終章
翌朝、桜荘302号室の前に引っ越し業者のトラックが止まった。
段ボールを抱えた若い女性が、不安そうに辺りを見渡している。
地方から出てきたばかりの新社会人らしく、少し緊張した笑顔で玄関前に立っていた。
「すみません、今日からお世話になります」
彼女がインターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
そこに現れたのは、明るい笑顔の青年だった。
「村瀬直樹です。同じ部屋の住人ですよ。ようこそ桜荘へ」
快活で、人懐っこい口調。
人見知りしがちな新生活の不安を一瞬で吹き飛ばすような、親しみやすさ。
女性は安堵の表情を浮かべた。
「よろしくお願いします」
新しい住人は自然にその場に馴染んでいった。
だが彼女は気づいていなかった。
その直樹の笑顔が、ほんのわずかに“貼り付けた”ように見えることに。
部屋の中は、きれいに片付けられていた。
鏡もすべて撤去され、普通の六畳間に戻っている。
そこに怪しい気配など、どこにも見当たらない。
直樹は荷物の搬入を手伝いながら、何気ない会話を続けていた。
「このマンションは古いけど、静かでいいところですよ。
もし何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってください」
新住人は心から安心したように笑い返した。
直樹も笑う。
だが、洗面所の奥――古びた鏡の裏側では、別の光景が繰り広げられていた。
血走った目、痩せ細った顔。
もう一人の「直樹」が、鏡越しに両手でガラスを叩き続けていた。
喉が潰れるほど叫んでいるが、その声は一切届かない。
現実にいる“直樹”は、耳を傾ける様子すらない。
しかし、その時――。
新しい住人がふと洗面所に立ち寄り、鏡に視線を落とした。
ほんの一瞬だけ、彼女の顔が青ざめた。
ガラスの向こうで、知らない男が必死に手を振っている。
しかも、その口がはっきりと動いた。
――「逃げろ」
女性は思わず目をそらした。
心臓が強く脈打ち、全身の血の気が引いていく。
だが、もう一度鏡を見た時には、そこにはただ自分の顔が映っているだけだった。
「どうかしました?」
背後から声がして、彼女は飛び上がった。
振り返ると、村瀬直樹が柔らかな笑顔で立っている。
だが、その目の奥に、どこか冷たい影が揺れていた。
「い、いえ……なんでも」
女性は無理に笑い返した。
直樹は気にした様子もなく、段ボールを持ち上げて言った。
「じゃあ、続きを運びましょうか」
日常が、また穏やかに流れ出す。
ただ一つ、洗面所の鏡の裏側だけを除いて。
――そこで直樹はまだ、必死に叩き続けていた。
希望が残されているのか、それとも絶望を延命しているだけなのか。
誰にも分からない。
ただ、もし彼女がもう一度鏡を覗き込み、その声を確かに聞き取ることができたなら――。




