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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野
からっぽな騎士

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2話

夕暮れ時、俺は一人で家に帰った。


石畳から土の道へ変わる境目を越える頃には、

人の声は風に紛れ、自分の足音だけが聞こえた。


俺の家は町はずれにある。

死んだ両親が残した、小さな家。

古く、小さく、誇れるようなものは何もない。


戦争に出た人間の家は、留守のあいだに空き家として扱われることが多い。

持ち主が死んだと判断されれば誰のものでもなくなり、

買い手さえいれば簡単に持ち主が変わる。


だが、俺の家はそのままだった。

屋根も壁も、戸口の歪みすら変わっていないように見える。

荒らされた形跡もなく、窓は閉じられたままだ。


扉に手をかけ、少しだけ躊躇ってから押し開ける。


中は静まり返っていた。

壁際の棚、簡素な寝台、使い古した椅子。

どれも見慣れたはずの光景なのに、空気だけが妙に軽い。


――空虚だ。


町中で感じた違和感よりも、大きな感覚だった。


剣を壁に立てかけ、鎧を外す。

カラン、と、金属の音を合図にしたように、俺の中の何かがずれた。


「……何か、抜け落ちてる」


独り言が、部屋に溶けて消える。


形があるはずのものが、最初から存在しなかったかのように抜けている。

それなのに、確かにあったという感触だけが残っている。


椅子に腰を下ろし、無意識に拳を握りしめる。


生きて故郷へ帰った。

金も勲章も得られるはずだ。


今の俺に、何が足りないというんだ。


夕暮れの薄暗い部屋の中で、それは確かに俺を縛っていた。





朝。


久しぶりに屋根のある場所で寝たはずなのに、眠りはひどく浅かった。

藁を詰めたベッドは野営用の毛布よりも柔らかいのに、寝心地がいいとは言えなかった。


原因ははっきりしている。

気分の問題だ。


空っぽの部屋。

引っかかったままの違和感。


名付けようのないものが、眠りを妨げた。

ベッドの上で何度か寝返りを打ち、結局、俺は諦めて起き上がった。


窓を開けると、潮の混じった風が流れ込んでくる。


家の中で考え続けるより、歩いた方がましだと思った。

俺は外套を羽織り、外に出た。


行くあては、ひとまずない。


石畳を踏む感触は、潮の匂いを含んだ風は、幼い頃から知っているものだった。

戦争に行く前と変わらない。


広場を抜ける。

今は露店が並び、果物を並べた籠の前で子どもが騒いでいる。

兵舎の前を通ると、顔なじみの騎士が手を挙げた。

市場では魚の値を巡って怒声が飛び、漁港では網を繕う老人たちが朝の光を浴びていた。


酒場の前では、昨夜の名残りが漂っている。

扉の向こうにどんな顔ぶれがいるのかも、だいたい想像がついた。


覚えている。


俺は、何も忘れていない。


道順も、景色も、人の流れも。

身体が勝手に避け、立ち止まり、歩き出す。

そのすべてが自然だった。


俺は立ち止まり、港の方を見た。

陽光を受けて、海が静かに揺れている。


覚えているのに。何かが足りない。

この胸の奥に居座る違和感は、どこから来る。


答えを探そうとした瞬間、頭がきしむように痛んだ。


忘れていないはずだ。

だが、思い出そうとするほど、何かが遠ざかっていく。


生まれ育った町で、迷子になった気分だった。


腹が鳴っていることで、ようやく意識が追いつく。

茫然と歩き続け、気づけば空はすっかり暗くなっていた。

朝から何も口にしていない。

時間の感覚まで抜け落ちていたらしい。


俺は酒場へ向かった。


戦争に出る前は、夜飯に、酒に、何度も通った酒場だ。

顔なじみも多く、昼には荷運びや片付けをいつも手伝っていた。


木の扉に手をかけ、押し開ける。


途端に、熱気と音が流れ込んできた。

太鼓の乾いた調子、笛の甲高い音。

手拍子と笑い声が重なり、床板がわずかに震えている。


酒場の中央で、踊り子が舞っていた。


軽やかに回る足。

翻る紫色の衣装。灯りを弾くように揺れる黒髪。

鼻筋の通った横顔。


俺は、そこで止まった。


腹の空きも、喧騒も、一瞬で意識の外へ押しやられる。

ただ、目だけが勝手にその動きを追っていた。


――似ている。


昨日、港町で俺の前に崩れ落ちた女と。


潤んだ目に、必死に感情を抑え込もうとしていた表情。

目の前にいる踊り子の顔立ちは、それと重なる。


踊り子は客席に視線を流し、ふとこちらを見た。

一瞬だけ、目が合う。


彼女の表情が、わずかに揺れた気がした。


今日は飯だけ食って、さっさと引き上げるつもりだったのに、

俺は戸口に立ったまま、彼女を見尽くしていた。


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