エピローグ 呼吸
あの頃のことを思い出すとき、最初に浮かぶのは音ではない。
静けさのほうだ。
音楽室の静けさ。
病室の静けさ。
どちらも少し似ている。
今はもう、あの楽器を持ってはいない。
生活の中で、音楽は特別な場所にあるものになった。
それでも、ふとした瞬間に思い出すことがある。
待っている時間のことを。
すぐに音を出さない時間。
自分の番ではない時間。
それでも確かに、音楽の中にいる時間。
あのとき、自分は上手くやれていたのかどうかは分からない。
シンバルも、ティンパニも、大きな音ばかりが残る楽器だった。
けれど、何度か思い出す場面がある。
タクトが振り下ろされる瞬間。
音が重なっていく瞬間。
皆と一体になる瞬間。
自分の音が、全体の中に溶けていく感じ。
それが何だったのか、今でもはっきりとは言えない。
ただひとつだけ、残っている感覚がある。
息をしていた、という感覚だ。
あのときは、うまく呼吸できていた気がする。
今よりも不安で、今よりも未熟で、今よりも揺れていたはずなのに。
それでも確かに、音の中で息をしていた。
白い天井の下で始まった時間が、どこへ続いていたのかは分からない。
けれど、あの時間が途切れたままではないことだけは分かっている。
今もときどき、静かな場所で思い出す。
あの一瞬だけ、世界の中に自分の呼吸があったことを。
連作は、はしめてでしたが、なんとか完結することができました。
お読みいただきありがとうございました。
今後とも、精進して参ります。
よろしくお願いいたします。




