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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野


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3/21

3話

翌朝。


昨夜は誰とも言葉を交わさず、飯だけを腹に入れて家に戻った。

酒場を出たあとの記憶は曖昧で、踊り子の横顔だけがそこにあった。


兵舎の中庭には、乾いた音が満ちていた。

木剣が打ち合わされ、号令に合わせて踏み鳴らされる足。

そこに鎧の金具が擦れが重なり合い、戦争が終わったという事実を否定するように、変わらない日常を作り出している。


俺は兵舎の門をくぐり、その光景を眺めていた。


戦争帰りであっても、日常は続く。

訓練は止まらず、町に住む騎士たちはこれまでと同じように汗を流す。

血の匂いはない。

規則正しい動きと、管理された疲労。


俺も、その一部であるべきだった。


そう思いながら歩き出すと、視界の端で見覚えのある金色が揺れた。

木剣を肩に担いだまま、こちらを見て目を細める男がいる。


バーツだった。

泥と埃にまみれていた帰還の列とは違い、すっかり兵舎の空気に馴染んでいる。

彼はこちらに気づくと、軽く手を振りながら近づいてきた。


「よう」


バーツは俺の前まで来ると、俺の顔をじっと見てから眉をひそめる。


「……なんだか、顔色が悪いな」


そう言って、わずかに首を傾げた。

乾いた音の中で、その言葉だけが妙に浮いて聞こえた。

俺は頬を指で擦り、肩をすくめる。


「そう見えるか」


バーツは一瞬だけ口角を上げかけて、すぐにやめた。


「ああ。冗句で返せないくらいには」


即答だった。

俺は短く息を吐き、視線を中庭に戻す。


木剣がぶつかる音、号令、規則正しい動き。


「何かあったのか?」

「いや、何でもない。どうしてか寝つきが悪くてな」


バーツは俺の顔をもう一度見て、今度ははっきりと眉を寄せた。

心配そうな表情だった。


「戦争帰りだ。気が立ってるのかもしれないな」


慰めるように言いながら、彼は肩をすくめる。


「……ま、時間が解決してくれるさ」


そう言って、軽く笑おうとした。

笑みはどこかぎこちなく、言葉も確信に欠けたように聞こえた。


時間が解決する。

本当に、そうだろうか。


中庭に響く乾いた音を聞きながら、俺は訓練を始めようとした。





訓練が終わったのは、昼を少し回る頃だ。

汗を拭い、兵舎の食堂で遅い昼食を流し込んだ。


その後でも、俺はじっとしていられなかった。


昼の酒場。

戦争に出る前、何度も通った。

荷物を運び、仕込みを手伝った。

対価として小銭を貰い、飯を食わせてもらったこともある。

あの頃は、それが当たり前だった。


今は、その必要はない。

報奨金の話は道中で通達されている。

下級騎士の身で、これほどの額を手に出来る機会はそうない。

金に困ることは今後ないはずだ。


ただ、手を動かしたい、余計なことを考えたくない。

そんな思いが俺を酒場まで動かした。


扉を押し開けると、昨夜とは違う空気が流れ出してきた。


酒の残り香と、煮込みとパンの匂いが漂っている。

営業は夜間だけだ。

静かな作業音だけが店内を満たしていた。


「……あ」


声が聞こえたのは、奥の方だった。

カウンターの向こうに、見知った顔が二つ並んでいる。


女主人のミレディは背筋を伸ばし、腕を組んだまま帳面を睨んでいる。

薄色の短い金髪は乱れもなく、昼の光の下でも鋭さを失っていなかった。


その隣で、少年が椅子から半分立ち上がる。


「ロアン!」


弾けるような声。


「ゲラルト。少し大きくなったか」

「へへ……。本当にロアンだ! 先頭部隊だって言ってたのに、帰って来た!」


ゲラルトは目を輝かせ、勢いよくこちらに駆け寄ってきた。

ミレディの息子で、小さな頃は子守りしたり遊び相手をした。


「……たまたまだよ」


少年は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに笑った。


「それがすごいんだよ!」


少年の背後から、低い声がぴしゃりと飛んでくる。


「困らせるようなこと言うんじゃないよ、ゲラルト」


ミレディだった。

帳面を閉じ、こちらを一瞥する。

その視線は値踏みでも警戒でもなく、ただ事実を確かめるようなものだった。


「……無事で何よりだね、ロアン」


言葉はそっけないが、視線だけは外さない。

俺は小さく頷いた。


「昼、何か手伝えるか」


ミレディは一瞬だけ眉を動かし、それから鼻で笑った。


「いいのかい? 仕事はいくらでもあるけど、あんたはもう下働きなんてしなくてもいい身だろ」


帳面を机に置き、腕を組んだまま言う。

その声音は記憶通りのぶっきらぼうさだった。


「報奨金も出る。騎士としての扱いも変わるはずだろ?」


俺は肩をすくめ、視線を床に落とした。


「今までやってきたことだからな。急に何もかも変える方が、落ち着かない」


ミレディは俺をじっと見た。


「……なんだい、やっぱり、妙なところで頑固だね」


そう言って、ふっと息を吐く。


「まあいいさ。皿洗いと、裏の片付け。できるだろ」

「問題ない」


短く答えると、ミレディはそれ以上何も言わず、顎で奥を示した。

俺は外套を脱ぎ、いつもの場所へ向かう。

水を張った桶に手を入れると、冷たさが指先に走った。


――これだ。


考えなくていい、単純な作業。

頭を空にするにはちょうどいい。


背後で足音がした。


「ねえ、ロアン」


振り返ると、ゲラルトが少し距離を取って立っていた。

さっきまでのはしゃいだ様子は減り、どこか遠慮がちだ。


「戦争の話、聞かせてよ」


桶の中で、皿が小さくぶつかる。

俺は一瞬だけ手を止め、それから再び動かした。


「ああ。そのうち、な」


ゲラルトは不満そうに口を尖らせたが、すぐに頷いた。


「……うん。じゃあ、また今度」


少年はそう言って引き下がった。

背中を見送りながら、俺は皿を洗い続けた。


戦争の話も、いつかするだろう。

今はまだ、その『いつか』がどこにあるのか、自分でも分からなかった。

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