五
玄宗は唐の六代皇帝になった当初、意欲的に政治に取り組んでいた。「開元」と元号を改め、官制を改革し、奢侈の禁止令を出し、土地問題を処理して、地方制度を改めた。玄宗は皇帝になる前、臨淄王であったときの側近、姚祟・宋環らの賢臣を宰相に任用して良政を行い、彼らが外征を抑えて人びとの暮らしの安定に努めたので、戸口が増えて産業も発展した。
「開元の治」と呼ばれる唐の盛世に、唐の文物・制度は周辺諸国に波及した。それは日本も例外ではなく、律令制を取り入れ、国の体制を整えた。
けれども、治世も長くなると玄宗は政治に倦み、李林甫の讒言によって、名宰相・張九齢を罷免して、後任に李林甫を置いてから、政治は大きく乱れた。
李林甫は政敵を次々と退けて、自分の意のままになる人物を宰相にすえた。また、辺境の異民族を武官に任命した。
節度使の制度は開元年間から始まった。これは、辺境の要地に置かれた軍団の司令官で、軍政のみならず、民政・財政を握って強大な権限を持っていた。この節度使に、ソグド人の安禄山が任じられる。
同じころ、玄宗は息子の寿王の妃だった楊玉環の美貌に目をとめ、息子の妃を自分の妃にするのは道徳に反するので、一度、楊氏を道教の女道士にし、改めて後宮にいれ、寵愛した。楊貴妃と日夜、宴遊にふけって玄宗は政務を顧みず、李林甫、楊貴妃のまたいとこの楊国忠、さらに玄宗と楊貴妃と李林甫に取り入って出世し、平盧・范陽・河東の三節度使を兼ねるまでになった安禄山、この三人に政を任せきりにするようになった。
しかし楊国忠によって失脚した李林甫が没したのちの天宝十二年(七五三)、宰相になった楊国忠と安禄山が玄宗の恩寵をめぐり、争うようになる。
顔真卿が平原太守となったのは、このような時期のことであった。
天宝十三年(七五四)、安禄山が叛意を抱いているという噂が何度か流れた。
平原城に赴任した顔真卿は、長雨にかこつけて城を堅固にし、優れた若者を集めて訓練をほどこし、食糧を蓄えた。その一方で、賓客と船を浮かべて酒を飲み、反乱に備えていることを隠した。
武人である安禄山は、「顔真卿は書生であって、恐れるに足りない」と考えていて、真卿に警戒することはなかった。
玄宗の側にいる楊国忠に陥れられることを恐れた安禄山は、天宝十四年十一月、楊国忠を討伐する名目で、范陽において挙兵する。
自分の思う壺にはまった安禄山に、楊国忠は喜び、玄宗が楊貴妃と共にいた離宮の華清宮へ廷臣を召集して対策を講じさせたとき、彼は言った。
「叛いたのは、安禄山だけです。将士には、叛く気はないのです。十日もたたないうちに、きっと禄山の首級がここへ送られてくることでしょう」
楊国忠に言われ、玄宗は安心し、討伐の命令を受けた将軍もそのように考えていた。
中央の人びとは、彼らをなめていた。事態はそんな安易なものでなかったことに、すぐに気づくことになる。
辺境に住んでいた騎馬民族を中心とする安禄山の兵たち十五万は、彼らの予想をはるかに超えて早くも洛陽めざして河北の平野を南下した。
平和に慣れていた人びとは混乱し、州・県の長官は城門を開いて迎えるか、城を捨てて逃げ隠れした。安禄山は降伏した州・県に自分の部将を長官として任じて残しておき、ほとんど抵抗を受けることなく、唐の第二の都市・洛陽に直進し、占拠した。
洛陽にいた官僚たちの多くは降参したが、東京留守(東都長官)の李僜、御史中丞(御史台の長官)の盧奕、採訪判官(採訪使の属領)の蒋清は最後まで踏みとどまって抵抗し、捕えられて斬られた。
挙兵したとき、平原太守の顔真卿へ、「平原郡およびその南西にあたる博平郡の兵七千を率いて河津(黄河の渡津)を防御するように」と、安禄山は命令した。
通牒を受け取った顔真卿は、それに従わず、平原郡の司兵参軍(兵務部長)の李平を早馬でもって朝廷に遣わし、報告させた。
河北の郡県がことごとく安禄山になびいたありさまを見て、
「二十四郡にたった一人の義士もいないのか」
と、嘆いていた玄宗皇帝は、顔真卿からの使いが到着したことで大いに喜んだのだが、同時に、
「朕は、顔真卿がどんな容子をしているのか、覚えてもいない。それに、どうしてこのように忠義をつくしてくれるのか」
と言った。
これは『顔真卿の孤忠』として、有名な話である。
策試の際、玄宗は顔真卿を見ているのに、覚えてもいなかった。真卿にしても、皇帝個人への信愛の情とかではなく、学問の家の者として、孔子の言葉『君は君たり。臣は臣たり』という、臣下として当然の行為をしただけのことであった。
安禄山は河北諸郡の中に、自分に従わない者がいるのが気にかかってしかたがなく、示威のため、部下の段史光を遣わし、洛陽占拠の際に斬首した李僜、盧奕、蒋清の首級を河北諸郡にもちまわらせた。
それが平原郡にやってきたのは、洛陽陥落から十日もたたない十二月十八日のことだった。
この三人は唐の皇室のために忠節をまもった人たちであり、中でも盧奕は、開元の初めの宰相で清節をもってきこえた盧懐慎の子であった。
段子光は平原城へ乗り込んできて、威圧する。
「安僕射[安禄山は尚書左僕射なので]は、十三日に東京へお入りになった。遠近ことごとく降参したのに、河北の諸郡は従わないというではないか。ゆえに吾が命令を承って、これを貴公に伝えるのだ。吾をなめてかかると、あとが怖いぞ」
と、首を指さして、これは誰のあれは誰のと、得意げに説明した。
顔真卿は、三人を見知っていた。
なんと痛ましいことか、そう思ったが顔には出さなかった。味方の将兵たちの動揺のほうが恐ろしい。だから、声を張り上げて、言った。
「私はこの三人をよく知っている。これは、にせ首だ!」
と、部下に目くばせすると、その者は段子光に躍りかかって胴を横ざまに斬り、絶命させた。他の兵らも、段子光の部下を逃がさず、たちまち討ち取る。
敵を血祭りにあげ、城内に鬨の声が上がった。
幸先良し、と顔真卿は、城門を閉め、首級を隠し、守りをかためた。
そして人びとの心が落ち着くのを待って、三人の首級を取り出した。しかし、首だけでは葬式はできないので、蒲の葉を束ねて人の胴体手足の形をつくり、それぞれの首級をつけて棺におさめた。その後、城外に壇を設け、顔真卿自らが祭主となり、これを祀って慟哭し、人びとの弔問を受けた。
十二月の二十日過ぎの寒風の中、城外で祭祀を行う太守・顔真卿の姿に、人びとの心はまとまった。
安禄山に呼応する地方官が多い中、孤軍とならなかったのは、近くの常山の太守が従兄弟の顔杲卿だったからである。