追跡3
エントランスを見渡せる位置にある街路樹に抱きつきながら、翔は冷や汗を手の甲で拭った。
ひとを尾行すると、こんなにも意外な場面を目撃することになるものだとは。
そして、毎日ただまっすぐに家と学校と練習場とを渡り歩いているだけの自分はなんて真面目で健全な高校生なのだろうか、とおもわずにいられない。
サッカーの合宿や遠征など、泊まりがけで出かけることには馴れているものの、シティホテルの中となると、家族といっしょに一、二度入ったことがあるかどうかだ。
入ってみたい気はするが、さすがの翔にも、学ランすがたでひとりノコノコと、あのキラキラしくも巨大なガラス張りのエントランスに突撃をかける勇気はなかった。
出てくるまでここで待とう。ぐすん。
日も落ち、冷たくなってきた風に身をすくめながら、翔は木の幹にもたれて立つ。
暇つぶしに道端の松毬でリフティングをしたり、ぼんやりと見えるだけのファッション誌をめくったりしていたけれど、さすがに一時間もそうしていればばかばかしくなってくる。
そろそろ帰ろうかな、とおもいながら携帯電話で時間を確認していると、翔の心の声が通じたのか、猿渡がひとりでホテルから出てきた。
脱いでいた学ランを身につけながら、とっさに雑誌で顔を隠した翔には気づくことなく、猿渡は駅前に向かって歩き出す。
時刻は、まもなく七時。
翔にとってはここが自宅の最寄り駅だが、猿渡はこれからふたたび電車に乗るはずだ。
着いていくべきか、今日はもうサッカーしないと踏んで追跡を終えるべきか──
悩んでいる間に、猿渡は肩にかけたバッグの中を探りながら駅のATMコーナーへと歩いて行く。
遠目に見ていると、順番待ちをしている猿渡がサイフを取り出した。
つづけて、ズボンのポケットから何気なく取りだしたものを見て、翔は心臓が口から出そうなほど仰天した。
ままままま、万札っ!
おもわず雑誌を取り落としてしまい、あわてて拾うと同時に、脱兎のごとく翔はその場から駆け去った。
雑誌を胸に抱いても、まだ肋骨を突き破りそうなほど、心臓がドキドキいっている。
サイフの中に入っていなかったということは、元々持っていたものではない、ということだ。
そもそも、学校に一万円札など用もなく持って行けたものではない。
何枚あったのかまでは分からなかったが、一枚ではなかったような気がする。
えええ、援交?
あの、派手な女子が密かにやっていたりするとウワサの?
でも猿渡は女子じゃない、とすぐに思い直す。
しかし、女子ではないが、イケメンだ。
イケメンだったら、男子でも金になるのか?
「いやいやいや、金もらっちゃダメだろッ」
にぎりこぶしにぐっと力を込めた瞬間。
とん、と翔の肩に手が置かれた。
ひっ……!
さっきまで飛び出しそうだった心臓が、縮み上がって消えてなくなる──かとおもった。
「み、見てない見てない! なんにも見てないから、俺っ」
「翔くん? やっぱり、翔くんだった」
明らかに猿渡のものではない声を振り返って、翔はそこにスーツ姿のよく知った顔を見つけた。
あまりにもホッとしすぎて、にわかに涙腺がゆるんでしまう。
「パパぁぁぁ!」
ほとんど身長の変わらない四十代会社員の胸に、翔はなにも考えずに飛び込んだ。
「──うーん、翔くん。美少年がパパと呼んで抱きつくこの光景は、果たして傍目に、実の親子に見えるものだろうか? うれしいけどね、うん、うれしいんだけどさ」
翔は即座に顔を上げた。
聞き捨てならない。
「俺、美少年なんかじゃないもん!」
「ところで翔くん。今日、サッカーは? もう、練習は終わったの?」
うぐっ、と息を飲んだ翔の肩を、父親はやさしく叩いた。
「まあいいか。いつも翔くんは夜遅くまでがんばってるから。たまにはパパと、ラーメンでも食べて帰ろうか。おいしいお店が向こうの路地裏にあるんだよ」
「やったぁ、ラーメン、ららららーめんっ」
おいで、と促された翔は、両手を突き上げてよろこびを表現しつつ父親について行く。
その頭の中からは、サングラスの男も、一万円札も、すっかり消え失せていたのだった。