2.雨の日の薬草師
その夜、エレナは王宮の客室ではなく、公爵家の古い馬車で城下へ向かった。華やかな灯りが遠ざかるほどに、胸を締めつけていた見えない紐が少しずつ緩んでいく。
御者が馬車を止めたのは、王都の外れにある小さな薬草院だった。石造りの建物の窓には淡い明かりが灯り、雨に濡れた薬草の匂いが夜気に混じっている。
扉を叩く前に、中から青年が現れた。灰色の髪を後ろでひとつに結び、袖口には乾いた土の跡がある。王宮の誰よりも地味で、けれどエレナにとっては、どんな宝石よりも目を引く人だった。
「来ると思っていました、エレナ様」
「様はいらないと、何度言えば覚えてくださるの。ノア」
ノアは困ったように笑った。人を安心させる、柔らかな笑い方だった。初めて出会った雨の日も、彼は同じ顔で彼女に手を差し伸べた。
三年前、エレナは王宮の慈善訪問の帰りに馬車の事故に遭った。付き添いとはぐれ、泥に膝をつき、貴族令嬢としての体裁も誇りも雨に流されてしまった彼女を見つけたのが、薬草師見習いだったノアである。
彼は彼女の身分を知らなかった。濡れた髪を拭く布を貸し、傷ついた足首に薬を塗り、温かいスープを差し出した。ただそれだけだった。けれど、その「ただそれだけ」が、エレナには涙が出るほど尊かった。
王宮では、彼女は常に未来の王妃として扱われた。言葉遣い、歩き方、笑顔の角度まで、すべてが国のために整えられていく。誰もエレナ自身を蔑ろにしていたわけではない。それでも彼女は、ときどき自分が透き通った器になっていくような心細さを覚えた。
ノアだけが、彼女を役目ではなく一人の人として見た。貴族の娘でも、王太子の幼なじみでも、国の均衡を保つための花嫁でもない。ただ、雨に震えるひとりの少女として。
「断ったのですね」
ノアの声は穏やかだった。責めるでも、喜ぶでもない。ただ、夜の雨音に似た静けさがあった。
「ええ。けれど、たくさんの人を傷つけたわ」
「傷つけない選択だけが、正しいとは限りません」
エレナはその言葉を胸の内で何度もなぞった。慰めではない。赦しでもない。ノアはいつも、彼女が自分で立つために必要な言葉だけをくれる。




