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 晩年、『顔氏家廟碑』に彼が記したところによると、古代・春秋の頃、顔氏の祖先は魯国に仕え、孔子門下の有名な弟子七十二名の内、顔氏が八名いた。そのうちの一人が、孔子が最も高く評価した顔回がんかいである。

 そして書かれていないことではあるが、別系統の顔氏の一族の顔徴在がんちょうざいが孔子の母で、正式な結婚でなく生まれ、早くに父を亡くした孔子は山東省の魯国の顔氏の一族の中で育った。顔氏は当時、『じゅ』という祈祷師を生業とする人々であり、そのころには珍しく読み書きが出来た。その知識を武器に、青年・孔子は世に出て行く。

 一方の顔氏であるが、漢代に『春秋公羊伝』の研究者として名高い顔安楽がんあんらくが出て、その後は戦乱で系譜が失われるが、三国・魏に至って、良吏の顔斐がんひせいが出る。

 顔斐は、京兆太守となって荒廃したその土地を活性化させ、平原太守として転任しようとすると、人びとが泣いてその道をさえぎったという。

 また、魏に仕えて青徐せいじょ二州の刺史しし[長官]となった顔盛のとき、戦乱をさけて魯から南の山東省・瑯邪臨沂ろうやりんぎ孝悌里こうていりに移った。

 瑯邪臨沂は、王羲之の先祖が出たところで、書の二大大家の出身が同じなのも奇妙な縁である。

 晋に仕えた顔含がんかんは、北方の異民族の圧迫によって元帝が江南の地に渡って東晋の王朝を建てるとそれに従い、以後、七代南方に住んだ。北方に居を移すのは、顔之推がんしすいのときで、それから顔氏は京兆けいちょう・長安の人となる。

 王羲之の家が東晋時代に江南に移住し、一族がそこで栄達した一方で、顔氏のほうはさほど出世した人もいないし、資産の状態もさほど良くなかった。

 顔氏は世渡り下手の一族だったが、代々立派な学者を輩出した。

 江南から北方に渡って梁・北斉・北周・隋の南北四王朝に仕えた顔之推がんしすい、唐初に『五経正義』の編纂に加わり、碩学の名を得た顔師古がんしこの二人は、先祖の中で特に傑出している。

 ことに顔之推が書いた『顔氏家訓』は、子弟教育の書として、日本の平安貴族によく読まれた。




 隋代に、顔真卿の博学な高祖父・思魯しろは東宮学士だったが、子弟を引き連れて唐の高祖の義兵に参じた。

 その子で真卿の曾祖父・勤礼きんれいは篆書にすぐれ、訓詁学に精通し、のちに長兄・師古しこ、次兄・相時しょうじと同じ弘文館・崇賢館の学士となった。

 一家から三人も学士が出るには稀なことであり、名誉であった。しかし、勤礼は妻の兄・柳奭りゅうせきの罪に連座して左遷される。

 真卿の祖父・昭甫しょうほも訓詁学に明るく、能書家であり、唐の三代皇帝高宗が晋王であったときの侍読じどく[家庭教師]だった。

 彼の父・惟貞は幼くして父を失い、母方の舅父おじ殷仲容いんちゅうように兄・元孫と共に育てられ、長じては科挙に合格し、席次を順調に上げていったのだが、薛王友、つまり玄宗の弟・恵宣太子業の侍官となっていたとき、御史大夫・張知泰の妻になっていた長姉の魯郡夫人が亡くなり、「埋葬に立ち合うのはよろしくない」という占卜せんぼくを無視し、従わなかった。そのためか、急病に罹り、亡くなったのだった。

 良吏と学者・能書家が先祖・一族に多くいるため、顔氏は早くから学問の家、「学家」と知られていた。

 顔回という孔門十哲の一人が先祖にいることで、儒学は顔真卿の血肉のようなものとして感じられたことだろう。

 開元二十二年(七三四)、二十六歳のとき、顔真卿は科挙で進士に及第する。




 近代以前の中国の社会を語るには、大きな影響を与えている三教を知らねばならない。それは、儒教・仏教・道教である。

 儒教の創始者は孔子、というのが一般的な受け止め方だが、孔子は紀元前十一世紀頃の周王朝の制度・文物を自分の生きた時代の乱世に復活させようと、整理・集約を行った人物で、その主張は「天地を祭り、祖先を敬い、君主・長老に従い、親に孝を尽くし、人に仁愛を施すこと」であった。その後、百年ほどして、孟子が「仁愛と正しい上下関係こそが社会秩序の維持に必要である」と主張した。

 この教えは当時の社会に受け入れられなかったが、漢代になって儒学者・董仲舒とうちゅうじょの意見を武帝がいれ、儒教の考えを国の根本に置いた。

 中国に仏教が伝わったのは、一世紀頃で、後漢の時代、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、人びとの間に仏教が広がっていったと推測される。

 三世紀頃から、サンスクリット仏典の漢訳が始まり、五世紀の南北朝時代になると、仏教は盛んになり、北魏の太武帝、北周の武帝の廃仏という法難があったにもかかわらず、隋代になると文帝は儒教に代わって仏教を治国の中心に据える政策をとった。

 ちなみに中国の仏教は、『三武一宗の廃仏』という(北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗)、四度の法難に遭っている。

 六世紀になると、仏教宗派が生まれ、禅宗・天台宗・華厳宗・浄土宗はこのときからで、唐へ王朝が替わると、仏教は国家の統制下にありながらもますます盛んとなる。

 七世紀、唐の二代皇帝・太宗のとき、国禁を破って天竺へ向かった玄奘三蔵げんじょうさんぞうは大量の仏典を持ち帰り、仏教興隆の機運が高まった。

 八世紀、玄宗の頃に不空ふくうが密教を大成し、その弟子の恵果えかの教示で、空海は真言密教を日本へ持ち帰った。

 春秋時代に孔子たち思想家と違って、無為自然に生きることを説いた老荘思想は、不老不死を説く神仙思想と結びついて発展し、三国時代に老荘思想や神仙思想、仏教の宗教儀礼、呪術などを取り入れた張陵ちょうりょう五斗米道ごとべいどう張角ちょうかく太平道たいへいどうという民衆教団が生まれ、それらが天師道てんしどう教団となっていく過程で、淫祠邪教いんしじゃきょう的な部分を排して、道教を成立させたのは、五世紀、北魏の人、寇謙之こうけんしである。

 以後、儒教・仏教・道教は中国の人びとの暮らしの中に深く根ざし、「儒教は天理を、仏教は心を、道教は肉体を説くとして、人を幸福に導く目標において一致している」とする。

 八世紀の盛唐に生きた顔真卿も、この考え方の中にあり、長安の千福寺の多宝塔を建立した由来を記した『多宝塔碑』、神仙の話『麻姑仙壇記』という仏教・道教に関わる作品がある。





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