第九章 最後の抵抗
会社から追い出された直樹は、夕暮れの街を彷徨っていた。
行くあてもない。
スマホの連絡先を開いても、美咲の番号は消えていた。
母の番号もない。
残っているのは、見覚えのない番号ばかりだった。
街灯が灯り始める頃、彼は桜荘へ戻った。
部屋に入ると、妙に広く感じた。
そこには「自分」という痕跡がほとんど残っていなかった。
靴箱には二組の靴が整然と並び、洗面所には二本の歯ブラシが置かれている。
しかしそのどちらも、自分が使った覚えのあるものではなかった。
「……消される」
呟きながら、直樹は机の引き出しからノートを取り出した。
せめて、自分が生きていた証拠を残さなければならない。
紙の上なら、改竄されることはないはずだ――そう信じた。
震える手でペンを走らせる。
《俺は村瀬直樹だ。
二十六歳。東京都出身。〇〇大学を卒業し、四月から□□商事で働いている。
ここに確かに存在している。》
何度も、何度も、同じ言葉を書き込んだ。
ページが黒く埋まっていくのを見て、わずかに安堵する。
これで、完全には消されない。
俺は俺だ。俺は確かに――
だが、ふと気づいた。
書き終えたばかりのページに、見覚えのない一文が紛れ込んでいた。
《俺はいらない》
血の気が引いた。
慌てて次のページをめくる。
そこにも、同じ筆跡で書かれていた。
《俺はいらない》
《俺はいらない》
《俺はいらない》
めくるたびに、すべてのページがその言葉で埋め尽くされていた。
しかも、それは間違いなく直樹自身の筆跡だった。
インクの濃淡も、筆圧も、癖も――自分が書いた文字そのものだった。
「違う……俺は、書いてない……」
手からノートが滑り落ちた。
床に散らばったページから、ざわざわとした音が立ち上がる。
紙が擦れる音ではない。
低く、不気味な囁きだった。
《いらない、いらない、いらない――》
耳を塞いでも、声は頭の中に直接響いてくる。
ノートを拾い上げて破ろうとした瞬間、窓ガラスに視線を感じた。
反射的に顔を上げる。
ガラスの向こうに、“もう一人の直樹”がいた。
夕闇の中で、にやりと口角を吊り上げてこちらを覗いている。
心臓が跳ね上がった。
窓は三階に面している。外に足場などない。
それなのに、奴はそこにいる。
自分と同じ顔で、自分にはできないほど歪んだ笑みを浮かべながら。
直樹は後ずさった。
奴の手がゆっくりとガラスに触れた。
曇った手形が浮かび上がり、そこからじわりと波紋のようなひびが広がっていく。
「やめろ……来るな……!」
叫びながら、近くの椅子を掴んで窓に投げつけた。
ガラスが激しく揺れたが、割れなかった。
それどころか、内側にいる直樹の顔がひびの隙間から覗き込み、声なき笑いを浮かべる。
――入ってこようとしている。
背筋が凍りついた。
逃げ場はない。
ノートは「いらない」で埋め尽くされ、スマホには誰一人として味方が残っていない。
そして今、物理的な境界すらも破られようとしている。
窓ガラスの向こうで、もう一人の直樹が唇を動かした。
音はない。
だが、確かにその言葉を読めた。
――「お前は、ここには不要だ」
直樹は震える手で部屋のドアノブに伸ばした。
逃げなければ。
だが、その背後で、ガラスがミシリと音を立てた。
振り返ると、ひび割れたガラスに、奴の指先がめり込み始めていた。
境界が、いま、完全に破られようとしていた。