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 顔真卿が二十六歳で進士となった翌年、玄宗皇帝の皇子が楊玉環ようぎょくかんを娶った。このころ、まだ世の中は変わりなかった。太平の世が続くかと思われる日々の中、彼は官吏の道を歩み始めることとなる。

 二十八歳になると真卿は朝散郎・秘書省著作局校書郎を授けられ、ようやく官界へ乗り出すことになった。この部署は、宮廷の御用のために碑誌・祝文・祭文などを作る役所で、校書郎は書籍の校勘を担当する属官、学識の者が命ぜられた。学者の家の出である顔真卿にふさわしい職である。

 けれども、文官として出世する間もなく、三十歳のとき、母が亡くなり、喪に服すため、官を辞さねばならなかった。

 そうしているうちに、三十三歳のとき、かわいがってくれた伯父の顔春卿が亡くなる。臨終の際、伯父は真卿の太ももに手を置いて、

「息子や甥のことはたのむぞ」

 と、言い残した。

 真卿はのちに、彼らの結婚のことなどに世話を焼いた。

 そして年号が開元から変わった天宝元年(七四二)、顔真卿三十四歳のとき、扶風ふふう郡の太守・崔秀さいしゅうの推薦によって、博学文詞秀逸科に挙げられ、玄宗皇帝が勤政楼に出御しての策試に通過した。よって、その年の十月に京兆府の醴泉れいせん縣尉、つまり長安城の西北にあたる県の属官となった。

 この年、草書で名高かった張旭ちょうきょくに会って筆法を尋ねたが、数枚の書をかいてくれたものの、笑うばかりで教えてくれなかった。

 どんなときでも、顔真卿は自分なりの書の工夫を考えていたようだ。このころ、真卿は詩人の李白りはくとも付き合いがあったといわれる。

 天宝四年(七四五)。この年、六十才の玄宗皇帝は二十九才の楊玉環を貴妃とし、その翌年、顔真卿は清廉潔白の評を得て、通直郎とうちょくろうを授けられ、長安尉ちょうあんいに累進した。長安県は首都・長安城の西半分・右街を管轄下に置き、醴泉県と共に、これらの県の官吏になるのは名誉とされた。

 このとき再び、顔真卿は張旭を訪ね、筆法を問うと、反対に訊かれ、彼が全部答えれば、張旭は、

「そのとおり」

 と、うなずいた。

「あなたは、言葉では完全に筆法をわきまえている。しかし、書の道の妙所ははっきりとして趣意がある。字の外にある奇所は、言葉では言い尽くせないのです」

 そして彼は、自分の師の陸彦遠りくげんえんが、川の砂岸に棒で字を書き、筆法を悟った、という話をし、それに真卿も感じるところがあった――と伝わる。

 翌年の天宝六年(七四七)、監察御史かんさつぎょしとなって、北方の河州・隴州ろうしゅう[甘粛省、青海省]の地方官の視察をすることになる。

 天宝七年(七四八)に、顔真卿が河西へ出発する際、友人で詩人の岑参しんじんが「君聞かずや 胡笳こかおと」と始まる『胡笳歌送顔真卿使赴河隴』を作って贈った。

 このころ、五原郡[内蒙古自治区]に、冤罪で投獄されていた者がいた。天もそれに不服だったのか、雨が降らない日照り続きだった。ところが顔真卿が事件を解決し、判決を下すと、たちまち雨が降った。

 郡の人びとは、その雨を「御史雨」と呼んだという。

 清廉な官吏は少なく、のちに顔真卿が神仙としての「顔魯公」と崇められることになる逸話の一つである。

 この年、私事では長男の顔頗がんはが生まれ、真卿にとっては嬉しいことであっただろう。

 彼の息子として知られるのは、きんせきの三人で、のちに、父の書風を継ぐ次男の頵は沂水県男ぎすいけんだんに封ぜられ、碩は新泰県男しんたいけんだんに封ぜられた。つまり、県男という九等爵で従五品以上の位と領地を賜った。長男の頗については、安禄山の乱のとき人質となって殺されたと伝えられ、五品の京官を贈られたが、真卿が湖州刺史として在任していた大暦十年(七七五)、忽然と生還したという不思議な話が伝わっている。

 翌、天宝八年(七四九)、河東[山西省]、朔方さくほう[寧夏回族自治区]へ監察しに行ったとき、朔方県令である鄭延祚ていえんそが、母の死後、三十年間も埋葬しなかったことを知り、顔真卿はこれを「孝にもとる」として弾劾し、認められた。その結果、詔が下り、この県令は終身、官吏・名家の仲間との付き合いを禁じられたので、聞いたものは恐れをなしたという。

 やがて顔真卿は、中央での監察官・殿中侍御史となり、そのとき、兄の允南は皇帝に供奉して諫言する役目の左補闕さほけつになっていて、正月や夏至冬至の正至の朝賀には、宰相以下登殿する者の数は三十人に過ぎなかったのだが、その中に允南と真卿の兄弟二人が入っていたのは、家門の誉れであった。

 この殿中侍御史在任中、戸部郎中(局長級の財務官僚)であった吉温きつおんが、当時、兵部侍郎(陸軍省次官)兼御史中丞(監察院次官)であった楊貴妃のまたいとこ・楊国忠ようこくちゅうに知恵をつけて、御史台(監察院)の長官である御史大夫の宋渾そううんを冤罪で陥れ、地方に流した。宋渾に罪はなく、まして彼は開元年間の名宰相・宋璟そうえいの子であった。

 顔真卿は、このような不正を見逃すことはできず、彼の流謫るたくに強く反対し、吉温らを面罵した。八月のことである。

 吉温はもともと、宰相・李林甫りりんぽによって出世した男であったが、楊国忠が次に権力を握ると見て、李林甫の力をそぐため、腹心の宋渾を陥れたのだった。

 このことから、真卿を嫌った楊国忠は腹心を使って、彼を東部採判官、つまり洛陽の採訪使の属官に転出させたが、すぐに再び真卿は侍御史となって中央へ戻り、百日余りで武部員外郎ぶぶいんがいろう兼、判南曹はんなんそうとなった。

 しばらくは平穏な日が続く。

 顔真卿は勅命によって天宝十一年(七五二)、『多宝塔碑』などを書いている。だが、陽国忠は報復の機をうかがい、そのため、翌天宝十二年(七五二)、顔真卿は人材登用という名目で、山東省の平原太守という地方官に移されてしまった。真卿、四十五歳のときである。

 このとき、友人の岑参しんじんが『送顔平原』という詩を、高適こうせきも『奉寄平原顔太守』という詩を送った。





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