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第6話 天女と鬼市

 凛月リンユエがたどり着いたのは、街外れの荒れ果てた古いびょうだった。中からは男の激しい息遣いと、湿った筆が紙を滑る音が響いている。


 男は特大の紙に猛烈な勢いで筆を走らせていた。彼の描く絵は、墨の一滴、線のひと筋に至るまで、人物が今にも動き出しそうなほど生気に満ちている。

 だが、男は突然、忌々しげに筆を投げ捨てた。


「──こんな出来では駄目だ! 美しくない!」


 白い紙をビリビリに引き裂き、半狂乱になって頭を掻きむしる。


「人生を左右する大仕事だというのに、これでは期限に間に合わない……。そうなれば、俺の一生はおしまいだ!」


 狭い室内に、男の放つ鬱々《うつうつ》とした空気が満ちていく。


 すると、床に散らばった紙の切れ端から、どろりとした黒い影が立ち上った。それはまるで、墨汁の沼から這い出てきたようなおどろおどろしい妖異よういだった。辛うじて人間の姿を象ってはいるが、その輪郭は、彼が先ほどまで描いていた民の姿に不気味なほどそっくりだ。


 妖異はギョロリと血走った目を剥き、男に向かってずるずると近づいてきた。その口からは、どす黒い墨がダラダラと垂れている。


「ひえええ! 完成前に死ぬのはごめんだー!」


 男は墨を床にぶちまけ、無様に腰を抜かした。妖異はニタリと醜く口元を歪ませ、手のようなものを伸ばす。


「やっ、やめてくれーーー!!!」


 男が死を覚悟したその瞬間、廟の入り口から、夜の闇を切り裂くような白い閃光が飛び込んでくる。


 ハッと顔を上げた男の視線の先には、眉根を不快げに寄せた、凄まじく美しい少女が立っていた。


 少女は手にした軟剣を一閃する。白銀の刃が生き物のようにしなり、迫り来る妖異を空間ごと薙ぎ払った。それは激しい金切り声を上げ、ドサリと床に落ちる――と思いきや、そのまま黒い霧となって消えていく。


 男はただ、呆然とその光景を凝視していた。少女は剣を携えたまま、妖異が消えた地面を靴の先で不審そうに小突く。


「……おかしいわね。血の一滴も残らないなんて」


 ひとりでブツブツと首を傾げている白衣の少女。


 男は床に棲みつくように這いつくばったまま、ガタガタと震えながら彼女を凝視し続けた。急に恐ろしい化け物に襲われたと思ったら、いま目の前には、剣を構えた美少女が立っているのだ。男の脳内で、恐怖と絵描きとしての直感が限界を突破してごちゃ混ぜになる。


「お、おかしい……。妖異は消えたのに、目の前には天女が残っている……!!」

「は?」


 少女が向けた底冷えのする視線さえも、男にとっては甘美なものだった。


「お、俺の天女様だーーー!!!」


 ガタァッ! と猛烈な勢いで立ち上がり、両手を広げて叫ぶ。


「幻なんかじゃない! あんたのその瞳、凛とした佇まい、最高だ! 頼む、あんたの姿をこの紙に写し取らせてくれ!!」

「……関わらないほうがよさそうね」


 少女は心底嫌そうに吐き捨てると、きびすを返し、まるで風のようにその場を立ち去ってしまった。あとに残されたのは、真っ黒に汚れた部屋と、天啓を得て獣のように目を輝かせる狂気の絵描きだけだった。


「天女様! 絶対に、絶対にあんたを探し出してみせるぞ!」


 ◇


 闇の中で肩を強く叩かれ、青山チンシャンは跳ね起きるように目を覚ました。

 枕元に立っていたのは凛月だ。夜の闇は深く、まだ夜明けには程遠い。


「起きて。行くわよ」


 凛月は黒い衣をまとい、部屋を出ようとした。その背中に、青山は声を殺して慌てて問いかける。


「……待ってくれ、こんな夜更けにどこへ行くつもりだ? 通行証も持たずに外を出歩けば、あっという間に役人に捕まる。下手をすれば捕縛されて処刑されるぞ」


 逃亡者となった今、役人の恐ろしさを誰よりも理解している青山は焦りを隠せない。だが、扉に手をかけた凛月は振り返りもせず、冷ややかな声を落とした。


「だから行くのよ。その『通行証』を手に入れる」

「手に入れる……? 役所はもう閉まっているし、そもそも私は身分を偽っているんだぞ」

「鈍いわね。官府が発行してくれないなら、裏で作らせればいいでしょ」


 凛月は呆れたように短く息を吐くと、薄く目を開けて青山を見やった。


「日中の街を歩きたければ、正式な『路青山』としての身分を偽造するしかないわ。命を繋ぎたいなら、四の五の言わずに着いてきなさい」


 二人が向かったのは、官府の目も届かぬ城壁沿いの貧民街だった。

 崩れかけた土壁と、あばら家が立ち並ぶ路地の奥。そこには深夜の丑の刻にのみひっそりと開かれる、不法な裏取引の場があった。


――「鬼市きし」。


 立ち込める怪しい煙と、濡れた土、生臭い獣の血の匂いが鼻を突く。

 ぼんぼりと揺れる赤い提灯の光の中、顔を深い頭巾や布で覆った異形の群衆が、まるで死者や妖異のようにうごめいていた。


 地面に広げられたむしろの上には、怪しい薬草、どこかから盗まれたのであろう古美術、禁書、果ては檻に入れられた異国の奴隷までが並べられている。声を殺し、指の数だけで不気味に価格を競り合う闇の商人と客たち。


(これが……陽の光の届かぬ、世界の底なのか)


 あまりにおぞましく異様な光景に、青山は唇を噛みしめた。かつて宮廷の禁苑で清らかな教養と風流だけに囲まれて育った彼にとって、ここは地獄の底そのものだった。身の危険を肌で感じ、一歩踏み出すことすら足がすくむ。


 だが、隣を行く凛月はまったく怯む様子がない。まるで自分の庭でも歩くかのように、黒衣の隙間から冷ややかな瞳を光らせ、奥まった路地の一角にある怪しげな露店へ迷いなく突き進んでいく。


「……例のものを」


 凛月が店主の男と短く言葉を交わすと、懐から素早く銀子を差し出した。


 影の中から現れた白髪交じりの老店主は、濁った眼で二人を品定めすると、ニヤリと歯の抜けた口で不気味に笑った。熟練の手つきで紙に文字を記し、官府の公印を模した偽印を捺していく。ものの数分で、役人の目すら欺く完璧な出来栄えの「通行証」が出来上がった。


「……ほら、受け取って」


 店主から手渡された紙を、青山は震える指先で受け取った。そこには、しっかりと『路青山ルー・チンシャン』の名が刻まれている。

 皇子であった自分が、いまや鬼市の暗がりで金を払って偽りの身分を手に入れている。その事実に、胸の奥が焼き切れるような屈辱と切なさが込み上げた。


 しかし同時に、手に伝わる紙の感触が、青山に覚悟を強いる。

 偽りの名、偽りの通行証。それでも、これはすべてを失った自分が生き抜くために選んだ道の、確かな証だ。


 自分を救い、この名を与えてくれた少女への恐れと、それを上回る密かな感謝とともに、青山は改めて決意を固めるのであった。

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