5.離れて咲く花
数日後、ノアは薬草院を閉める準備を始めた。王都から北へ三日ほどの村に、老薬師の後任を探している診療所があるという。荷は驚くほど少なかった。薬草の種、古い薬研、母の形見だという小さな銀の匙。それだけで、彼の人生は遠くへ行けてしまう。
「逃げるの?」
「そう見えるなら、そうかもしれません」
ノアは箱の蓋を閉じ、微笑んだ。その笑みはいつもと同じ柔らかさを持っていたのに、エレナには扉を閉ざす音に聞こえた。
「あなたを守りたいのです。僕の名があなたの傷になるくらいなら、遠くからあなたの幸福を祈るほうがいい」
「私の幸福を、私抜きで決めないで」
声が震えた。貴族令嬢として訓練された完璧な声音ではなく、三年前の雨の日の少女の声だった。ノアは動きを止めた。
「あなたが私を大切にしてくれることは分かっているわ。でも、大切にするという名で置いていかれるのは、愛ではなく孤独よ」
ノアの瞳が揺れた。彼は初めて、薬師でも庇護者でもなく、ただ一人の青年として苦しげに眉を寄せた。
「僕は怖いのです。あなたの人生に触れることが。僕の手は薬草と土に慣れている。王妃になるはずだった人の手を取るには、あまりに粗末だ」
エレナはその手を取った。指先は硬く、爪の間には洗いきれない土の色が残っている。けれど、その手は雨の夜に彼女を救い、熱に浮かぶ子どもの額を冷やし、痛みに泣く老人の背を支えてきた手だった。
「私は、この手がいいの。この手じゃないと……ダメ、なの……」
ノアは何かを言おうとして、言葉にできなかった。ただ額を彼女の手に寄せ、祈るように目を閉じた。その沈黙が、どんな誓いよりも深くエレナの胸へ届いた。




