エピローグ
騎馬兵の槍が、眼前にまで迫ったとき。
危機を救ったのは、俺の部下だった。
新兵。
訓練も経験も足りないはずの、若い連中。
慟哭。
怒鳴るような声とともに、数人が前に飛び出した。
突撃。
数の勢いが、馬を怯ませる。
槍と盾が乱雑に打ちつけられ、馬脚がもつれる。
一頭が転び、もう一頭が進路を誤る。
敵の騎馬兵が体勢を崩した。
俺を助けるつもりだったのかは、分からない。
戦場では、誰もが必死になる。
結果——
俺の命は、拾われた。
その隙を、俺は見逃さなかった。
喉の奥から、声を引きずり出した。
力の限りに叫ぶ。
肺が軋み、血の味が広がる。
新兵を、生かすため。
戦争に、勝つため。
そして——俺が、生きるため。
地面に手を突き、無理やり身体を起こす。
右腕は言うことをきかない。だが、声はまだ出る。
叫びながら、歯を食いしばって立ち上がった。
視界の端で、部下たちが動く。
恐怖に引きつった顔のまま、それでも命令に従って陣形を組み直す。
間に合え。
願った、その時だった。
別の地鳴りが重なった。
規則正しい蹄の音。
数も、重さも、さきほどとは違う。
味方本体の、増援だった。
「……来た」
誰かが呟く。
上官の号令が飛び、整った騎馬隊が戦場へ流れ込んでくる。
俺の部隊の前に壁のように割って入り、新兵たちをその内側へ取り込んでいった。
命令系統が、上書きされる。
肩にかかっていた重圧が、ようやく外れた。
——あいつらは、もう大丈夫だ。
それを、この目で見届ける。
俺は、ふっと息を吐いた。
そして、後ろへ歩いた。
敵のいない方へ。
衛兵のいる方へ。
しばらくして誰かが肩を支え、別の誰かが止血を始める。
声が遠く、景色が滲む。
すべてを、やり遂げた気がしていた。
意識が沈む。
あとは——
彼女のために。
◇
目を覚ましたとき、最初に感じたのは異臭だった。
鼻の奥にまとわりつく、重く湿った匂い。
腐り落ちたものの臭い。
死の、匂いだった。
視界は白く霞み、天幕の布がぼんやりと揺れている。
身体を動かそうとして、思うように力が入らないことに気づいた。
ここは、救護所だ。
生き返るための場所ではない。
まだ息がある者を、ひとまとめにする場所。
死に近いものが集められる、ただそれだけの空間。
隣から、荒い呼吸音が聞こえた。
寝台とも言えない布に横たわる騎士は、
腹を押さえ、脂汗にまみれていた。
「俺は、胴に槍を受けちまってな」
「もう……死ぬだけだ」
ひどく苦しそうに、そう言った。
息を吸うたびに、声が震える。
日付の感覚は曖昧だった。
時折、布越しに人の影が動く。
水を含ませた布で額を拭かれ、腕に何かを塗られる感触があった。
数日もしないうちに、隣から息の音が聞こえなくなった。
その代わりに、異臭が強くなる。
腐敗の匂いが、空気に染み込んでいく。
その匂いは、隣だけのものではなかった。
自分の右腕からも、同じ臭いが立ち上っている。
布の内側で、熱が膨れ上がっているのが分かる。
身体は火照り、頭の奥がぼんやりと痺れる。
考えようとすると、思考が滑り落ちていく。
――ふざけるな。
俺は、生き残ったんだ。
あの戦場を。
部下を残して。
彼女の言葉を背負って。
こんなところで、死んでたまるか。
俺は、執念を宿して意識を保った。
生に、しがみついた。
祈りでも、奇跡でもない。
ただ、離してなるものかと、歯を食いしばっていた。
そのおかげだったのか。
俺は何日も、何日も。
息を、し続けた。
身体は一向に良くならなかった。
熱は下がらず、右腕は腫れ、動かそうとすると激痛が走る。
起き上がることもできず、ただ横たわったまま、天幕の布を見つめていた。
それでも——
まだ息のある俺は、幸運だったらしい。
俺は、近くの町の修道院へ送られた。
石造りの建物。
天幕よりも低い天井。
鼻を突く死の臭いは薄れ、代わりに薬草と布の匂いがした。
寝台へ寝かされ、食事と水が配られる。
量は少ないが、確かな温度。
喉を通るたび、生きている実感がわずかに戻る。
腕の手入れも、続けられた。
膿を抜かれ、薬を塗られ、包帯を替えられる。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
少しずつ、少しずつ。
指が動き、肩が持ち上がり、息を深く吸えるようになる。
徐々に、体力が戻っていくのを感じた。
生きている。
まだ、終わっていない。
その事実だけを支えに、俺は目を閉じた。
◇
幾日も経ち、俺は支えもなく立てるようになった。
修道院の石畳を、自分の足で踏みしめられる。
胸の奥に小さな達成感が灯った。
だが——その先は、何も見えなかった。
金がない。
故郷に帰る金が、なかったのだ。
長い療養生活で、残りはすべて使い果たした。
身の回りを見渡しても、売れるものはない。
私物といえば、紫色の手袋と、肩掛けだけだった。
俺は、修道院のある町で職を探した。
力仕事は無理だ。
右腕は動くようになったが、以前のような力は戻っていない。
結果は無残だった。
「悪いが……」
「今は人手が足りてる」
言葉は違えど、返ってくる答えは同じ。
病床に伏せていた時間が、俺の身体からすべてを奪っていた。
雇ってくれる者など、いない。
夕方、街道脇に置かれた小箱に腰を下ろした。
荷運び用の古い木箱だ。
日中の熱が抜けきらず、座ると微かに温かい。
そのまま、しばらく空を見上げていた。
——どうする。
答えは浮かばない。
ただ、時間だけが過ぎる。
ふと、あるものがよぎった。
エリシアの、踊り。
舞台の中央で、音に身を委ねていた姿。
軽やかな足運び。
観客の視線を集める、眩しい背中。
その伴奏。
太鼓の音。
一定の拍。
身体の奥まで響く、あの調子。
俺は、小箱へ手を伸ばしていた。
掌で、木の板を叩く。
——ドン。
思ったより、乾いた音がした。
もう一度、叩く。
——ドン、ドン。
あの日々を、思い出しながら。
エリシアの踊りを見た日。
そして、エリシアと踊った、あの日々と重ねながら。
音は拙い。
それでも、確かに響く。
ドン、ドン。
街道の片隅で、俺は小箱を叩き続けていた。
最初に足を止めたのは、一人の子供だった。
叩く音に釣られるように、少し離れた場所からこちらを見ている。
俺は気にせず、同じ拍を刻み続けた。
——ドン、ドン。
やがて、その子供が声を出した。
音に合わせて、意味もなく。
それにつられて、もう一人。
さらに、もう一人。
いつの間にか、数人の子供が周りに集まり、
手を叩いたり、足踏みをしたりし始める。
拙いが、拍は合っていた。
俺の音に、彼らの声と足音が重なる。
それは、確かに“波”になり始めていた。
そこへ、一人の大人が足を止めた。
俺の汚れた外套と、座る木箱。
子供に囲まれて音を鳴らす姿は、浮浪人の戯れに見えたのかもしれない。
男はしばらく眺めたあと、
何も言わずにパンと小銭を置いて去っていった。
俺はただ、叩き続けた。
次の日も。
その次の日も。
日が昇り、日が沈んでも、同じ場所で木箱を叩いた。
拍は、少しずつ安定していく。
力任せではなく、身体全体で鳴らすことを覚えた。
右腕を庇いながら、左と体重移動で音を作る。
気づけば、立ち止まる人が増えていた。
足を止め、耳を傾け、
そして——おひねりが落ちる。
小銭が、箱の中で乾いた音を立てた。
ある晩、酒場の店主が声をかけてきた。
「前から、奏者が欲しかったんだ」
そう言って、店の中を指差した。
俺は、その酒場で雇われた。
毎晩、太鼓を叩いた。
酒と笑い声の中で。
彼女のことを、思い出しながら。
彼女のことを、想いながら。
不思議なことに、太鼓は日に日に上手くなっていった。
叩くたびに、彼女へと近づいていく。
そう信じて。
◇
そして——
今。
俺は、彼女と歩いている。
エリシアと並んで、街道を進んでいた。
ここまでの道は平たんではなかった。
港町まで帰るとき。
金はあっても距離は果てしなく遠く、帰路は長かった。
歩き、泊まり、時には引き返し、また進む。
港町に辿り着いたとき、俺の家はすでになくなっていた。
空き地になり、近隣の記憶からも、俺は消えていた。
死んだ扱いになった、と聞かされた。
騎士としての名簿も、残っていないと。
それでも構わなかった。
彼女は。
エリシアだけは、ずっと待っていたのだから。
旅に出ようと言ったのは、彼女だった。
「一度も、遠くへ行ったことがないから」
そう言って、照れたように笑った。
だから俺たちは、街道を選ぶ。
港町を出て、二人で歩く。
立ち寄った町で、彼女は踊る。
俺の太鼓の音に、彼女は身体を預ける。
拍に身を委ね、視線を集め、風のように回る。
人々は足を止め、やがて笑い、おひねりが落ちる。
それを生活の足しにしながら、町から町へ巡っていく。
刺激的な日々だった。
もちろん、うまくいかないこともある。
音が響かない町もあれば、
踊りを快く思わない者もいる。
寒い日も、照りつけるように暑い日もあった。
それでも。
彼女と一緒なら。
エリシアと、ともに歩けるのなら。
「ねえ、次は……どこに行こっか」
風に紛れそうな声だった。
俺は少し考え、前方を見る。
「北の方へ、行ってみたいな」
そう言ってから、彼女を見る。
「君の、故郷へ」
エリシアは一瞬目を瞬かせ、ゆっくり笑った。
並んだ影が、長く伸びる。
二人で、街道を歩く。
いつまでも——
一緒に。




