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第1話:『死の淵から、雨の清洲へ』

「是非に及ばず――」


喉から血を吐き出しながら、織田信長は自ら腹に刀を突き立てた。

天正十年(1582年)六月二日、京都・本能寺。

視界を染めるのは、ごうごうと音を立てて柱を焼き尽くす紅蓮の炎。

そして耳を刺すのは、かつての忠臣・明智光秀の軍勢の鬨の声であった。

意識が遠のく。

だが、それは永遠の眠りではなかった。


信長の魂は、時空の裂け目を猛スピードで逆流していくような感覚に包まれた。

(何だ……これは……?)

脳裏に、見たこともない光景が奔流となって流れ込んでくる。


自分が死んだ後、羽柴秀吉が天下を奪う光景。徳川家康が江戸に幕府を開く光景。

そこまでは、いい。

しかし、その先が狂っていた。


地面を這う、馬を必要としない鉄の箱。

空を飛ぶ、巨大な金属の鳥。天を突き刺すガラスの塔。

人々は「スマートフォン」と呼ばれる光る板を握りしめ、世界中の情報を一瞬で手に入れている。


そして、信長は理解した。

21世紀の地球が直面する、環境破壊や資源の枯渇、そして日本の人口減少の未来を。

さらに、かつて「南蛮」と呼ばれた西欧の列強たちが、世界中を植民地化して奴隷貿易で富を貪る、醜い帝国主義の歴史を。


(南蛮どもめ……。俺が死んだ後の日本は、奴らの影に怯え、奴らの作った仕組みの中で踊らされておったのか。……そして、豊かな自然を失い、未来の同胞たちが縮んでいくというのか!)

強烈な憤怒が、信長の意識を爆発させた。

もし、自分がもう一度、あの戦国の世に立つことができるなら。南蛮の思想を、技術を、いや、その数百年先の未来の知識をすべて、この手で先取りしてやろう。

効率的に、美しく。

誰も死なさず、身内も裏切らせず、欧米のいかなる大国もひれ伏す世界最強の国家を、この日の本に築いてみせる――!


「――殿! 殿、お目覚めを! 今川が、今川義元が動きましたぞ!」

激しく体を揺さぶられ、信長はガバッと跳ね起きた。呼吸が荒い。喉を焼き尽くすような煙の熱さは消え、代わりに肌を刺すのは、梅雨時期のじっとりとした湿気だった。


「……ここは……?」

自分の両手を見つめる。本能寺で浴びた返り血はなく、火傷もない。

引き締まった、若々しい20代の肉体がそこにあった。

周囲を見回す。


ここは京都の本能寺ではない。

尾張国・清洲城の寝所だ。

目の前で必死の形相をして頭を下げているのは、若き日の乳兄弟、池田恒興だった。


「殿、何を惚けておいでですか! 駿河の今川義元が、四万の大軍を率いて我が尾張へ侵攻! すでに沓掛城に入り、我が方の砦が囲まれております! 宿老たちは皆、籠城か降伏かで大揉めに揉めておりますぞ!」「永禄三年(1560年)……五月十九日……」

信長は呟いた。

脳内の歴史の記憶が、現在の時間軸と完全に合致した。


桶狭間の戦い。

織田信長という武将が、初めて歴史の表舞台に躍り出る、まさにその当日の朝であった。

「ふ、フハハハ……!」

信長は突然、天を仰いで笑い出した。

その声には、かつての「大うつけ」と呼ばれた軽薄さは微塵もなく、家臣一同を平伏させる絶対的な王の威厳があった。


本能寺で49年の生涯を閉じ、数百年先の世界を見てきた男の覇気。

それが、27歳の肉体から溢れ出している。

「殿……? ついに狂われましたか……!」

「狂うてなどおらぬわ、恒興。心地よいのだ。これほど明確な『正解』が目の前にある戦など、二度とないからな」


信長は立ち上がり、側近の制止を振り切って宿老たちが待つ大広間へと向かった。

広間では、柴田勝家や林秀貞たちが青い顔をして激論を交わしていた。

「今川に降伏すべきだ!」

「いや、清洲城に立て籠もるべし!」


信長が姿を現すと、広間は一瞬で静まり返った。

「皆、喧しい」

信長の一言で、広間の空気が凍りついた。

「今川の兵数は四万と言うたな。それは虚報だ。実際に動いている兵は二万五千。さらに、前線の砦を落とすために兵を分散させておる。今、義元本隊の周りにいるのは、せいぜい五千から六千に過ぎん」

勝家が目を見開いた。

「な、なぜそれを……!? 物見からの報告はまだ届いておりませぬぞ!」

「俺には見えるのだ。さらに言う。今日の昼過ぎ、この尾張の地に視界を遮るほどの激しい豪雨が降る。天が、義元の目を塞いでくれるのだ」


信長は不敵に笑み、腰の刀を引き寄せた。

「桶狭間へ向かう。今川義元の首を獲るぞ。ただし――」

信長は不敵に笑み、広間の全員を見渡した。

「今回は、ただの天下統一ではない。無駄な血は一滴も流さぬ。光秀も、秀吉も、家康も、全員俺の掌の上で踊らせてやる。未来の知恵という名の『天下布武』を見せてやろう。余に続け!」

(……みつひで? ひでよし? いえやす……? 一体どこの誰のことでございますか……!?)

勝家をはじめとする宿老たちは、完全に頭の上に疑問符を浮かべていた。

光秀などという男は織田家にいないし、秀吉にいたっては、つい先日入社したばかりの「木下藤吉郎」というしがない足軽奉公人の未来の名前など、知る由もない。

家康にいたっては、今まさに敵の先鋒として織田方の砦を猛攻している「松平元康」のことであった。

「未来の知恵」という言葉も、常人には意味不明の極みである。


しかし、誰もその疑問を口にすることはできなかった。

なぜなら、信長の放つ眼光、そして全身から立ち上る「すべてを知り尽くしている王の覇気」が、広間の空気を完全に支配していたからだ。

意味は分からぬ。

だが、この男は今川の四万を本気で全滅させる気だ。

いや、それ以上の何かを見据えている。理屈を超えた圧倒的なカリスマの前に、勝家たちの武者震いが止まらない。


「お、おおおおおおおッ!!」

宿老たちは理性を捨て、本能のままに、地鳴りのようなときの声を上げた。

意味は後で考えればいい。

今は、この若き虎に命を預けるのみだった。

直後、バチバチと音を立てて、激しい豪雨が大地を叩きつけ始めた。

信長の予言通り、天すらも動き出したのだ。



数時間後、豪雨が激しく大地を叩く田楽狭間。


「義元の首、確かに挙げました!」


馬廻りの兵たちの歓喜の叫びが周囲に響き渡る中、余――織田信長は、愛刀の血を払いながら、心の中で激しく安堵の息を吐き出していた。


(……危ういところであった。勝ち戦の歴史を知っていたとはいえ、いざ二万五千の軍勢を前にすれば骨の髄まで冷える思いがしたわ! だが、これで第一関門は突破だ。もう二度と、あの本能寺の炎の中で死んでたまるか。今回は余が仕掛ける番だ。これより有能な身内を一人も無駄死にさせず、余の掌の上で完璧に使い切って、世界最強の国家を創り上げてみせる……!)


織田の兵たちが「殿のなんと冷徹で恐るべき覇気か……! 首を挙げても眉一つ動かされぬ!」と勝手に戦慄しているのを余所に、余は不敵な笑みを浮かべた。


次なる一手――本能寺の変を絶対に起こさせないための、最大の人材スカウトへと意識を切り替える。


家臣たちを盛大に困惑させたまま、未来の記憶を宿した覇王の、二度目の人生が、今ここに幕を開けた。


(第2話「【悲報】織田家、週休二日制を導入。明智光秀のブラック労働を阻止せよ」へ続く)

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