エネルギー転送装置
二日目の朝。
昨日行われた“脳の共有実験”の影響なのか――原因は定かではないが、美柚は激しい頭痛と共に目を覚ました。普段なら秒単位で目覚めるほど規則正しい彼女が、その日は三十分も遅れていた。
まるで酷い二日酔いだった。
頭の奥を鈍器で殴られているような痛みが脈打ち、立ち上がるだけで視界が揺れる。それでも美柚は鏡の前に立ち、最低限の化粧だけを済ませると、重い身体を引きずるようにしてホテルのモーニング会場へ向かった。
朝食会場では既に長官と那奈が席についていた。二人とも食事を終え、食後のコーヒーを飲んでいるところだった。
「永野君、おはよう。調子は大丈夫か?」
長官が気遣うように声をかける。
「美柚、おはよう。遅かったわねー」
那奈は相変わらず気楽な調子だった。
「私なんて結局あの後、一睡もできなかったのよ。けど、やっと来てくれて助かったわ。長官に色々脅かされて、気が気じゃなかったんだから」
「お前はどこへ行っても土足で踏み込める性格をしているな……」
長官は呆れたように言った。だがその声音には、既に“那奈という人格”を受け入れ始めている空気があった。
長官はコーヒーカップを静かに置き、真剣な表情で二人を見据える。
「今日の会議は昨日とは違う。世界各国の代表が集まり、明日に向けた“キューブとの折衝内容”を詳細に詰める重要会議になる」
その視線が那奈へ向けられた。
「喜多治君。今日は特に気を付けてくれ。意見を求められるまでは、なるべく発言を控えてほしい。穏便に頼むよ」
那奈はピシッと敬礼してみせる。
「はーい。長官殿、承知いたしました」
軽い返答だった。だが次の瞬間、その場の空気を変える一言を口にする。
「でも長官。この会話、全部向こうに聞かれてますけどね」
長官の眉が動いた。
「……どういうことだ?」
「昨日の夜に分かったんですけど、私達二人が見たり聞いたりしてる情報って、そのままプロキシマ・ケンタウリ側に送られてるみたいなんです」
那奈はまるで天気の話でもするような口調で続けた。
「向こう、リアルタイムで人類を解析してますよ」
長官は腕を組み、黙って話を聞いていた。だがその表情からは、隠しきれない緊張が滲み出ている。
「つまり……全ての会話が筒抜けということか」
「ご認識の通りですぅ」
那奈は悪びれもなく答えた。
「もちろん、今この瞬間も」
長官は深く息を吐き、額を押さえた。
国家機密。外交。軍事。その全てが既に“観測対象”になっている。だが、今さら隠しても意味はない。長官はそう判断した。
「……分かった。予定を変更する」
二人へ視線を向ける。
「君達は先に会議室へ入るな。別室で待機してくれ」
「え?」
「まず私から、“情報共有の危険性”について各国代表へ説明する。その後、二人には途中から参加してもらう」
長官は低く続けた。
「少なくとも、世界が混乱するのは……少しでも遅らせたい」
会談は日本時間二十一時ちょうどに開始された。
史上初となる十一カ国による大規模WEB首脳会談。接続障害やハッキング、情報漏洩など、各国はあらゆるリスクを想定していたが、結果として通信は驚くほど安定していた。
まるで“何者か”が、この会談そのものを成立させようとしているかのようだった。
画面には各国の首脳陣が並ぶ。米国大統領。ロシア大統領。欧州各国の代表。
さらに――。
NASA長官、Roscosmos総裁、China National Space Administration局長、Indian Space Research Organisation議長。
人類の宇宙開発を牽引する者達が、会場の大画面スクリーンに集結していた。
最初に国連代表が静かに口火を切る。
続いてJapan Aerospace Exploration Agency長官が立ち上がり、昨日発生した“接触事案”について説明を始めた。
そして――美柚と那奈の存在。プロキシマ・ケンタウリとの接触。脳の共有。未知の量子通信。
説明が進むほど、会議の空気は重くなっていった。
本来二時間を予定していた会談は、気づけば四時間近くが経過していた。しかし、議論は一向に終着点を見せない。
各国の思惑。軍事的脅威。外交。技術独占。宗教的影響。誰もが発言していた。だが、誰一人として“答え”を持っていなかった。
二人が会議へ参加したのは、開始から一時間ほど経った頃だった。キューブと遭遇した瞬間。共有された感覚。聞こえた声。脳内へ流れ込んできた情報。美柚と那奈は淡々と説明し、その後は数回の質問に答えただけで、静かに会議を見守っていた。
そして会談終盤――。
答えのない議題に疲弊した約五十名の参加者達が、一斉に沈黙した。各国会場からも物音が消える。日本側の会議室も、不気味なほど静まり返っていた。空気が張り詰める空白が訪れた。
二人が、同時に立ち上がった。まるで示し合わせたように。いや――まるで“同じ存在”に動かされたかのように。
美柚の瞳から感情が消える。那奈の表情からも、いつもの軽薄さが完全に抜け落ちていた。
そして、那奈の口がゆっくり開く。
「私は今、喜多治那奈という個体の身体を借り、あなた達へ話しかけています」
低く、妙に澄んだ声だった。
「私は、プロキシマ・ケンタウリ星系外監査代表――シスオア」
その瞬間、世界中の会場でどよめきが走った。
誰かが息を呑み、誰かが椅子から立ち上がる。通訳達の声すら、一瞬止まった。
だが那奈――いや、“シスオア”は続ける。
「本日の議論、興味深く聴かせてもらいました」
日本会場のWEBカメラは、二人の姿を正面から映していた。五十を超える視線が、ただ無言で二人へ注がれる。その沈黙を破ったのは、日本の首相だった。
「……あなたが本当にプロキシマ・ケンタウリの代表である証明はできますか」
冷静を装った声。しかし、その指先はわずかに震えていた。シスオアは静かに答える。
「我々は特殊量子を利用し、二人の身体へ干渉しています」
「現在も、プロキシマ・ケンタウリから量子テレポートを介して会話を行っていますが、この場で我々の文明を直接証明する手段は存在しません」
一瞬、間を置く。
「ですが――二人の身体を同時制御できている事実は、十分な証明にはなりませんか?」
首相は小さく息を吐き、大きく手を振った。
「……なるほど」
そして次の質問を投げる。
「では、なぜ地球の言語を理解できるのですか。日本語も英語も、完全に理解しているように見える」
シスオアは迷いなく答えた。
「私は現在、喜多治那奈と“同化状態”にあります。彼女が見聞きするもの。理解する概念。感情。記憶。その全ては、同時に私へ共有されます」
会場の空気がさらに冷えていく。
「逆に、今のように私が主導権を握った場合――」
那奈の瞳が静かに細められた。
「私の意思が、彼女の脳を通して“言語”へ変換され、声として出力されます」
誰も口を開けなかった。それは通訳ではない。翻訳でもない。“脳そのもの”が接続されている。その事実を、全員が理解してしまったからだった。
今度は、美柚がゆっくりと口を開いた。
「私はプロキシマ・ケンタウリ星系代表、ニルバナです」
その瞬間、会議室の空気がさらに張り詰める。
「時間も限られているので、私から話をします。エネルギー転送装置の故障をきっかけに、あなた達と接触できたことを嬉しく思います」
美柚の口調は穏やかだった。だが、その声には人間とは決定的に異なる静けさがあった。感情の波がない。
「私達があなた達へ伝えたいことは、一つだけです」
世界中の代表達が息を呑む。
「そのために、今この場で二人の身体を借りています」
突如現れた“異星文明の代表”。しかも、それが人間の身体を通して語っている。誰もが混乱していた。だが、ニルバナは構わず話を続ける。
「我々は二人の体内へ特殊量子を送り込みました。その時点から、二人が見聞きし、理解し、感じた情報は、全てプロキシマ・ケンタウリ側へ転送されています」
「そして、その情報は我々の知能群――地球でいう“スーパーコンピュータ”によって解析されました」
静まり返った会場に、美柚の声だけが響く。
「解析の結果、地球文明の歴史概要を把握しました」
一瞬、間が空いた。
「さらに――エネルギー転送装置が地球へ到達したことにより、地球の歴史そのものが大きく変化した可能性も確認されています」
各国会場でざわめきが広がる。宗教関係者。科学者。軍関係者。全員の顔色が変わっていた。だがニルバナは淡々と続ける。
「地球に生命が誕生した原因そのものに、転送装置が関与している可能性があります」
その一言で、ざわめきが完全に止まった。
「よって我々は、装置を修復し、地球から移動させる行為を中止する決定を下しました」
世界中の代表達が、美柚を凝視する。
「もし装置を移動させれば、地球環境は急激に変化し、多くの生命が死滅する危険性があるためです」
誰も口を挟めなかった。
それはつまり――。
地球文明どころか、“生命の起源”そのものが異星文明の遺物と繋がっている可能性を意味していた。
ニルバナは静かに続ける。
「地球人が装置内部へ立ち入ること自体に問題はありません」
「しかし内部機構へ干渉した場合、転送システムの起動状態が変化する可能性があります」
その視線がカメラ越しに全人類へ向けられたように感じられた。
「装置内部の機構には、決して触れないことを推奨します」
その時、日本の首相――加東が静かに口を開いた。
「地球、日本代表の加東です。まず、あなた方と会話できていることを光栄に思います」
慎重に言葉を選びながら続ける。
「質問があります。あなた方の言う“エネルギー転送装置”とは、一体何なのでしょうか?現在も地球周辺を周回しているとのことですが、我々はいまだ装置本体を発見できていません。地下に存在しているのですか?それとも、我々に観測できない形で存在しているのでしょうか」
その問いに、美柚――ニルバナはゆっくりと首相へ顔を向けた。
「解析結果によれば、地球人は過去に何度か装置表面へ降り立っています」
会場の空気が止まる。
「装置には長い年月をかけて小惑星残骸が堆積し、現在の外殻を形成しています」
そして、ニルバナは静かに告げた。
「地上からも、常に観測可能です」
誰も呼吸を忘れたようだった。
「あなた達は転送装置を――“月”と呼んでいます」
その瞬間。
世界中の会場で悲鳴にも似たどよめきが轟いた。
誰かが椅子を倒し、誰かが立ち上がる。通訳達ですら翻訳を忘れ、ただ絶句していた。
月。
人類が太古から見上げてきた存在。神話。宗教。科学。浪漫。その全てが、一瞬で塗り替えられた。ニルバナは構わず続ける。
「地球文明は現在、生命レベル二段階に位置しています。転送装置を覆う外殻を除去するには至っていません。しかしレベル六へ到達すれば、装置内部への侵入も可能になるでしょう」
一呼吸の間があった。
「その際は、決して装置を操作しないでください」
会場は完全な静寂に包まれていた。
「解析結果によれば、地球文明の進化速度は極めて異常です。このまま文明成長が継続した場合、地球時間換算で約四千五百年後には、現在の我々の文明段階へ到達すると予測されています」
その言葉に、多くの科学者達が目を見開く。
「地球人には、我々には存在しない特殊性があります。成長速度が非常に速い。しかし同時に、その速度ゆえに、自らを滅ぼす危険性も高い」
環境破壊。資源争奪。戦争。核。
世界の代表達は、それが何を意味するのか理解していた。ニルバナは続ける。
「当初、我々は地球人との相互理解を試みようとしていました。しかし解析の結果、地球文明の危険度は極めて高いと判断されました。よって現時点では、“観測対象”として見守るのみとします」
冷たい宣告だった。だが次の言葉には、わずかな変化があった。
「ただし――」
「あなた達が転送装置へ到達した時、その時は改めて接触を行います」
首相は深く息を吸い、再び問いかけた。
「地球人自身も、自らの危険性は理解しています。だからこそ、破滅を避けようとしている。もし可能なら、いくつかだけ教えてください」
ニルバナは一瞬沈黙した後、答える。
「現在の状態では、二人を制御するためのエネルギーが不足しています。このまま続ければ、母体へ深刻な負荷を与えるでしょう。もう時間がありません。手短にお願いします」
首相は頷き、短く質問した。
「あなた達と共存し、情報交換しながら生きることは可能でしょうか」
ニルバナは静かに首を横に振る。
「共存は不可能です。生存環境が違い過ぎます。そもそも我々は、地球環境下で本来の姿を維持できません」
そして、静かに続けた。
「もし地球人が我々の姿を見れば――その大きさに、恐怖するでしょう」
誰も次の言葉を発せなかった。首相はさらに問う。
「では、あなた達の技術を学ぶことは?」
「文明段階の差が大き過ぎます。理解は困難でしょう」
「……では、我々からコンタクトする方法はありますか」
ニルバナは答える。
「転送装置を利用すれば可能です」
「ただし、その前に“月の内部”へ到達する必要があります」
そして最後に、静かに告げた。
「その時、方法を教えます」
美柚の瞳が微かに揺れる。
「限界です。母体への影響が出始めています」
「これより量子接続を解除します」
短い沈黙。そして――。
「では次は、“月”で会いましょう」
直後。
美柚と那奈の身体から一気に力が抜けた。二人はその場へ崩れ落ち、意識を失う。
駆け寄るスタッフ。騒然となる会場。
そのまま二人は救急搬送され、歴史上最も異様な国際会談は終了した。
そして世界は知る。
人類が太古から見上げ続けてきた“月”が――。
ただの衛星ではなかったという事実を。




