2話
夕暮れ時、俺は一人で家に帰った。
石畳から土の道へ変わる境目を越える頃には、
人の声は風に紛れ、自分の足音だけが聞こえた。
俺の家は町はずれにある。
死んだ両親が残した、小さな家。
古く、小さく、誇れるようなものは何もない。
戦争に出た人間の家は、留守のあいだに空き家として扱われることが多い。
持ち主が死んだと判断されれば誰のものでもなくなり、
買い手さえいれば簡単に持ち主が変わる。
だが、俺の家はそのままだった。
屋根も壁も、戸口の歪みすら変わっていないように見える。
荒らされた形跡もなく、窓は閉じられたままだ。
扉に手をかけ、少しだけ躊躇ってから押し開ける。
中は静まり返っていた。
壁際の棚、簡素な寝台、使い古した椅子。
どれも見慣れたはずの光景なのに、空気だけが妙に軽い。
――空虚だ。
町中で感じた違和感よりも、大きな感覚だった。
剣を壁に立てかけ、鎧を外す。
カラン、と、金属の音を合図にしたように、俺の中の何かがずれた。
「……何か、抜け落ちてる」
独り言が、部屋に溶けて消える。
形があるはずのものが、最初から存在しなかったかのように抜けている。
それなのに、確かにあったという感触だけが残っている。
椅子に腰を下ろし、無意識に拳を握りしめる。
生きて故郷へ帰った。
金も勲章も得られるはずだ。
今の俺に、何が足りないというんだ。
夕暮れの薄暗い部屋の中で、それは確かに俺を縛っていた。
◇
朝。
久しぶりに屋根のある場所で寝たはずなのに、眠りはひどく浅かった。
藁を詰めたベッドは野営用の毛布よりも柔らかいのに、寝心地がいいとは言えなかった。
原因ははっきりしている。
気分の問題だ。
空っぽの部屋。
引っかかったままの違和感。
名付けようのないものが、眠りを妨げた。
ベッドの上で何度か寝返りを打ち、結局、俺は諦めて起き上がった。
窓を開けると、潮の混じった風が流れ込んでくる。
家の中で考え続けるより、歩いた方がましだと思った。
俺は外套を羽織り、外に出た。
行くあては、ひとまずない。
石畳を踏む感触は、潮の匂いを含んだ風は、幼い頃から知っているものだった。
戦争に行く前と変わらない。
広場を抜ける。
今は露店が並び、果物を並べた籠の前で子どもが騒いでいる。
兵舎の前を通ると、顔なじみの騎士が手を挙げた。
市場では魚の値を巡って怒声が飛び、漁港では網を繕う老人たちが朝の光を浴びていた。
酒場の前では、昨夜の名残りが漂っている。
扉の向こうにどんな顔ぶれがいるのかも、だいたい想像がついた。
覚えている。
俺は、何も忘れていない。
道順も、景色も、人の流れも。
身体が勝手に避け、立ち止まり、歩き出す。
そのすべてが自然だった。
俺は立ち止まり、港の方を見た。
陽光を受けて、海が静かに揺れている。
覚えているのに。何かが足りない。
この胸の奥に居座る違和感は、どこから来る。
答えを探そうとした瞬間、頭がきしむように痛んだ。
忘れていないはずだ。
だが、思い出そうとするほど、何かが遠ざかっていく。
生まれ育った町で、迷子になった気分だった。
腹が鳴っていることで、ようやく意識が追いつく。
茫然と歩き続け、気づけば空はすっかり暗くなっていた。
朝から何も口にしていない。
時間の感覚まで抜け落ちていたらしい。
俺は酒場へ向かった。
戦争に出る前は、夜飯に、酒に、何度も通った酒場だ。
顔なじみも多く、昼には荷運びや片付けをいつも手伝っていた。
木の扉に手をかけ、押し開ける。
途端に、熱気と音が流れ込んできた。
太鼓の乾いた調子、笛の甲高い音。
手拍子と笑い声が重なり、床板がわずかに震えている。
酒場の中央で、踊り子が舞っていた。
軽やかに回る足。
翻る紫色の衣装。灯りを弾くように揺れる黒髪。
鼻筋の通った横顔。
俺は、そこで止まった。
腹の空きも、喧騒も、一瞬で意識の外へ押しやられる。
ただ、目だけが勝手にその動きを追っていた。
――似ている。
昨日、港町で俺の前に崩れ落ちた女と。
潤んだ目に、必死に感情を抑え込もうとしていた表情。
目の前にいる踊り子の顔立ちは、それと重なる。
踊り子は客席に視線を流し、ふとこちらを見た。
一瞬だけ、目が合う。
彼女の表情が、わずかに揺れた気がした。
今日は飯だけ食って、さっさと引き上げるつもりだったのに、
俺は戸口に立ったまま、彼女を見尽くしていた。




