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#4 魔物の進化はどうするの~その9、魔王種~

「やっぱり、かえではすごかったんだね」


 ジェイは、小さな双子の妖精から「かえでは“ずっとずっとすごい魔物”になる」と教えられ、自分のことのように誇らしげに、嬉しそうに胸を張っていた。


 そんなジェイの無邪気な喜びをよそに、かえでは夕陽が落とす濃い影の中に俯いたまま、何も答えることができない。ジェイは知らないのだ。文字が読めず、門の記録を素通りしていたが故に、かえでがその身に【幼体化】と【進化阻害の呪い】という、底知れぬ呪縛を付与されていることなど、彼は露ほども知らないのだ。


「大丈夫だよ、かえで。僕が進化させてあげるからね」


 ジェイには門からの正確な情報は得られなくても、ずっと隣にいてくれたかえでの気持ちなら、痛いほどによく分かった。かえでが具体的にどんな問題を抱えているのかは分からない。けれど、彼女が心の奥底で「変わりたい」「進化したい」と激しく渇望していることだけは、彼の胸に真っ直ぐに届いていた。


「かえでの進化値、見せてもらうね」


 ジェイがかえでの額の角へ、そっと小さな指先で触れる。


『進化値 -999』


「……すごい数字だね。それにかえでも、あのときの卵みたいに一緒で、マイナスなんだ……」


 ジェイは思わず息を呑んだ。強がってみせた手前、自分の“いたずら”でどうにかできる範疇を遥かに超えた絶望的な数字に、少年は激しく戸惑う。


 戸惑い、固まってしまったジェイを見て、かえでもまた、どんな声をかければいいのか分からずにいた。果てしなく続くオレンジ色の草原に、息が詰まるような沈黙の時間がゆっくりと流れていく。


 そんな二人の静寂を破ったのは、宙を舞う小さな双子の妖精たちだった。


「「ふ~ん。なんてすごいのかしら」」


「「『進化値』なんて、私たちも知らないわ。その言葉自体が、より高次元の存在値エグジスタンスに位置するものなのね」」


「高次元……?」


 ジェイは思い悩むのをやめ、吸い寄せられるように妖精たちの言葉に耳を傾けた。


 小さな二人の妖精は、片方が風にそよぐ新緑を思わせるドレスを、もう片方は沈みゆく夕陽のように鮮やかなオレンジ色のドレスを身に纏っている。長く美しい髪は、一方が後ろで一本の三つ編みに、もう一方が可憐なハーフアップに結われていた。


「「私たちが最初から与えられている記憶の中にすら、そんな知識はないわ。それほどまでに高位のことわり――」」


「「それこそ、まるで『魔王』に準ずるものだわ」」


「「あ!」」


 その瞬間、かえでとジェイの視線が、火花が散るように空間で交差した。互いの脳裏に、全く同じひとつの光景が浮かび上がる。


「あの、気持ち悪いハエ……!」


 ジェイが叫ぶ。装備錬成の余波と闇属性の魔力を吸い、殻を破って産声を上げた、あの禍々しい魔王種の姿。

 マイナスという歪んだ数値から生まれたあのハエこそが、かえでの『進化値 -999』という世界のバグのような呪いを解き明かす、唯一の鍵なのかもしれない。


 夕闇が迫るダンジョンの中で、二人の「遊び」は、ついに世界の禁忌たる魔王の領域へと、その足を踏み入れようとしていた。


「「クスクス。捕まえてきましょうか」」


 二人の妖精は面白そうに笑い転げた。新緑とオレンジのドレスをひらひらと翻しながら、宙を舞う。

 “魔王種”、そして“進化値”という、世界の理さえも超えた前代未聞の展開に、彼女たちがノリノリになっているのが肌で伝わってきた。かえでの抱える暗い絶望すら、高次元の存在である彼女たちにとっては、最高にエキサイティングな「遊び」の一部に過ぎないのだろう。


 それからしばらくして。

 どこまでも続くオレンジ色の草原の向こうから、凄まじい羽音が響いてきた。


「「よいしょ、こらしょ……! ほら、大人しくしなさいっ」」


 二人の妖精が小さな身体をいっぱいに使い、息を切らしながら、一匹の異形を引っ張ってきた。

 そこにいたのは、四枚の鋭利な羽と、光を反射しない黒く巨大な複眼を持つハエ。ジェイが意図せず産み落とした、あの禍々しい魔王種だった。


 さすがに世界の頂点に君臨するはずの血統。その身から放たれる闇の魔力は、周囲の草木をじわじわと枯らせるほどに濃密だった。だが、ジェイが「土と風」を混ぜ合わせ、妖精の鱗粉で定義を上書きして創り出した双子の妖精エレメンタルフェアリーたちの前では、その魔王種でさえも、縄で引かれる仔牛のように不格好に引きずられてくるしかなかった。


「……本当に捕まえてきちゃった」


 ジェイが目を丸くして呟く。


 地面に引き摺り下ろされた魔王種は、不満げに複眼を怪しく明滅させている。そのすぐ傍らで、かえでは息を呑んだまま動けない。


 マイナスから生まれた「魔王」。

 そして、『進化値 -999』の呪いを宿す「守護者」。


 オレンジ色に染まる静寂の中、二つの歪んだ数値が、ついに目の前で邂逅を果たした。


 二人の妖精が、その愛らしい小さな口を開く。


「不思議ね」


「そうね」


「「存在値エグジスタンス、私たちのほうが高かったみたい」」


 二人は“クスクス”とどこか楽しげに笑い合う。災悪の血を引くはずの魔王種を前にしても、自分たちの力が上回っていたことを不思議そうに、けれど誇らしげに首を傾げながら楽しんでいた。やがて、彼女たちだけの知識の深淵で納得がいったのか、「嗚呼」「そういうことかしら」と二人だけの閉じた会話を交わし始める。


「ねぇ。ちょっと僕にも何のことかわかるように話してよ」


 せっかくの楽しそうな遊びに仲間に入れず、置いてけぼりにされていたジェイが、しびれを切らして不満げに質問した。


「「はい。主様」」


 その声に応じ、二人の妖精は夕映えの風をまとってジェイの両肩へと静かに舞い降りた。耳元で、鈴を転がすような重なり合う声が囁く。


「「この魔王種のハエも、何か別の力に阻害されているかのように、とても不完全な状態です」」


「私は、この魔王種を育てることには賛成しません」


 オレンジ色のドレスを揺らすハーフアップの妖精が、真剣な眼差しで、独り続けて自分の意見を主張した。


「この魔王種が目指す進化の先にあるのは、おそらくは……『意思なき理想』にございます」


「それってどういうこと?」


 ジェイは、頭の中にたくさんの“はてな”を浮かべながら問いかけた。せっかく創り出した最高ランクのはずの魔王種なのに、育てないほうがいいとはどういう意味なのか。少年の純粋な困惑を受け止め、今度は緑色のドレスを纏った、後ろで一つに髪を編んだ妖精が割って入る。


「意思があるものの幸せと、意思がないものの幸せは、決定的に違うのです」


「あの気持ち悪いハエは、意思なく産まれてきて、後発的に『飢餓』のような純粋な自我を持ちます」


 それでもまだ、ジェイは言葉の真意を掴みかねていた。ゲームのステータスや数値の合体だけでは測れない、命そのものが持つ「本質」の壁。


 その時、ずっと沈黙を守っていたかえでが、ジェイの腕をその小さな手でぎゅっと掴んだ。どこか頼りなげで、しおらしい態度ではあったが、その瞳には「これは私が言わなきゃいけない」という強い決意が宿っている。かえではジェイの前に進み出た。


「それは……虫と獣人の混合種である私だからこそ、より深く分かるわ。ジェイ、たとえばあそこにいる綿毛の魔物は、私たちと言葉を交わすことはできないの。意思なき魔物の幸せはね、生きることのすべて、そして種として繁栄することのすべてであって……私たちが思う『こうなりたい』『ああなりたい』っていう心からの願いとは、全く違うところにあるのよ」


「それって……」


 かえでの言葉が少年の胸に真っ直ぐに突き刺さる。ジェイの全身に、まるで冷たい風に吹かれたかのような鳥肌が立ち、体中がざわつくのを感じて、小さな感嘆の声が漏れた。


 数値の「いたずら」だけでは決して辿り着けない、魔物たちの生々しい生存の理。肩の上の双子が、そのざわめきを肯定するように頷いた。


「「はい、主様。魔王種のどれもが、世にあっては『災悪』と呼ばれるものでございます」」


「「あれらは、数ある魔物の中でも生態系を脅かす特異点にございます。はるか深淵……地獄の扉の先から来る異形の魔物を、私たちはすべて総じて、魔王種と呼ぶのです」」


 暮れない夕陽が、ジェイとかえで、そして縄に繋がれたように大人しく伏せる漆黒の魔王種を、よりいっそう深いオレンジ色に焼き尽くしていく。ジェイが無邪気に開いてしまった「地獄の扉」の重みが、いま、二人の子供たちの前に、世界の敵としての全貌を現そうとしていた。それは、龍皇女が言っていた6つの扉の中で一番開いてはならない扉だったのかもしれなかった。

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