9 遠距離夫婦
少女がくれた鈴は、黒リボンのチョーカーと合わせて、身に付ける事にした。姿見で自分の首元の小さな鈴を確認する。これがわたしの『定義』にぴったり当てはまる気がしたのだ。
「これでお主は『猫鈴の話者』じゃな」
「二つ名ってやつですね。でもそれ、かっこいい感じではないですね」
「気に入らんなら、我が鈴ごと引き取ってもよいのじゃぞ」
「お気遣いなく」
アイレン先生は、隙あらばこの鈴を狙ってくるので油断がならない。
「ところで、その鈴を渡したという者じゃが、赤髪ではなかったか?」
「髪の色なら栗色だった気がしますが……ご存じなんですか?」
先生はため息をついて、首を振った。
「いいや。もしやと思うての」
遠い目をしてしばらく何か考えていた先生は、遅い朝食を食べているエスティガさんに目をやった。
「エスティガよ、ルミエラはどうしておる」
急に問いかけられたエスティガさんがむせ返る。
「何ですか、いきなり。あいつなら、くそ真面目に修練してますよ」
「何か聞いておらぬか」
「さあ、特には何も」
「あの、ルミエラさんって?」
「エスティガの妻じゃ」
「えっ?」
思わず聞き返してしまう。自由が服を着て歩いているようなこの人が、まさか、既婚者だったとは。
「奥さんはどこにいらっしゃるんです?」
エスティガさんは素知らぬ顔でパスタに追いチーズを振りかけている。
「もしかして、聞いちゃいけなかったですかね」
エスティガさんが答えないので、先生に小声で尋ねる。
「今はグレアリムズという都市国家にいる。この森からすると、星の丁度裏側にあたるところじゃ」
「わ、究極の別居じゃないですか」
「なんでちょっと嬉しそうなんだ」
わたしが鼻息を荒くすると、エスティガさんがじろりとこちらを睨んできた。
「寂しくないんですか?」
「『扉』もあるし、直接会わなくても、向こうの世界でも会えるしな」
それを聞いて、一気にテンションが下がる。
「心は繋がっているってやつかー。つまらないなー」
「向こうにまともに行くことも出来ない奴が、偉そうに」
「まだ見習いですもん。先輩が行き方教えてくださいよ」
「十年早いな。修行しろ」
今日のエスティガさんはいつもよりちょっとトゲがある。この間、顔に落書きしたのを根に持っているのか、奥さんの話を避けようとしているのか。
「でも想像できないな、エスティガさんの奥さんか」
「お呼びかしら」
不意に、背後から女性の声がした。振り返ると、長い黒髪の女性が出入口の前に立っていた。
「ルミエラ、よく来たな。聞いておったか」
先生が彼女に歩み寄ると、ルミエラと呼ばれた女性は軽くお辞儀をしてから、わたしをちらりと見た。
「この子が例の?」
「うむ、新弟子のサヤじゃ」
艶のある黒髪に、スラリとしたスタイルで、物凄い美人。わたしは目が合っただけで赤面してしまった。
「はじめまして。エスティガの妻のルミエラです」
「あ、あの、サヤです。えっと本日はお日柄も良く」
ルミエラさんに丁寧に挨拶されたものの、緊張しすぎて、しどろもどろになってしまう。
「思ったよりも、可愛らしい子ですね。『猫鈴の話者』さん」
可愛らしいだなんてそんな。わたしは顔から湯気が出そうになる。
「サヤが身に付けているのが例の鈴じゃが、どう思う?」
先生が聞くと、ルミエラさんはわたしの首元に目をやった。
「わたしたちは関与していませんので、別の話者か、それに類する者かと」
「念の為、気にかけておいてくれぬか」
「承知しました」
ルミエラさんはうなずくと、エスティガさんを一瞥した。こちらに背中を向けたまま、まだパスタをすすっている。
「ちょっと、エスティガさんっ。奥さんがいらしてますよ」
「知ってるよ」
エスティガさんは、わたしが背中をつついても、一向に気にかける様子もない。
「会うの久々なんでしょう? 何か言うことあるでしょう」
「例えば」
「『元気だったか』とか、なんなら『愛してるよ』とか」
「勝手に盛り上がるな」
エスティガさんはパスタを平らげるのに夢中で、聞く耳を持たない。段々腹が立ってきた。
「サヤさん、良いのです。食事中はいつもこうですから」
ルミエラさんは落ち着いた口調で言ったが、納得出来ない。
「奥さんと食事とどっちが大事なんですか」
「そんなもん、どっちもに決まってるだろうが」
「奥さんが大事なら、顔くらい見たらどうですか」
「うるさいな、母親かお前は」
エスティガさんとやり合っていると、ルミエラさんがクスリと笑った。それを見たエスティガさんたちは、なぜか驚いた表情をして固まった。
「今、ルミエラのやつ笑ったよな? 見たか?」
エスティガさんがわたしに耳打ちする。
「見ましたけど」
「用心しろ。何が起こるか分からん」
「え?」
と聞き返す間もなく、突然大きな雷鳴が響いて肝を冷やした。窓から外を眺めると、さっきまで快晴だったはずの空が、暗雲に包まれている。程なくして滝のような雨が降り出した。
「えぇ……」
わたしはどういう理屈か分からず、声が漏れてしまった。
「あいつが感情を表に出すと、周囲に色々と影響が出るんだ」
当のルミエラさんは涼しい顔をして前髪をいじっている。
「なぜそんなことに」
「長くなるから説明は今度な」
エスティガさんはそれだけ言うと、何事も無かったようにパスタをすすりだした。
「サヤさん、ちょっといいかしら」
「は、はい」
ルミエラさんに話しかけられて、わたしは声が裏返ってしまった。
「実は、あなたに会って頂きたい方がいるのです。良ければ、わたしと一緒に来て頂けませんか?」
わたしは先生と顔を見合わせた。
「もしや、エイレンか?」
先生が警戒気味に聞くと、ルミエラさんはゆっくり頷いた。
「こちらに参りましたのも、それが目的です」
「そのエイレンさんって……まさか」
「我の姉じゃ」