第十章 鏡の部屋
その日、直樹はもう限界に近かった。
職場からも追われ、家族や恋人からも切り離され、残された居場所は桜荘の一室しかなかった。
だが、帰宅した瞬間、彼は息を呑んだ。
部屋が変わっていた。
玄関に入った途端、正面の壁一面が鏡に覆われていた。
居間の壁、天井、押し入れの扉――あらゆる場所に鏡がはめ込まれている。
畳の上にさえ、鏡のパネルが敷かれ、天井から吊るされた照明の光を反射して、不気味な迷宮のように空間を歪めていた。
「……なんだ、これ……」
声が反響する。
鏡の中で、自分と同じ顔が何十体もこちらを見返していた。
だが、次第におかしいことに気づく。
映っているのは、すべて“笑っている自分”だった。
直樹自身は強張った顔で息を荒げているのに、鏡の中の直樹たちは、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
口角を吊り上げ、歯をむき出しにして、まるで「ようやく捕まえた」とでも言うように。
直樹は慌てて後退した。
すると、すぐ背後の鏡の中で、自分が手を振った。
現実の直樹は何もしていない。だが、鏡の直樹は楽しげに、まるで親しい友人に向けるように緩やかに手を振っていた。
「違う……俺じゃない……」
直樹は部屋を飛び出そうと玄関へ駆けた。
だが、扉の取っ手に触れる前に、正面の鏡の中の自分がぐいと腕を伸ばしてきた。
ガラスの表面が水面のように揺らぎ、その手が現実に突き出してきたのだ。
「やめろ……離せッ!」
直樹は必死に振りほどこうとした。
だが冷たい手が、確かに自分の手首を掴んでいる。
引っ張られる力は強く、膝が床に叩きつけられた。
視界の端に、他の鏡の中の“直樹”たちが一斉に動き出すのが映る。
全員が笑いながら、こちらに手を伸ばしてきていた。
どの鏡の自分も口を開き、同じ言葉を繰り返していた。
――「入れ替わろう」
耳に直接響くような囁きだった。
直樹は必死にドアノブを掴み、逃げようとする。
だが、もう一人の直樹の力は異常に強く、少しずつ身体が鏡の中へと引きずり込まれていく。
足が床から離れた。
片腕、肩、胸と、冷たい水に沈むように鏡の表面をすり抜けていく。
最後に残った片目で見えたのは、鏡の外に“もう一人の直樹”が立ち上がる姿だった。
そいつは笑みを消し、まるで直樹そのもののように自然な表情を浮かべていた。
「……やめろ……俺は……俺はここに……!」
叫びも虚しく、直樹は完全に鏡の中へと引きずり込まれた。
――静寂。
部屋には一人の「直樹」だけが残された。
彼は乱れた服を整え、深く息を吐いた。
そして何事もなかったかのようにスマホを取り出し、誰かにメッセージを送り始めた。
鏡の中では、もう一人の直樹がガラス越しに拳を叩きつけ、必死に叫んでいる。
だがその声が現実に届くことはなかった。




