3話
翌朝。
昨夜は誰とも言葉を交わさず、飯だけを腹に入れて家に戻った。
酒場を出たあとの記憶は曖昧で、踊り子の横顔だけがそこにあった。
兵舎の中庭には、乾いた音が満ちていた。
木剣が打ち合わされ、号令に合わせて踏み鳴らされる足。
そこに鎧の金具が擦れが重なり合い、戦争が終わったという事実を否定するように、変わらない日常を作り出している。
俺は兵舎の門をくぐり、その光景を眺めていた。
戦争帰りであっても、日常は続く。
訓練は止まらず、町に住む騎士たちはこれまでと同じように汗を流す。
血の匂いはない。
規則正しい動きと、管理された疲労。
俺も、その一部であるべきだった。
そう思いながら歩き出すと、視界の端で見覚えのある金色が揺れた。
木剣を肩に担いだまま、こちらを見て目を細める男がいる。
バーツだった。
泥と埃にまみれていた帰還の列とは違い、すっかり兵舎の空気に馴染んでいる。
彼はこちらに気づくと、軽く手を振りながら近づいてきた。
「よう」
バーツは俺の前まで来ると、俺の顔をじっと見てから眉をひそめる。
「……なんだか、顔色が悪いな」
そう言って、わずかに首を傾げた。
乾いた音の中で、その言葉だけが妙に浮いて聞こえた。
俺は頬を指で擦り、肩をすくめる。
「そう見えるか」
バーツは一瞬だけ口角を上げかけて、すぐにやめた。
「ああ。冗句で返せないくらいには」
即答だった。
俺は短く息を吐き、視線を中庭に戻す。
木剣がぶつかる音、号令、規則正しい動き。
「何かあったのか?」
「いや、何でもない。どうしてか寝つきが悪くてな」
バーツは俺の顔をもう一度見て、今度ははっきりと眉を寄せた。
心配そうな表情だった。
「戦争帰りだ。気が立ってるのかもしれないな」
慰めるように言いながら、彼は肩をすくめる。
「……ま、時間が解決してくれるさ」
そう言って、軽く笑おうとした。
笑みはどこかぎこちなく、言葉も確信に欠けたように聞こえた。
時間が解決する。
本当に、そうだろうか。
中庭に響く乾いた音を聞きながら、俺は訓練を始めようとした。
◇
訓練が終わったのは、昼を少し回る頃だ。
汗を拭い、兵舎の食堂で遅い昼食を流し込んだ。
その後でも、俺はじっとしていられなかった。
昼の酒場。
戦争に出る前、何度も通った。
荷物を運び、仕込みを手伝った。
対価として小銭を貰い、飯を食わせてもらったこともある。
あの頃は、それが当たり前だった。
今は、その必要はない。
報奨金の話は道中で通達されている。
下級騎士の身で、これほどの額を手に出来る機会はそうない。
金に困ることは今後ないはずだ。
ただ、手を動かしたい、余計なことを考えたくない。
そんな思いが俺を酒場まで動かした。
扉を押し開けると、昨夜とは違う空気が流れ出してきた。
酒の残り香と、煮込みとパンの匂いが漂っている。
営業は夜間だけだ。
静かな作業音だけが店内を満たしていた。
「……あ」
声が聞こえたのは、奥の方だった。
カウンターの向こうに、見知った顔が二つ並んでいる。
女主人のミレディは背筋を伸ばし、腕を組んだまま帳面を睨んでいる。
薄色の短い金髪は乱れもなく、昼の光の下でも鋭さを失っていなかった。
その隣で、少年が椅子から半分立ち上がる。
「ロアン!」
弾けるような声。
「ゲラルト。少し大きくなったか」
「へへ……。本当にロアンだ! 先頭部隊だって言ってたのに、帰って来た!」
ゲラルトは目を輝かせ、勢いよくこちらに駆け寄ってきた。
ミレディの息子で、小さな頃は子守りしたり遊び相手をした。
「……たまたまだよ」
少年は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに笑った。
「それがすごいんだよ!」
少年の背後から、低い声がぴしゃりと飛んでくる。
「困らせるようなこと言うんじゃないよ、ゲラルト」
ミレディだった。
帳面を閉じ、こちらを一瞥する。
その視線は値踏みでも警戒でもなく、ただ事実を確かめるようなものだった。
「……無事で何よりだね、ロアン」
言葉はそっけないが、視線だけは外さない。
俺は小さく頷いた。
「昼、何か手伝えるか」
ミレディは一瞬だけ眉を動かし、それから鼻で笑った。
「いいのかい? 仕事はいくらでもあるけど、あんたはもう下働きなんてしなくてもいい身だろ」
帳面を机に置き、腕を組んだまま言う。
その声音は記憶通りのぶっきらぼうさだった。
「報奨金も出る。騎士としての扱いも変わるはずだろ?」
俺は肩をすくめ、視線を床に落とした。
「今までやってきたことだからな。急に何もかも変える方が、落ち着かない」
ミレディは俺をじっと見た。
「……なんだい、やっぱり、妙なところで頑固だね」
そう言って、ふっと息を吐く。
「まあいいさ。皿洗いと、裏の片付け。できるだろ」
「問題ない」
短く答えると、ミレディはそれ以上何も言わず、顎で奥を示した。
俺は外套を脱ぎ、いつもの場所へ向かう。
水を張った桶に手を入れると、冷たさが指先に走った。
――これだ。
考えなくていい、単純な作業。
頭を空にするにはちょうどいい。
背後で足音がした。
「ねえ、ロアン」
振り返ると、ゲラルトが少し距離を取って立っていた。
さっきまでのはしゃいだ様子は減り、どこか遠慮がちだ。
「戦争の話、聞かせてよ」
桶の中で、皿が小さくぶつかる。
俺は一瞬だけ手を止め、それから再び動かした。
「ああ。そのうち、な」
ゲラルトは不満そうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「……うん。じゃあ、また今度」
少年はそう言って引き下がった。
背中を見送りながら、俺は皿を洗い続けた。
戦争の話も、いつかするだろう。
今はまだ、その『いつか』がどこにあるのか、自分でも分からなかった。




