02.鈍色の剣
ずきん、と男の脇腹が痛んだ。彼――政臣は、僅かに表情を歪めて、手に持っていた一枚の紙を机の上に置いた。
机の上には、他にも沢山の紙が並べられており、白々とした蛍光灯の光に照らされてそこに書かれた文字を浮かび上がらせていた。……予算申請、業務報告、企画案件、等々。
綾乃小路家は、綾乃小路グループを全国規模で展開させている。その一部、綾乃小路重工の代表取締役が彼、綾乃小路政臣である。
――闇に沈み、人外達を従える紅家。それとは裏腹に、陽の光のあたる場所で権力をふるう綾乃小路家。一見、後者が表舞台の役者のようだが、事実は違う。綾乃小路家は、紅家が闇に沈みやすいようにする為の身代わりに過ぎない。
政臣が、脇腹の痛みを堪えながら再び書類を手に取った時、部屋の扉がノックされた。彼が短く返事をすると、スーツを着た若い女が部屋に足を踏み入れた。
「社長、お薬をお持ちしました。
……少しお休みになられては?」
女がグラスと水差し、粉薬の包みを机の上に置きながらそう言うが、政臣は唇を僅かに歪めて皮肉げな笑みを浮かべた。
「休む?
ふん、お前達が無能だから、僕はおちおち休んでもいられないのだろうが」
粉薬を水で流し込み、再び書類に目を落とす。拒絶する空気。女は一礼すると、静かに部屋を後にした……が、少しも経たない内に再びノックの音。
政臣が不機嫌な声で返事をすると、扉を開いて部屋に入ってきたのは、少なくなり始めた頭髪を後生大事そうに撫で付けている中年の男。
「社長、太陽鉄鋼の社長が来ていますが……」
「追い返せ」
書類から顔すら上げず、言い捨てる政臣。それに男が何やら口を開こうとしたが、それに重ねるように、
「あそこを切るのは決定事項だ。
家族がどうの、従業員がどうの、その類の台詞は聞き飽きた」
冷たく言い放つ。その瞳には一切の揺らぎも同情も憐愍も存在していない。それに男は慣れた様子で一礼し、部屋を後にした。
漸く一人になった政臣は、小さく溜め息をついた。彼も人の子である、情が存在しない筈が無い。だが、綾乃小路たる者、保身は紅を守る事にも繋がるのだから、躊躇も容赦もしてはいられない。……紅の女王、環希の婚約者としては尚更だ。
政臣は、環希を守る為にバケモノを切り伏せる事は出来ない。ごく普通の人間に過ぎない彼は、いざという時、肉体的な剣となる事は出来ないのだ。……大分弱くなったものの、未だ脇腹が疼いていた。
だから彼は――政臣は、自分に言い聞かせる。敵を物理的に切り裂く銀色の剣になれないのなら、敵たり得る者を絡め手で葬る鈍色の剣になれば良いと。……幸いと言うべきか、紅家の従僕である吸血鬼は、肉体的にも精神的にも直接戦闘向きの種族である。だから、肉体的な守りについては然程心配は要らないのだ。
政臣が書類に目を通しながらとりとめのない思考を巡らせていると、みたびノックの音。扉を開いて部屋に足を踏み入れたのは、先程薬を持ってきた若い女。
「……今度は何だ」
不機嫌を声で表現すればきっとこうなるだろう。地を這うような声音で紡がれた政臣の台詞に、女は顔色一つ変えずに答えた。
「紅家当主様がおいでになりましたが、如何なされますか?」
……返答など聞くまでもない。疑問文にする必要すらないだろう。女の言葉を聞いた途端、政臣は書類を机の隅に纏め、机を離れた。
「通してくれ。……彼女が帰るまでは誰も来ないように」
「了解しました」
女が一礼し部屋を出てから少し、戻ってきた女はもう一人の女――紅の女王、紅環希を連れていた。
「いらっしゃい、環希さん。
……どうしたの?」
明らかに豹変する政臣の態度。先程までの、苛ついた冷たい空気は一気に霧散し、環希を見やる瞳は愛しげに細められている。
対する環希は別段普段と態度を違える事も無く、扉を入った所から動かないまま口を開いて、
「近くに用があったから寄っただけだ。
忙しいようだな、じゃあこれで……」
そう、きびすを返そうとする。それを寸前で阻んだのは、素早く距離を詰めて、彼女を背後から抱き寄せた政臣だった。
「つれないなぁ……久しぶりに会えたっていうのに」
「三日前に会ったばかりだろう」
「三日前に会ったきり、だよ」
抱き締める腕を緩める素振りすらない政臣に、呆れたような溜め息をつきながらも抵抗しない環希。……彼女をこの部屋まで連れてきた女はとっくに退室している為、人目も無ければ止める者も居ない。
「……ねぇ、環希さん」
環希の耳元で熱っぽく囁く政臣、
「予想は付くが一応聞いてやる、何だ?」
今にも溜め息を吐きそうな風に問い返す環希。
「……して、いい?」
後ろから環希の顎を持ち上げて、覗き込むように、唇が触れ合う寸前まで顔を近付けて。囁く、政臣。
環希は今度こそ盛大に溜め息を吐いたが、近付けられた顔から逃れようとはしない。
「ここで私が拒んでも、うまくいった試しが無いんだが?」
ふ、と。その言葉に政臣が黙って笑みを浮かべ、触れるだけの口付けを落とした。
「……嫌じゃないよね?」
自信に溢れたその台詞に、思わず口籠もる環希。政臣は益々笑み深く、角度を変え深さを変え口付けを降らせて……少しずつ、彼女を甘やかな夢へ堕としてゆく。
かくりと環希の膝が折れて、政臣はその彼女の身体を抱き上げる。――向かうのは、直ぐ隣の部屋、彼の寝室。




