕が死体の前にしゃがみ込む。
「私は大丈夫だ。
その馬鹿者は、棺桶にでも入れて百瀬の家に送ってやれ」
環希は少しだけ擦れた声で、それでもはっきりと、命令し慣れた様子で言葉を紡いだ。それから視線を動かし、座り込んで己の脇腹に手を当てている男――嵐に吹き飛ばされた、政臣――を見やる。
「政臣、平気か?」
環希が歩み寄るのに、政臣は手を振ってみせる。いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべて。
「ああ、大丈夫。
……自分で帰れるから、環希さんはお勤めに行っておいで」
環希は僅かに眉を潜めたが、それも一瞬。そうか、と短く呟いた後、きびすを返してテラスを後にした。二人の従僕もそれに続く。
一人残された政臣は溜め息をついた。背中から脇腹にかけてが鈍い痛みを放っている――二、三本骨に罅が入ったかもしれない――。
服のポケットから携帯電話を取り出し、何処かへ連絡する政臣。電話し終わって携帯電話を仕舞い込むと、再び深々と溜め息をついた。
――情けない。相手がバケモノだったとはいえ一回り以上年下である彼女一人守れず、なけなしの自尊心を守る為に、実際は立ち上がる事すら出来そうにない癖に余裕があるように振る舞う……この強がりだって、きっとあの従僕達には気付かれている。
政臣は痛みを堪えながら、天を仰いだ。……少し待てば部下が来る筈だ。それまでは、それまでは少しだけ、弱気になっていよう。