表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

第十章 鏡の部屋

 その日、直樹はもう限界に近かった。


 職場からも追われ、家族や恋人からも切り離され、残された居場所は桜荘の一室しかなかった。


 だが、帰宅した瞬間、彼は息を呑んだ。


 部屋が変わっていた。


 玄関に入った途端、正面の壁一面が鏡に覆われていた。


 居間の壁、天井、押し入れの扉――あらゆる場所に鏡がはめ込まれている。


 畳の上にさえ、鏡のパネルが敷かれ、天井から吊るされた照明の光を反射して、不気味な迷宮のように空間を歪めていた。


 「……なんだ、これ……」


 声が反響する。


 鏡の中で、自分と同じ顔が何十体もこちらを見返していた。


 だが、次第におかしいことに気づく。


 映っているのは、すべて“笑っている自分”だった。

 直樹自身は強張った顔で息を荒げているのに、鏡の中の直樹たちは、にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべていた。


 口角を吊り上げ、歯をむき出しにして、まるで「ようやく捕まえた」とでも言うように。


 直樹は慌てて後退した。


 すると、すぐ背後の鏡の中で、自分が手を振った。


 現実の直樹は何もしていない。だが、鏡の直樹は楽しげに、まるで親しい友人に向けるように緩やかに手を振っていた。


 「違う……俺じゃない……」


 直樹は部屋を飛び出そうと玄関へ駆けた。


 だが、扉の取っ手に触れる前に、正面の鏡の中の自分がぐいと腕を伸ばしてきた。


 ガラスの表面が水面のように揺らぎ、その手が現実に突き出してきたのだ。


 「やめろ……離せッ!」


 直樹は必死に振りほどこうとした。


 だが冷たい手が、確かに自分の手首を掴んでいる。


 引っ張られる力は強く、膝が床に叩きつけられた。


 視界の端に、他の鏡の中の“直樹”たちが一斉に動き出すのが映る。


 全員が笑いながら、こちらに手を伸ばしてきていた。


 どの鏡の自分も口を開き、同じ言葉を繰り返していた。


 ――「入れ替わろう」


 耳に直接響くような囁きだった。


 直樹は必死にドアノブを掴み、逃げようとする。


 だが、もう一人の直樹の力は異常に強く、少しずつ身体が鏡の中へと引きずり込まれていく。


 足が床から離れた。


 片腕、肩、胸と、冷たい水に沈むように鏡の表面をすり抜けていく。


 最後に残った片目で見えたのは、鏡の外に“もう一人の直樹”が立ち上がる姿だった。


 そいつは笑みを消し、まるで直樹そのもののように自然な表情を浮かべていた。


 「……やめろ……俺は……俺はここに……!」


 叫びも虚しく、直樹は完全に鏡の中へと引きずり込まれた。


 ――静寂。


 部屋には一人の「直樹」だけが残された。


 彼は乱れた服を整え、深く息を吐いた。


 そして何事もなかったかのようにスマホを取り出し、誰かにメッセージを送り始めた。


 鏡の中では、もう一人の直樹がガラス越しに拳を叩きつけ、必死に叫んでいる。


 だがその声が現実に届くことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ