第5話 世間知らずの牡丹
門を抜けた先の西京の街並みは、静かで整然としていた。それは青山が今まで生きてきた、昼夜を問わず熱気と喧騒に満ちた都の街並みとは、随分と異なる。
皇子という身分に縛られていた頃は、都から一歩たりとも出ることを許されなかった。それが今、すべてを失った逃亡者として、この古都の地に立っている。恐ろしい追手に脅かされる最中であるにもかかわらず、青山の胸には抑えきれない静かな興奮が湧き起こっていた。
(ここが、かつて栄華を誇った古き都……)
青山は凛月のあとに続きながらも、物珍しそうに周囲へ視線を巡らせる。
街のあちこちには手入れの行き届いた名士たちの屋敷があり、露店には珍しい古書や画軸が並ぶ。行き交う人々の中にも、風流を好む文人や名士の姿が多く見受けられた。
周囲への警戒を忘れてはならないと思いながらも、青山はつい、歴史をまとった街並みに目を奪われてしまう。ふと、ある屋敷の生垣に目が留まった。そこには、息をのむほど見事な大輪の牡丹が咲き乱れていた。
「美しいな……」
緊迫した逃亡の身だというのに、悲しいかな、身に染みついた風流を愛でる癖が顔を出す。
(ほんの数日前までの自分も、あの牡丹のように、世間の泥も知らず咲いていたのだ……)
青山の呟きに凛月は歩みを緩め、牡丹を一瞥した。
「ちょうど見頃ね。……西京の牡丹は、たった一株で家が買えるほどの値がつくこともあるそうよ」
現実的な金の話をさらりと吐き出すと、彼女はさっさと細い路地の暗がりへと入っていく。その態度が、かえって青山の張り詰めた緊張を緩めてくれた。
街の路地は、薄暗い裏通りへと続いていた。大通りを囲む高い土壁の向こう側には、粗末な長屋や安宿が迷路のように押し込められている。
「まるで見通しが利かない……」
青山は警戒を強めながら周囲を見回した。表の大通りはあれほど広く、光に満ちて優美だったというのに。一歩路地裏に足を踏み入れただけで、薄暗い世界が広がっている。
表舞台の華やかさに比べ、裏に潜む暗闇の深さはどうだ。青山はその不気味な閉塞感に、わずかに気圧された。
だが凛月は、青山の戸惑いなど気にする様子もなく、迷いのない足取りで一軒の古びた客店へ入っていった。
◇
部屋に入り、横になるやいなや、青山の意識は吸い寄せられるように暗闇の底へと沈み込んでいった。次にハッと目を覚ましたとき、部屋の中には茜色の夕日が差し込んでいた。
(……まただ。どうしてこんなにも起きられない……?)
身体が鉛のように重い。覚醒と同時に胸を押し潰すような激しい喪失感が舞い戻り、青山はうろたえながら荒い息を吐いた。
長い時間眠っても、疲労が抜けるどころか心が麻痺していくような感覚がある。
部屋の隅では、凛月が卓に腰掛けて静かにこちらを見つめていた。その瞳にはいつもの冷たい光が宿っているが、なぜだか青山を案じているようでもあった。
「……すまない。また、眠りこけてしまった」
罪悪感に押し潰されそうになりながら頭を下げる。凛月は追及することもなく、ただ短く告げた。
「食事を置いておいたわ。早く食べなさい」
差し出された冷めた粥と干し肉を、青山は味も分からぬまま口へ運んだ。喉を通る感触だけが、かろうじて自分がまだ生きていることを教えてくれる。
簡素な腹ごしらえを終え、ようやく二人は卓を挟んでこれからの方針を話し合い始めた。
「あなたが泥のように寝こけている間、少し街の様子を探ってきた」
凛月は卓に肘をつき、細い顎を乗せて言った。
「今のところ町に不審な動きはないし、山道での出来事も噂にはなっていない。刺客を放った黒幕がどう動くか分からない以上、今は下手に移動して目立つよりも、しばらくここに潜伏した方が安全よ」
青山は納得して頷く。すると凛月は、意地悪く目を細めて言葉を続けた。
「それに……あなたのその『弟のふり』、お世辞にも上手いとは言えないし」
「……私の方が、おそらく年上だからではないのか?」
青山の控えめな抗議を、凛月は完全に無視する。何はともあれ、中央の状況が判明するまで、しばらくは西京に滞在することが決まった。
「……君には苦労をかける。私の都合に巻き込んでしまって、本当にすまない」
青山は申し訳なさそうに眉を下げると、自身の懐から小さな巾着を取り出した。
「手持ちの路銀はこれが全てだ。君の巾着と合わせても、宿代や食事代を払えばすぐに底を突いてしまう。だから……これを足しにしようと思っているのだが」
青山が手のひらをそっと開く。そこにあったのは、しっとりとした上品な光沢を放つ、見事な和田玉の帯飾りだった。素人目にも一級の品と分かる代物だ。
しかし、凛月はそれを一瞥するなり、青山の言葉をにべもなく遮った。
「やめておきなさい」
「なぜだ? 皇族の印は入っていない。これなら身分も割れないはず……」
「身分が割れる以前の問題よ」
凛月は鼻で笑い、現実を突きつける。
「私たちみたいな、安宿に泊まる身なりの貧乏な若い二人連れが、そんな最高級の和田玉を持っていたらどう見える? 質屋に持ち込んだ瞬間に『どこぞの富豪から盗んできた』と疑われて官府に突き出されるか、帰り道に悪党に刺されて身ぐるみを剥がされるのがオチね」
「あ……」
確かに、その通りだ。己の浅はかさを思い知り、青山は顔をカッと熱くした。凛月は彼を、救いようのない者を見るような目で見つめる。
「本当に、守られ慣れた世間知らずね。命があるのが不思議なほどの暗殺劇だったのに、頭の中はまだ宮廷の庭園で止まっているのかしら」
「……では」
青山は必死に頭を巡らせた。
「この玉をそのまま質に入れるのではなく、小さく砕いてはどうだろう。親の形見の壊れた飾りの破片として持ち込めば、怪しまれずに数ヶ月分の路銀くらいにはなるかもしれない」
青山は懐から小刀を取り出し、和田玉に刃を当てて力を込めた。
――ガキィン!
硬質な音が室内に響く。玉に傷すらつくことはなく、逆に小刀の刃先が虚しく零れ落ちた。和田玉は極めて硬質な石なのだ。
青山は小刀の柄を振り上げ、力任せに打ち砕こうとする。
「……やめなさい」
凛月が呆れたように手首を掴んで止めさせた。
「無駄な真似をして道具を壊すんじゃないわ。それに、今はまだそこまでする必要はない」
凛月はぱっと手を離したが、その声には先ほどのような鋭い刺々しさはなかった。青山は欠けた刃を見つめ、己の無知に恥じ入りながらも、小さく息を吐いて思考を切り替えた。
「……そうだな。路銀の工面も大切だが、まずは情報を集めよう。明日、都と頻繁に行き来する商人を探して接触してみる。彼らなら何か知っているはずだ」
◇
その夜。青山が深い寝息を立てるのを見届け、凛月は音もなく窓から宿を抜け出した。
町が夜の闇に沈む中、彼女はふと足を止め、闇の奥を睨みつける。
「……妙ね。風が、死臭を孕んでいる」
凛月の研ぎ澄まされた五感すら捉えきれぬその向こう。
それは刺客の放つ殺意とは違う、もっと禍々しく歪んだ気配――常人には見えぬ「どす黒い執念」が、とある狂った男の筆先からあふれ出し、静かに西京の夜を侵食し始めていた。




