第29.5話(幕間):古参の焦燥、あるいは給与袋と「うつけ」の残影
1:安土の夜会と、古参二頭の密談
「――おい権六。お主、此度の『国営常備兵』の給与帳簿を見たか」
安土の『新政庁』、その壮麗な実務庁舎の片隅。
木下藤吉郎、いや、いまや『織田東インド商会』を率いる最高責任者の一人となった男は、小声で柴田勝家へと語りかけていた。
二人の前には、新政庁から寸分の狂いもなく支給された手厚い金一文の給与袋と、領内の無理のない労働環境(ホワイト環境)を証明する分厚い帳簿が置かれている。
かつて尾張の地で、泥にまみれて他国と領地を奪い合い、常に戦死と過労の恐怖に怯えていた日々が、今や遥か遠い昔の出来事のようであった。
「見たとも、藤吉郎。我が柴田の常備狙撃旅団の将兵全員に、一文の滞りもなく固定給が行き渡っておる。そればかりか、戦乱で親を亡くした若者らはすべて『国営孤児院』や『国営寺子屋』で文字を教わり、次なる近代化の労働力として大切に構築されておるのだ。……正直に申して、俺は震えが止まらん」
勝家は屈強な拳を握りしめ、熱い涙を流していた。
彼らの目に見えるのは、刀を交える戦をとうに超越した織田の近代内政の恐ろしさだ。西国、四国、九州の三強を秒速で無血解体し、直前には房総の里見水軍や常陸の佐竹義重までもが『東国沿岸開発局』や『東国防衛旅団』へと強制雇用され、完璧にハメ殺されていった。その圧倒的な国家計算の規模の差に、古参の二頭は深い焦燥と、それ以上の狂信的な感動を抱いていた。
2:うつけの記憶と、神仏の如き変貌
「わしらは、あの御仁が『尾張のうつけ』と呼ばれていた若い頃から、その背中を見てきたはずだったがな……」
藤吉郎が、茶碗を手にしみじみと呟いた。
当時の信長様は、突拍子もない行動で周囲をハラハラさせ、本能寺の前の泥臭い戦乱を必死に泳いでいた一人の大名に過ぎなかった。だが、一度この日の本を『再起動』させてからの先見の明は、完全に人間の領域を逸脱している。
「宮家を次々と創設して皇統を不滅にするなどという百代の計、一体どこから湧いて出る知恵だ。永高内親王様を奥御殿にお迎えし、朝廷と完璧に一体となった今、我らの掲げる天下布武は日の本の絶対大義そのもの。勝頼殿や氏政殿ら新参の降伏大名たちが『信長様は神仏の化身』と涙を流して盲信(チート級の崇拝)するのも、今や痛いほどよく分かる」
「ああ。信長様の一分の隙もない冷徹無比な大航海図の前では、我ら生え抜きの武力すら、最初から組織図の中に組み込まれた一要素に過ぎぬのだ。藤吉郎よ、あの御仁の辞書には、動揺や弱音などという泥臭い言葉はただの一文字も存在せぬ。我らはただ、あの完璧な覇王の知恵に算盤と鉄砲で付き従うのみよ」
二人が畏怖の念を深くするその最中、物見櫓の天より、信長様が寸分の狂いもない絶対強者の威厳を湛えて歩いてくる姿が見えた。彼らは即座に一糸乱れぬ所作で平伏し、その神仏の如き背中に百パーセントの忠誠を誓うのだった。
3:絶対覇王の仮面と、うつけの内心の恐慌
その頃、平伏する勝家と藤吉郎の前を通り過ぎる余の内心は、恐怖と胃の激痛で完全に狂いそうになっていた。
(……いやいやいや! 勝家も藤吉郎も、なんでそんなにギラギラした狂信的な目で余を見てくんの!? 尾張時代からの生え抜きのお前らまで余を神格化するなよ! 余はただ、お前らがブラック労働で過労死せんように現代日本の知識で固定給を払って、交代制で楽に働かせてるだけなのに! 優秀すぎて内心ガチで冷や汗が止まらんわ!)
覇王の仮面を鉄の如く固定しながら、余の背中には寸分の狂いもない量の冷や汗が流れていた。
南蛮宣教師コエリョが裏で本国へ巨大船団を救援要請した不穏な影を、伊賀の国家情報省が察知している。
世界無双の戦いを前に、生え抜きの配下たちがこれほどやる気に満ち溢れているのはありがたいが、余の心臓はもう限界だ。さらに最強の福利厚生で完全ホワイト化された奥御殿からは、正室の帰蝶、直虎、内親王様、そして誾千代が並んで余を監視するように見つめている。
「上様、古参の者たちへの労い、万全にございますね。これほど手厚い恩恵を全土に敷かれるとは、まさか、次に狙う奥州の伊達家からも、美しい姫君を安土へ就職させる『下心』があってのことではございませぬよね?」
帰蝶の、全てを見透かすような絶対零度の視線が余の胃壁を秒速で解体しにくる。
「ふ、ふん、当然よ。生え抜きの知恵を日の本の近代化に転用する。すべては余の計算の内よ……」
余は震える手で茶を飲み、威厳たっぷりに言い放った。古参の足固めは完璧に整ったが、余の胃の寿命だけは、来るべき世界無双の嵐を前に、到底持続可能とは思えぬ領域へ達しつつあった。
(第30話:西海に差す黒き影、安土の「大開発」を急がせよへ続く)




