第8話
『ゆうくん、大好きだよ』
聞き馴染んだ花純の声が聞こえてくる。ここまでは今までと変わらない。いつもと違うのは、再生ボタンに触れているのが優太ではなく俺であるということだ。
まもなくハムスターから花純の苦しそうなうめき声が聞こえてくる。録音された音声には優太が看護師を呼びに行ったと思われる切迫した声や複数の人間が出入りするような忙しない足音が混ざり始める。
再生される過去を振り払うように、優太はきつく耳を塞ぎ頭を激しく振る。
「っ……やめろ……。やめてくれ……!」
苦しむ優太が救いのまなざしを向けてくる。しかし俺には停止ボタンを押す気がない。
「ここに録音された花純の声を俺に聞かせた後、いつも優太はすぐに俺からハムスターを取り上げ、自分の胸に抱き寄せていた。それは停止ボタンを押すためだな? そして花純の声の後に続く辛い記憶から逃れるためでもあった」
優太が俺の手からぬいぐるみを取り返そうと必死の形相で迫ってくる。俺は伸ばされる手を必死に交わし、意地でもぬいぐるみを優太の手に渡さない。優太の顔が苦しみが滲むそれから怒りが滲むそれに変わる。
「やめろ……俺はこんなもの聞きたくない……。俺の幸せを壊さないでくれよ!」
優太が俺にも自分にさえも隠していた時間。
おそらく花純との最後の時間を託されたのが、このハムスターだったのだろう。
俺は苦しそうにもがく優太から目をそらしそうになるのをこらえる。
すべては結末を見届けるために必要なこと。
優太は真実を知るために、あの時の辛い記憶と向き合わなければならない。
「お前はいい加減知るべきだ。……目を背けてきた真実と向き合わなければならない時が来たんだよ」
「一体何を言って……」
優太が再び口を開きかけたとき、俺は人差し指を唇に当てた。
思わず眉間に皺を寄せた優太だったが、次の瞬間はじかれたように顔を上げ、俺が宙に掲げたままだったハムスターの方に目を向ける。
二人の耳に聞こえてきたのは、あの鈴を転がしたような柔らかな声だった。
『ゆう、くん……大、好きだよ。どうか、長生き、して、ね……』
それは聞き逃してしまいそうなほど小さな愛のささやきだった。
俺は目の前で呆然と立ちすんだままの優太の手を静かに取り上げ、その上にハムスターを置いてやる。
「この録音機の録音時間は約1分。花純はこの1分間の最初だけじゃなく最後にもお前への思いを残していたんだ。当時お前は看護師を呼ぶために席を外していたんだろう。気が付かなかったのも無理はない」
それに花純の声は耳をすませないと分からないほど小さかった。先程みたいに相当注意して聞かないと気付くことができなかったに違いない。昨日の夜、優太が再生したときも室内のテレビがついていた。酔っていた優太が停止ボタンを押し忘れていたとしても、俺たちが最後に録音された花純の声に気付くことはなかっただろう。
何よりも優太にとって当時の記憶はあまりにも辛いものだ。先程の様子を見る限り、優太は一人でいるときでさえいつも冒頭5秒間だけ聞いて録音を止めていたはずだ。大切な人が苦しむ様子を見たり聞いたりするのは誰だって嫌に決まっている。
とはいえ一歩間違えれば優太を失う未来もあったかもしれない。その事実に今更ながら肝が冷える。しかしそうであるなら、なぜ花純はわざわざ最後の言葉を残したのだろうか。
今なら分かる。それはたぶん、このハムスターを優太に贈ったのが他ならない俺だったから。たとえ優太が花純の言葉に気付けなかったとしても、優太の傍には俺がいるから。俺が必ず優太に花純のメッセージを届けてくれると花純は分かっていたのだろう。
優太を通して向けられた花純からの信頼の情に、思わずまぶたが熱くなる。
俺はそれを悟られないよう、肩を細かく震わせる優太へ向け、努めて明るい声を向ける。
「花純との約束、何が何でも守れよ。お前ならきっとできる。……俺は、俺たちは、ずっと優太のことを信じてるから」
優太にそう言い残し、俺は荷物を持って優太の家を後にした。
空はいつの間にか明るさを取り戻していた。
冷え切った空気の中から温かい朝の日差しが顔をのぞかせる。
俺はそのまぶしいきらめきが今日という日の始まりを少しずつ満たしていく様を、いつまでも愛おしげに眺めていた。




