いくらなんでも怒りすぎ
積み重なった机と椅子の手前に、マリ先輩がぐったりと倒れ込んでいるのが見えた。
「河原さん――!」
扉のすぐそばに立っていた渡辺が、千佳の前に立ちふさがった。
「渡辺くん、どいて! マリ先輩が!」
「何で君が来るんだよ! 毛色違いを呼んでって、言ったんだけど」
渡辺は苛立っていた。けれどそれ以上に千佳は焦っていた。
亡者がぐったりするマリ先輩を覗き込むように立っていたからだ。
「だめ! 来るんなら! こっちに来なさいよ!」
とっさのこととは言え、信じられないくらい軽率な行動だった。
亡者は全員、千佳の方を見た。
さて、どうしようかなと。一瞬呆けてしまう。
「――っ、君は! 馬鹿なのかな!」
渡辺が毒づいて千佳の手を引いて走り出さなかったら、簡単に掴まっていたと思う。
とはいえ、マリ先輩から亡者を引き離すことだけはできた。
「だ、大丈夫! 仁也を呼べば」
「……呼んだの?」
「呼んでない!」
「計画性がない!」
罵られことよりも、余裕のない渡辺に驚いた。
「待って、ちょっと待って!」
「なんだよ!」
「まだちょっとクラクラしてて!」
「ほんと何で来たんだよ!」
ほとんど悲鳴みたいにそう言われ、千佳は思わず彼をなだめてしまった。
「渡辺くん落ち着いて」
「むしろなんで君は落ち着いてられるんだ!」
「渡辺くんが、一緒にいてくれるから」
「はあ!?」
「さっきも、亡者を遠ざけてくれたじゃない」
「君は! ちょっと人任せなとこあるよな」
千佳は言葉を詰まらせた。そんなつもりはなかった。とはいえ、顧みれば彼の言はもっともだった。
彼はいつも、痛い所をついてくる。
渡辺は千佳を睨みつつも、走る速度を緩めてくれた。後ろをちらりと振り返り、いきなり手近な扉を開けた。
そこは特別教室の一つで、中では書道部がまじめに活動していた。
「ちょっとそこ入ってて」
「わっ!」
渡辺は千佳を押し込むとすぐに、扉を閉める。
いきなりだったので、ふらついてその場に座り込んでしまった。
書道部員たちは闖入者に対して目を丸くしている。
「えっと、お邪魔します?」
とりあえず挨拶だけして、千佳は扉を振り返る。
「じゃなくて、何!? どういうこと?」
「三十秒間黙ってろ!」
良くは分かないが、今の渡辺は非常に怖いのでとりあえず言うことを聞いておく。
書道部員達はとまどったように顔を見合わせた。
「どうしたの大丈夫?」
とまどいつつも、そうやって声をかけてくれる人もいて、心底申し訳ない気持ちになった。けれどさらに悪いことに、教室の別の扉から亡者がにじみ出るように入ってきてしまった。
きっちり三人入ってきたところで、渡辺がガラガラと扉を開いた。
「行くよ」
と腕をつかみ千佳を立たせると、渡辺は早足で歩きだす。
「え? でも、亡者が!」
「黙って! 攪乱できるかどうか、試したいんだ」
「攪乱?」
「次にしゃべったら無理やりにでも口を塞ぐ」
渡辺は背後を振り返り、深くため息をついた。歩きながら話をつづけた。
「あいつら、嗅覚を頼りに君を探してる。だけど、目を開けて視覚でも認識できるようになった。さっき君が声をかけたことで、聴覚も使えるようになったかもしれない。だから、黙ってって言ったんだ。分かった?」
「でも、あれじゃ書道部の人たちが!」
ガンとかなり大きな音を立て、渡辺が壁を殴った。
「へえ? 塞がれたいんだ、口。ああ、そうだ、ついでにあいつらが嫌がる僕の匂いでも擦り付けてやろうかな」
と、渡辺は千佳のあごをつかんだ。
近いし、前髪の隙間から見える目が、異様な光を放っているようで怖かった。
これ以上怒らせる前に千佳は自主的に口を閉ざす。舌打ちが聞こえた。
「もう出てきた。もう少し、人口密度の高いところに行かなきゃダメだな」
生贄は多い方がいい。
物騒なことを呟きながら、渡辺はずんずん進む。
つかまれている手首が結構痛いが、文句も言えなかった。
「吹奏楽は人数が多いけど、このペースだと四階にたどり着く前に追いつかれる。漫研が近いけど、入り口が一つだし……。ああ、そうだ。職員室が近いな」
ぎょっとして見やると、渡辺は口の端を上げた。
「やき弁を置きっぱなしにしてあるし、ついでに回収してもらおう」
マリ先輩の扱いがひどい。思わず口を開きかけた千佳だが、ひと睨みされて黙った。
先生への説明は渡辺がした。
部員を二人、保健室に行かせたので行き違いになっているかもしれないこと、少し遅いので心配になったなどと、すらすらと話す。
先生に千佳の顔色の悪さを指摘されても、先輩を心配して保健室を抜け出してきたからだと、よどみなく答えている。
「河原さんが心配なので、僕らはもう行きますけど、先輩のことは先生にお願いしてもよろしいでしょうか」
などとしれっと言っている。
彼は嘘など一つもついていない。ただ、全てを話していないだけだ。
千佳にこんな話し方ができるだろうか。たぶん無理だ。
こんなにブチ切れている人は見たことがないというくらいキレているのに、その怒りをきれいに押し隠すところがまた恐ろしい。
入ってきた方とは別の出口に向かった彼は、手前で一度立ち止まる。
周りには、彼が千佳を心配して覗き込んだように見えただろう。
そうじゃない。彼は職員室に入ってきた亡者から千佳を隠したのだ。
そして、出るタイミングを、きっちり計ったのだ。
「時間を稼ぐだけじゃ、すぐに詰む。癪だけど、早くあのガキ呼ばないと」
職員室から出たあと、渡辺が向かったのは二年の教室だった。
クラスには三人の男女が残っていた。後ろの方の席に集まって、何やら盛り上がっている。
渡辺はそこへずかずか入り込み、前の方の窓を大きく開いた。
「じゃあ、ここで呼んで」
「え? ここで!?」
クラスメイトがいる場で、いきなり叫ぶのはやりづらい。
「ここで見捨ててもいいんだけど?」
「よ、よしなり~」
「そんなちっさな声で聞こえるのかよ」
「恥ずかしくて……」
「ずいぶんと余裕があるみたいだな!」
渡辺が、千佳の頭を窓の外に押し出したので千佳は慌てた。
「やめて、落ちる! 落ちる! 呼ぶから!」
覚悟を決めて息を吸い込んだ。
「仁也!」
「あんまり変わってないし!」
「なんかすっごくお腹が減って」
「殺意が湧くほどのんきだな」
千佳が叫ぶ背後でクラスメイト達が話す声が聞こえた。
「え? なに。なんかもめてんの?」
「ああ、気にしないで」
と雑に渡辺が返している。
絶対気になると思うが、とりあえず頭を押さえるのはやめてくれたし、千佳もなるべく外野のことは気にしないように精一杯叫ぶ。
「仁也、一彦さん、雪永あ!」
「って、何人呼ぶんだよ!」
「だって、誰がいるかわかんないし!」
千佳が答えると、渡辺は軽く首を傾げ、ぞっとするほど冷たい声で言った。
「つまり、とっかえひっかえ、君のもとに男が訪ねてくると」
「言い方!」
千佳の抗議を渡辺は軽く受け流す。
「で? 呼んでから到着までの時間はどのくらい?」
「さあ?」
「事前にそのくらい確認しておけよ!」
「怒りすぎ! 渡辺くんいくらなんでも怒りすぎだよ!」
いつもの斜に構えた、余裕たっぷりの態度をどこに置いてきたのだろう。多少口は悪くても大人しい部類の男の子だと思っていたのに、こんなに強引だとは知らなかった。
千佳がちょっと涙目になって訴えると、渡辺は怯んだように身を引いた。
それから、窓枠に背を預け、うつむいて髪をかき上げた。
考え込むようなそぶりを見せつつも、扉の向こうに注意を向けることを怠らない。
けれどよく見れば、髪をかき上げる左手を、その腕のあたりを、押さえるようにつかんだ右手は血管が浮き出るほど強く握られていて、彼も怖いのだと、千佳は初めて気が付いた。
だから怒っているのかと、納得もした。
千佳の視線に気づいたように、渡辺はちらりとこちらを見た。それから、かすれた声でつぶやいた。虚勢を張るのをあきらめたようだった。
「さっき君が倒れたとき……」
「うん」
「死んだかと思った」
「ああ、まれに死ぬこともあるとか言ってたかも」
それを語っていたのが雪永なので、信ぴょう性は薄いと思うけど。
けれどそれを聞いた渡辺が、すっと表情をなくした。
おそらく彼の怒りが、頂点に達した瞬間だったのだと思う。
失言に気づくのは、いつだって言ってしまったあとなのだ。
「なるほど。よく分かったよ河原千佳」
フルネームで呼ばれて、千佳はちょっと後ずさりした。
「君が、自分の身を、自分で守る気がまるでないのだということが」
「え、いや、さすがに全くないというわけでは――」
しどろもどろになった千佳の両肩を、渡辺はがっしりとつかんだ。
いつも、前髪が邪魔で表情が見えないと不服だったのだが、見えたら見えたで怖いのが渡辺の瞳だった。
どこかで、地響きが聞こえた気がした。
立ちすくむ千佳を、渡辺は、何を思ったかきつく抱きしめた。
驚きすぎて悲鳴も上げられない。行動が予測できない!
悲鳴なのか歓声なのかを上げたのはその場にいたクラスメイト達で、千佳は彼らの存在を思い出して慌てた。
渡辺の腕から逃げ出そうと身じろぎしたら、彼は腕の位置を千佳の頭のあたりに変えて、よりいっそう拘束を強くする。
「最初から、こうすればよかった。彼らは僕の匂いを嫌うんだから、マスキングしてやればいい。この場合、マーキングの方が正しいかな」
彼はそう言って息だけで笑った。
「いいか、よく聞け河原千佳。ここから先は、僕の指示に従え。逆らうことは許さない」
「――怖っ」
と、誰かがつぶやいた。全力で同意したい。でも声が出せない。
というか、さっきまでだって結構従順だったと思うのだが、足りなかったらしい。
声が出なかったので、頭の中でひたすら仁也の名を呼んだ。
渡辺はさらにつづけた。
「君の意見なんてもう聞かない。あんな奴らに殺されるくらいならいっそ――」
ひー! 殺される!
本気で青くなったその時、
「痛っ!」
と渡辺がうめいて拘束が緩んだ。
と思ったら、少し強引に渡辺から引きはがされる。
「ああ、悪い。あんまり邪な気配がするから、人間だって思わなかった」
と、あまり悪いと思っていなさそうな声色で、仁也が言った。




