地獄のゲート
一度に色々なことが起こった。
地響きがしたかと思うと、渡辺がいるあたりが一瞬、型抜き途中のクッキーのように、円形にずれた。急に見えない蓋が出現したように感じられた。蓋の隙間からは、何か黒い靄のようなものがふきだしていた。
驚いたことにクラスメイト達にもその光景が見えたみたいだった。
「え? 何あれ」
「で、誰あれ?」
などと混乱している。
そこへ、扉の向こうから亡者がやってきた。
彼らは悲鳴を上げて三人で固まった。
亡者は見た目が怖い。額に罪の文字を持ち、黒い靄のようなものに体を覆われている。千佳でも怖いから、初見だと余計だろう。
青鬼と赤鬼が窓から飛び込んできて、大きくなり、すぐに亡者と向き合った。
鬼の登場に、また悲鳴が上がった。
続けて窓から入ってきたのが一彦だったので、ここでちょっと悲鳴の質が変わった。
「仁也、一般人が混じっておるが?」
「あー、悪い。避けといて」
どうやら一彦さんが、クラスメイト達を外に出してくれるらしい。
一彦が彼らに何か声をかけると、全員顔を上気させおとなしくついて行った。
ハーメルンの笛吹き男みたいになっている。
千佳はそれを呆然と見届けて、ハッと振り返った。
そんなことより、渡辺だ。何かとんでもないことが起こっているのに、彼は声一つ上げなかった。
「渡辺くん」
「千佳、無駄だ。聞こえてない」
渡辺は円形状の靄の中に閉じ込められ、うずくまって両耳を塞いでいた。
「仁也! 何が――」
「うわ~。なんだこの状況。ゲート? やっべえ。ほんとに開ける奴いるんだ~」
千佳の言葉は雪永がやってきたことで、さえぎられた。
「あ! おまえら土足だぞ!」
「見ればわかるだろ。緊急だ。こいつの処分は後だ。雪永も手伝え。まずは亡者を片付けないと」
「しょ、処分て」
「千佳。絶対にそこから動かないで。いいね?」
千佳は頷いたのだが、どうにも信用できなかったらしい。仁也は千佳に何か種のようなものを投げつけた。それは千佳の左足に巻き付いて、千佳をその場に縛り付けた。
「大丈夫。そう待たせない」
いつの間にか一彦も教室内に戻っていた。鉄扇のようなもので亡者をいなしていた。
仁也たちは札のようなもので、亡者の目、耳、口を塞いでいく。
そちらの心配はしていなかった。
千佳は渡辺を見ていた。
彼は耳を塞ぎ、悲鳴をこらえているように見えた。千佳には聞こえない音を拾い、それに苦しんでいるように見えた。
繋がれていたことを忘れたわけではないのだが、無理に動こうとして転んだ。
「渡辺くん」
千佳はもう一度呼びかけた。それでも、渡辺はこちらに気が付かなかった。
仁也たちは、たぶん、それほど時間をかけてわけではないのだろ思う。
けれど千佳にとっては、長く不安な時間だった。
「千佳、やっぱりじっとしてられなかったか」
出来の悪い子を見るような目で見降ろされ、千佳は少しばつが悪かった。
それでも、仁也は千佳の拘束を解いてくれた。
「でだ。問題はこいつをどうするかだな」
亡者を閉じ込めた檻を机の上にどんとおいて、仁也たち三人は、渡辺を取り囲み見下ろしていた。
渡辺を囲うように出ている靄は、だんだんと濃くなっている気がする。
「このまま、地獄に落としちゃった方が早いんじゃない」
と雪永が気楽な調子で言うと、一彦が重々しくうなずいた。
「もはやそれしかあるまい」
「どういうこと? 地獄へ落ちる?」
「地獄のゲートが開きかけてるんだ。もうすぐ落ちるよ。だから千佳、離れてて」
「それじゃあ分かんないよ。なんでいきなりこんな……」
「ゲートが開く原因として多いのは、我を忘れるほど怒るか絶望するかだな」
めちゃめちゃ心当たりがあった。千佳はさっと青ざめた。
「ねえ仁也、地獄に落ちるって、渡辺くん、死んじゃうってことだよね? ど、どうにかならないの!?」
「言ったろ。こいつは人間だから、俺たちには手を出せない」
俺たちには?
その微妙な言い回しに、千佳はハッとした。
縛めはとっくに解いてもらっていた。千佳は仁也の横をすり抜けて、渡辺のそばに駆け寄った。
「千佳っ!?」
「だめだ仁也!」
仁也を引き留めたのは一彦だろうか。もうそんなことはどうでもよかった。
靄の中を通るときはひどく熱かった。
足元がぐらぐら揺れた気がした。
無茶かもしれない。だけど、放っておけなかった。
怒ったら地獄のゲートが開く?
なんて危ない人なんだろう。
けれど怒らせたのは間違いなく千佳だ。このまま地獄に落ちてしまっては、寝覚めが悪すぎる。
渡辺はもう耳を覆ってはいなかった。だらりと下ろされた手が、いかにも不吉を感じさせた。
千佳は彼の前髪を両手でかき上げ、彼の目を覗き込んだ。
焦点が合っていなかった。
「渡辺くん、こっち見て! 渡辺くんっ!」
彼はピクリともしなかったが、それでも千佳は呼びかけた。
「怒らせてごめん! 怖かったよね? あたしもめちゃめちゃ怖かったけど、でもあたしのためだったんだよね。助けようとしてくれたんだよね! もう大丈夫。だから戻ってきて」
まったく声が届いているという感触がなかった。
「渡辺くん聞いてる? あだ名魔! オカルトマニア! 前髪ヤロー! えーとっ!」
何か、彼の気を引くものはないだろうか。好きなものでも、苦手でも弱点でも、何か。
思い当たるものが何もなくて、本当に、何にも渡辺のことを知らないのだと思い知る。
息を吸い込んで、思い切って彼の名を呼んだ。
「しんや君!」
彼の瞳が少し揺れたような気がした。
名前、やっぱり名前だ。存在とか、魂とか、そう言うものを引き寄せるために、必要なのは。
ギリギリでも、彼はまだこちら側にいる。だったら、届くはずだ。信じて叫んだ。
「しんや君、渡辺森夜! こっちを見て! あたしを見て!」
「え……?」
という小さなつぶやきと共に、彼の瞳に生気が戻った。
困惑して揺れる瞳を見て、千佳は心底ほっとした。
自分でも知らないうちに、微笑んでいた。
「しんや君。あたしたちまだ中学生だよ。読んでない本も食べたことのないものもたくさんある。一緒に生きようよ」
「……一緒に?」
呆けたように渡辺がつぶやいた。
言われたことを確かめるように、視線を巡らせたあと渡辺は今度こそしっかり千佳を見る。
「一緒に?」
繰り返されると、ちょっと恥ずかしくなってくるが、今さら否定できない。ぐっとこらえて千佳はつづけた。
「うん。カップ焼きそばパーティーの第二弾とかしようよ」
「……僕、あれは嫌だな。美味しいと思えない」
「まあ、それはあたしもなんだけど」
正直に言ってしまい、お互いちょっと笑いあった。
笑えるのなら、まだ大丈夫だと思った。
そこではたと気が付いた。
必死になりすぎていて、かなり顔が近かった。慌てて身を引こうとしたら、離すまいという様に抱きしめられた。
それは拘束などではなく、紛れもない抱擁で、彼の戸惑いや体温を感じながら、千佳は慰めるように彼の背中を優しくたたいた。
緊張するような、かすれた声で彼は囁いた。
「僕も、千佳って呼んでいい?」
「うん。いいよ」
もう大丈夫。彼はきっと大丈夫だと、確信できた。
「閉じたようですね」
青鬼の落ち着いた声を皮切りに、仁也たちがめいめい長いため息をついた。
「千佳! なんて無茶するんだよ!」
仁也が駆け寄ってきたので、千佳は顔だけそちらに向けた。
「もう大丈夫だよ。落ち着いたみたい。あ、仁也、香がいるんじゃない?」
尋ねると、仁也は呆れたようにがっくりとうなだれた。
「エネルギーが必要なのは千佳の方だよ。これだけの瘴気に触れたんだ。熱が出るかもしれない。それに、悪いけど、今は無理だ。千佳から、そいつと同じにおいがする」
「ああ……、マスキング? 効果があったんだね」
「……そうだね」
効果が実証されたのに、なぜ渡辺は下唇を噛むのだろうか。まあ、くさいと言われて喜ぶ人もいないか。
何となく、場の空気が緩んだその時だった。
教室の扉がガラガラと開かれた。
続いて、物を取り落とす音がした。
「ち、千佳ちゃんっ!?」
何とか首をひねると、戸口に立っていたのはぎょっとした様子の村上だった。
一瞬仁也たちがいるせいかと思ったが、村上の動揺は、千佳が渡辺と抱き合っているせいだとすぐに気づいた。
「はっ! 離して渡辺くんっ!」
離してと言ったはずなのに、きつくなるのはなぜなのか。
「……名前。なんで戻るの」
怒りの気配を察して、千佳は必死に考える。
「それは、ほら! 特別な時だけっていうか」
「二人きりの時とか?」
……これはたぶん、からかわれている。
どうやら渡辺はいつもの調子に戻ったようだ。ほっとしたような、腹立たしいような微妙な気分だった。
「ちょっとヘンタイ! 千佳ちゃんから離れなさいよ!」
「やだ。もうちょっと」
やだってなんだ。
もう何度目かのため息は、いったい誰のものだったのか。
最初にこの状況に見切りをつけたのは、雪永だった。
「仁也、もう行こうぜー。亡者も回収したしさ。こんなん見てられねえ」
「そうだな。追って沙汰を言い渡す。というところで良いだろう」
一彦の口調もどこか呆れたものだった。
「分かったよ。――千佳、とにかく今日は早く帰って、しっかり食べてゆっくり休んで」
そんな風に言い残し、仁也たちは地獄へ帰っていった。
村上はというと、仁也たちが話している間、なんとか千佳を渡辺から引きはがそうと奮闘していた。
本当に、いい加減離してくれないと、すごく熱くなってきた。
「――って、渡辺くん熱があるんじゃない!?」
よく見ると顔も赤い。
「もう帰ろ!」
「あ、千佳ちゃんカバン。あ、それ! 落としちゃった! ごめん」
「ああ、カバン。ん? カバン?」
どうやら渡辺が保健室に届けてくれて、それを村上が持ってきてくれたらしい。
どうして教室にいることが分かったのか、ちょっと疑問に思った。さっきクラスメイトが出て行ったのだから、彼らに聞いたのかもしれない。
渡辺のカバンは、幸い彼の席に置きっぱなしだった。二つも持とうとしたら奪われた。
「ありがと。千佳」
「ち、千佳って呼んでるうううっ!?」
「うるさいよ。上。ちょっと黙って。頭に響く」
「うえ、じゃなくて村上! 何度言ったら分かるの!」
「あ。そういえば、やき弁。ちゃんと回収された?」
「そうだ、マリ先輩!」
すっかり忘れてしまっていた。なんて薄情なんだろう。千佳は青ざめたが村上がちゃんと知っていた。
「マリ先輩ならもう帰ったよ。知宏先輩が送ってった。なのに、千佳ちゃんが戻ってこないから、何かあったんじゃってめちゃめちゃ心配してたよ」
まあ、何かはあった。色々あった。ありすぎてちょっと話せることじゃない。
いつもは好ましい村上の元気な声が、今は確かにちょっと、頭に響いた。




