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Full of the moon  作者: 五十鈴 りく
Chapter Ⅰ

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〈20〉その心と同じように


 その翌日、サマルは再び出かけて行く。

 早く終わらせて帰りたい。ここを去りたい。

 その思いだけがサマルを動かしていた。

 そんな彼の心を見抜いたザルツは、出かけに一言、焦るなと忠告した。



 昨日と同じような聞き込みを続け、『彼』に会うことができたのは、その翌日の夕刻になってからだった。

 サマルはあまり足を踏み入れたくない酒場の前に立つ。看板も扉の壁も、ただ汚いばかりで、安いのかも知れないが、何ひとつ惹かれるものがない。

 気乗りはまったくしないが、目当ての相手が行き付けの店だと聞いては、いたし方がない。


 旅人を装った風体で、店内に足を踏み入れると、活気にあふれた店内は、暖房をしているわけではないのに、あたたかかった。人の熱気かと思うと、うんざりする。

 鯨飲馬食の男たちがこぼした酒や食べ物で床がかなり汚れているが、そんなことを気にする繊細な人間はどこにもいないようだ。見慣れないサマルを気に留めるのも店員だけだった。


 サマルはごく弱い酒を注文し、カウンター越しに受け取ると、そのグラスを持ったまま、壁際のテーブルへと移動した。満席に近い店内で、そこだけが混雑していなかった。

 その丸いテーブルの周囲にさえ、人が寄り付かない。

 そこで静かに酒を飲み続けている男はひどく陰気だった。誰よりも。

 だからこそ、間違いないと思う。


 ほとんどが白く、ところどころに黒いものが残る程度のボサボサ頭。ひび割れた手の、しわ一本一本に入り込んだ黒ずみ。着古した染みだらけの服。不衛生さを全体に漂わせている。

 目的がなければ、サマルも自発的に近付くことはなかっただろう。あまり好ましいとは言えない人物だ。ただ、それを言っている場合ではない。

 サマルは颯爽とそのテーブルに向かい、勝手に相席した。老人はサマルを黄ばんだ眼でにらむ。


「ここしか空いてないんだ。いいだろ?」


 愛嬌を前面に出して笑ってみたけれど、その老人には通用しなかった。そっけなく下を向かれる。

 手強そうだな、と内心でため息をついた。


「酒は楽しく談笑しながら飲むのもいいもんだと思うけど?」


 そんなセリフも完全に無視された。

 老人は、テーブルの上の酒以外のものが目に入らないらしい。もしかすると、それさえも本当は好きではないのかも知れない。少しもおいしそうには見えない。

 無理に飲む酒なんて、苦しいだけだと思うけれど、それでも飲まずにいられないのだろうか。

 サマルはテーブルに身を乗り出すようにして、その老人の顔を覗き込んだ。


「あんたさ、世の中のことなんてどうでもよさそうだな。明日世界がなくなっても、全然構わないって顔だ」


 老人は眼に血管を浮き上がらせ、強張った顔をサマルに向けた。思わず後ろに引きたくなるのを、サマルは我慢する。そうしてようやく、そのしわがれた声を聞くことができた。


「お前もあそこにいけばいい。拷問で発狂した囚人の叫びに四六時中浸されて、世の中になんの希望が持てる?夜も眠れず、うなされては起き、自分が狂っていないかを確かめる。お前にそれがわかるか?」


 わかるわけないだろ、とサマルは心の中で思った。

 わかるなんて言うやつの気が知れない。


「じゃあ、それを変えようとは思わなかったのか? ただ怯えて、一日が終わるのを待つだけなんて、悲しいよ」


 すると、老人はハッと吐き捨てた。


「変える? 自分はあそこから離れられない。離れられるとしたら、それは死んだ時だけだ」


 機密上の問題があるせいだろう。けれど、この老人にだって、明るい未来を望む権利くらい、あったっていいはずだ。

 サマルは今、自分の役割が、この老人からその機密を聞き出すことなのだと思いつつも、それを優先できなかった。もっと大事なこともある。


「……あんたの方がむしろ囚人みたいだ。囚われてるのは、あんたも同じだよ」

「なんだと……」

「監獄が空になる世の中なんて、それこそ夢物語みたいに難しいよ。けど、拷問をなくすとか、入る人間が少なくなるようにするとか、少しはマシにできる。そんな風に、いつかはなると思う。だからさ、それに繋げる努力はするべきだ」


 この老人を哀れんだりはしなかった。大事なことを見失い、逃げているのだから。


「あんた、忘れてるよ。一番つらいのは、拷問を受けている当人だ。当たり前だろ。それから、その人を心配する近しい人。その人たちを相手に、今みたいなことが言えるのか?」


 そう言い放ってから、肩を丸めた老人が、ひどく矮小に見えた。そうしていると、ある種の罪悪感が残る。


「……ただ、俺はそう偉そうに言えるような体験はしたことがないから、ほんとは知ったか振りであんたにこんなことを言う資格なんかない。……悪かったよ。ごめんな」


 酒場の喧騒はどこか別世界での出来事のように、二人の間に割り込むことはなかった。沈黙しただけで、まるで異物のようにその場に溶け込めなくなる。

 すると、老人は口を開いた。かすれた声なのに、周囲にかき消されずに、しっかりとサマルの耳に届く。


「知ったか振りでいい。どうすればいい? どうすれば変わると?」


 サマルは一度目を閉じると、ゆっくりと息を吐いてからまぶたを持ち上げる。


「鉄壁の監獄に隙間ができればいい」


 老人は、この世で一番恐ろしいことを耳にしたかのように、目を見張った。


「すぐさま劇的な変化があるわけじゃないけど、遠くない未来に変えてみせるよ。そのために必要な力が中に眠っているんだ」


 目をそらしてはいけない。

 日々の苦痛から解放されたいと願いながらも、厄介ごとから逃れようとする老人の目を、サマルは捉え続けた。


「……いつだ?」


 ぼそりと老人はつぶやく。


「最低六日後。それ以降なら、そっちの都合に合わせる」


 サマルは素早くそう言った。


「八日後、東向きの窓の鍵が壊れる。日没だ」

「わかった。恩に着るよ」


 それからサマルは、手にしていた、すっかりぬるくなった酒の入ったグラスを持ち上げ、前に突き出した。そして、屈託なく笑いかける。


「きっと見ような。新しい、平和な世の中をさ」


 老人は、笑い返しはしなかったものの、少しだけはにかんだような様子を見せた。ほとんどが空になったグラスを僅かに傾ける。サマルは、更に手を伸ばして無理やりに乾杯した。


 全面的に信じていいものかとザルツは言うかも知れない。

 それでも、信じていいとレヴィシアなら言うだろう。

 そして、サマルもそう思う。

 きっと、たくさん迷い、ためらい、止めようとするだろうけれど、最終的には窓を開いてくれる。

 その心と同じように。


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