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~サイコロが世界を変えた日~

第一幕 サイコロが世界を変えた日

一 宣言

 その朝、明智信人がいつものようにコンビニで買ったブラックコーヒーを手に出勤すると、オフィスのテレビが騒がしかった。

 文化交換委員会・日本支部は東京の霞が関から少し外れたビルの五階にある。

 広くも狭くもない、どこにでもあるような官僚的なオフィスだ。

 灰色のパーティションが並び、蛍光灯が白々しく照らす空間に、この日は朝から全員がテレビの前に集まっていた。

「信人くん、見た?」

 隣の席の田村が振り返った。

 三十代後半の、いつもエナジードリンクを飲んでいる男だ。

「何がですか」

「世界文化共有協定。昨夜の十一時に国連が正式発令したんだよ」

 信人はコーヒーを机に置き、テレビを見た。

 画面には国連本部の大ホールが映し出されていた。

 壇上に立つのは国連事務総長、ヴィクトル・アンドレーエフ。

 白髪交じりの六十代で、いつも妙に確信に満ちた目をしている男だ。

 テロップには昨夜の録画と表示されていた。

『――世界がひとつになるために。我々は今こそ、最も深いレベルでの共有を行わなければならない。それは経済でも軍事でもない。文化だ。各国が最も大切にしてきた文化を、隣国と共有する。これが世界文化共有協定の根幹である』

 通訳の声が淡々と流れる中、信人は首を傾げた。

「……隣国と共有、って」

「渡すんだよ。丸ごと」

 田村がエナジードリンクを一口飲んだ。

「各国がランキングをつけて、上位六つの文化をリストアップする。それをサイコロで一個選んで、隣の国に渡す。渡したら、その文化はもう自国のものじゃない。国際法で保護される」

 信人は少しの間、その言葉の意味を処理しようとした。

「……それって」

「そう。うちの仕事が一気に増えるってこと」

 田村は笑ったが、信人には笑えなかった。

     ◇

 午前中いっぱい、オフィスは騒然としていた。

 上司の課長・橋本は電話をかけ続け、部長は緊急会議に呼ばれ、残された係員たちはニュースを見ながら各自の判断で資料を集め始めた。

 信人は自分のデスクで、協定の全文をダウンロードして読んだ。

 七十ページある。

 英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、中国語、スワヒリ語で書かれた多言語版だ。

 信人は英語版をなんとか読み進めた。

 要点はこうだった。

 参加国は第一フェーズとして十カ国。

 各国は自国の代表的文化を百項目リストアップし、委員会の国際審査によって「文化統一価格」が算定される。

 上位六項目がサイコロの目に割り当てられ、公開セレモニーで各国代表がサイコロを振る。

 出た目の文化が、時計回りに隣の国へ譲渡される。

 譲渡後、元の国がその文化を「主たる保有国」として名乗ることは国際法上禁止される。

 移転期間は六ヶ月。

 信人はページを閉じた。

 窓の外、霞が関の空は妙に青かった。

二 リスト

 翌週から、信人の仕事は一変した。

 文化交換委員会・日本支部に「文化選定チーム」が新設され、信人はなぜかその一員に任命された。

 理由は単純で、英語が読めること、それから、誰も積極的にやりたがらなかったからだ。

「明智くん、よろしく頼むよ」

 橋本課長は信人の肩を二回叩いて、自分の席に戻った。

 チームは信人を含めて四人。

 田村、それから文化庁から出向してきた中年の女性・坂本、そして契約で入った二十代の若手・吉川。

 四人で、日本の文化を百項目リストアップし、国際審査に提出する資料を作る仕事だ。

「まず何から始めますか」

 吉川が言った。

「リストを作る前に、定義を決めないと」

 坂本が言った。

「文化って、どこまでが文化なんですか。寿司は文化ですか。アニメは文化ですか」

「両方文化じゃないですか」

 田村が言った。

「でもアニメって、戦後の産業じゃないですか。何百年もある文化と同列にしていいんですかね」

 議論は昼まで続いた。

 信人はホワイトボードに項目を書きながら、ぼんやりと考えていた。

 自分はいま、日本の文化を値踏みしている。

 そしてその中から一つが、どこかの国に渡される。

 変な話だと思った。

 変な話だが、不思議と実感がなかった。

     ◇

 三週間後、国際審査の結果が返ってきた。

 日本の文化統一価格・上位六項目は以下のように決定した。

一位、侍・武士道文化。

二位、茶道。

三位、アニメ・マンガ文化。

四位、俳句・和歌。

五位、寿司をはじめとする和食文化。

六位、温泉文化。

「……一位が侍か」

 田村がリストを見て言った。

「まあ、そうなりますよね」

 吉川が言った。

「世界的知名度が圧倒的に高いですし」

 信人はリストを見ながら、何も言わなかった。

 侍。

 その言葉が、胃のあたりにじわりと沈んだ。

 嫌な予感がした。

三 サイコロ

 公開セレモニーは十一月の第二土曜日、ジュネーブで行われた。

 信人は東京のオフィスで、チームの全員と並んでライブ配信を見た。

 画面の中では、国連の会議場に十カ国の代表が並んでいた。

 それぞれの前に、国旗と、大きな木製のサイコロが置かれていた。

 日本の代表は外務省から来た五十代の男性で、信人は名前も知らなかった。

 セレモニーは粛々と進んだ。

 アナウンサーが各国の上位六文化を読み上げ、代表がサイコロを振る。

 カメラがその目をアップで映し、スクリーンに結果が映し出される。

 ブラジルはカーニバルを引いた。

 エジプトはピラミッド信仰を引いた。

 そして日本の番が来た。

 代表の男性がサイコロを手に取った。

 信人は気づいたら息を止めていた。

 サイコロが転がった。

 止まった。

 スクリーンに大きく映し出された数字は、一だった。

 一位。侍・武士道文化。

 オフィスが静まり返った。

「……出たか」

 田村が小さく言った。

 坂本が口を手で覆った。

 吉川は何も言わなかった。

 信人は画面を見たまま、コーヒーカップをゆっくりと机に置いた。

 侍か、と思った。

 そして次の瞬間、思いがけない感情が胸をよぎった。

 ほっとした、という感覚だった。

 消えるんだ。あの文化が、この国からなくなる。

 自分でも驚くほど、その考えは自然に浮かんだ。

     ◇

 セレモニーが終わり、各国の結果が出揃った。

【文化移転先リスト】

・日本(侍・武士道文化) → フランス

・フランス(ファッション文化) → インド

・インド(ヨガ) → ブラジル

・ブラジル(カーニバル) → エジプト

・エジプト(ピラミッド信仰) → 中国

・中国(漢字文化) → アメリカ

・アメリカ(ジャズ) → メキシコ

・メキシコ(死者の日) → ノルウェー

・ノルウェー(ヴァイキング文化) → ケニア

・ケニア(マサイ戦士文化) → 日本

 日本はマサイ戦士文化を受け取ることになった。

 その夜、ニュースは各国の反応を伝えた。

 フランスでは市民がエッフェル塔前で抗議デモを行い、「侍など知らない」と叫んでいた。

 インドでは「ファッションより先にヨガを返せ」という声が上がっていた。

 中国では漢字を失うことへの怒りが国内SNSで爆発していた。

 日本のニュースキャスターは、マサイ戦士文化について説明しようとして言葉に詰まっていた。

四 最初の通話

 翌週の月曜日、信人のパソコンに一件のビデオ通話リクエストが届いた。

 発信元:文化交換委員会フランス支部 マリー・デュボワ

 信人は少し間を置いてから、通話を受けた。

 画面に映ったのは、三十代前半とおぼしき女性だった。

 ダークブラウンの髪をきっちりとまとめ、グレーのジャケットを着ている。

 表情は硬く、目が鋭い。

 背後にはパリらしい石造りの建物が窓越しに見えた。

「ボンジュール」

 彼女は言った。それから即座に英語に切り替えた。

「マリー・デュボワです。フランス支部の文化移転担当です」

「明智信人です。日本支部で同じ仕事をしています」

 信人も英語で答えた。

 お互いに母国語ではない言語で話す、というのが最初から少し妙な感じだった。

「単刀直入に言います」

 マリーは言った。

「サムライ文化の受け入れについて、フランス国内で強い反発があります。私自身も、正直に言えば、この割り当てには納得していません」

「そうですか」

「あなたの国から渡ってくるのはサムライです。刀と、戦争と、切腹の文化です。フランスの市民がこれを受け入れるのは容易ではない」

 信人は少し考えてから言った。

「侍文化は戦争の文化じゃないと思いますが」

「ではなんですか」

「……武士道というのは、礼節とか、誠実さとか、そういうものを含む考え方で」

 言いながら、信人は妙な気分になった。

 自分は今、好きでもない侍文化を説明している。

「武士道」

 マリーは繰り返した。発音がフランス語的で、少し別の言葉に聞こえた。

「それがなぜ刀と結びついているんですか」

「歴史的な経緯が」

「歴史的な経緯で人を斬る文化を美化しているということですか」

「そういう意味じゃ」

「ではどういう意味ですか、ミスター明智」

 信人は少し黙った。

 マリーも黙った。

 沈黙の中で、信人はぼんやりと思った。

 この人は怒っている。でも怒り方が、なんというか、まっすぐだ。

 画面越しでも、その目から逃げたくないと思った。なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。

「……正直に言います」

 信人は言った。

「私も、侍文化が好きじゃないんです。個人的に」

 マリーが少し眉を上げた。

「好きじゃない文化を渡すんですか」

「好きじゃなくても、それがサイコロの結果なので」

 マリーはしばらく信人を見ていた。

「あなたが好きじゃない理由を、教えてもらえますか」

 信人は答えようとして、止まった。

 明智、という苗字のことを、初対面の外国人に話す気には、まだなれなかった。

「いろいろあって」

 信人は言った。

「今日はひとまず、引き渡しの手続きについて確認させてください」

 マリーは一秒だけ信人を見てから、視線をパソコンの画面に移した。

「わかりました。続けましょう」

五 キプチョゲ

 マリーとの通話から二日後、今度は別の着信があった。

 発信元:文化交換委員会ケニア支部 オレ・キプチョゲ

 信人が通話を受けると、画面に大柄な男が映った。

 四十代前半、長身で肩幅が広い。

 くたびれた茶色のジャケットを着て、後ろには雑然としたオフィスが見えた。

 窓から差し込む光が強く、ナイロビの午後らしい明るさがあった。

「ノブト・アケチ?」

 発音が独特で、名前が少し別の言葉に聞こえた。

「はい、明智信人です」

「オレ・キプチョゲだ。ケニア支部で文化移転を担当している。よろしく」

 口調は穏やかで、低い声だった。

 マリーの張り詰めた雰囲気とはまるで違う。

「よろしくお願いします。マサイ文化の受け入れについてご連絡いただけると思っていました」

「そうだ」

 キプチョゲは言った。

「ただ、手続きの前に少し話したかった」

「話、ですか」

「君の国がマサイ文化を受け取ることになった。君はどう思っているか、聞いてみたかった」

 信人は少し戸惑った。

 マリーは最初から手続きの話をしてきたのに、この男は感想を聞いてくる。

「正直に言うと……まだよくわかっていません。マサイ文化について、知識が足りなくて」

「それは正直でいい」

 キプチョゲは言った。特に責める様子はなかった。

「うちの国の人間も、マサイ文化については意見が割れている」

「割れている?」

「マサイ族の文化は、ケニア全体の文化じゃない。でも世界から見ればケニアといえばマサイだ。その温度差が、ずっとある」

 信人はキプチョゲの目を見た。

 穏やかな目だが、その奥に何か古いものが沈んでいるような気がした。

「キプチョゲさんは、マサイの出身ですか」

「血はそうだ。誠に私は三代目のナイロビっ子だ」

 それだけ言って、キプチョゲは少し笑った。乾いた笑いだった。

「君は自分の文化が好きか、ノブト」

 突然の質問に、信人は少し間を置いた。

「……難しい質問ですね」

「そうか」

「侍文化は、あまり得意じゃなくて」

「なぜ」

 また、理由を聞かれた。マリーにも聞かれた。

 でもキプチョゲの聞き方は違った。責めているわけじゃない。ただ純粋に、知りたがっている。

「……苗字が明智なんです」

 信人は言った。

「日本では明智光秀という武将が、歴史上の裏切り者として有名で。子供のころからそれでからかわれて」

 言ってしまってから、なんでこんなことを話したんだろうと思った。

 キプチョゲはしばらく黙っていた。

「そうか」

 やがて言った。

「文化に傷つけられたんだな」

「傷つけられた、というほどでは」

「いや、そういうことだろう」

 キプチョゲは窓の外を少し見てから、信人に視線を戻した。

「私も似たようなものだ。マサイの血を引いていながら、都会育ちで戦士文化を知らない。本物のマサイでもなく、ただのナイロビ人でもない。ずっとそういう感じだった」

 信人は何も言えなかった。

「だから今回のことは」

 キプチョゲは続けた。

「私にとっても、ちょうど良かったのかもしれない。マサイ文化が日本に渡ることで、自分がどう感じるか、やっとわかる気がして」

「……どう感じると思いますか」

 キプチョゲはまた、乾いた笑いを浮かべた。

「それはまだわからん。でもノブト、一つだけ言える」

「何ですか」

「文化というのはな、持っている人間より、受け取った人間の方が価値に気づくことがある」

 信人はその言葉を、心の中で繰り返した。

「それって……」

「君が今、侍に感じていることだよ」

 キプチョゲは静かに笑った。

六 届いたもの

 移転期間の開始から一ヶ月後、マサイ文化の「第一次移転パッケージ」が日本に届いた。

 内容は資料と映像と、それからいくつかの実物だった。

 マサイ族の赤いショール(シュカ)、儀式用のビーズ装飾品、木製の盾と槍の複製、そしてマサイの跳躍ダンス「アドゥム」の解説映像。

 オフィスに段ボール箱が並んだ日、チーム全員が少し呆然とした顔で箱を開けた。

「……これをどうするんですか」

 吉川が言った。

「普及させるんだよ」

 田村が言った。

「全国に」

「どうやって」

 誰も答えられなかった。

 信人は赤いシュカを手に取った。

 鮮やかな赤と青の格子模様。薄くて軽いが、独特の手触りがある。

 窓の外で、十一月の東京は銀杏が黄色く色づいていた。

 赤いショールと、黄色い銀杏。

 なんだか妙な組み合わせだと信人は思った。

 でもその日の夕方、アドゥムの映像を初めて見たとき、信人は予想外のものを感じた。

 映像の中では、若いマサイの戦士たちが一列に並び、垂直に跳び上がっていた。

 ただ跳ぶだけの動作なのに、全員が全力で、全員が誇らしげで、見ている者を圧倒するような力があった。

 信人はしばらく、その映像を見続けた。

 なぜかわからないが、目が離せなかった。

     ◇

 その夜、信人は一人でオフィスに残り、侍文化の移転書類を作成しながら、ふと検索した。

「明智光秀 信念」

 画面にいくつかの記事が並んだ。

 信人はそれを読みながら、コーヒーを一口飲んだ。

 冷めていた。

 明智光秀が本能寺で織田信長を討った理由は、今も歴史家の間で諸説ある。

 私怨、野望、信念。どれが本当かは誰も知らない。

 でも光秀が無能な裏切り者だったわけではない。

 むしろ有能で、誠実な人物として知られていた、という記述があった。

 信人はパソコンを閉じた。

 廊下の蛍光灯が、一つだけ微かに点滅していた。

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