で、千佳ちゃんて呼ばれてる
「千佳、ずいぶんご機嫌ね。今日はどこに行っていたの?」
「おばあちゃんち!」
それこそ、機嫌よく答えてしまって、千佳は恐る恐る母の顔を見た。
「せっかくのお休みに、行くのがおばあちゃんちだなんて」
母の渋面が怖くて、千佳はとっさに嘘をついた。
「あ、ほら、浴衣を貸してもらおうかなーって思って、今度夏祭りを浴衣で」
「あら! いいじゃない。どんなの借りてきたの? 見せて?」
「あ、いや、選べなくて……」
「そう。まあいいわ。よく考えたらおばあちゃんの浴衣なんて古臭くて可愛くないわよね。母さんが女の子らしい可愛いの買ってあげる」
「いい! まだ、誰かと約束したわけでもないし。手、洗ってくるから!」
そう言って千佳は逃げた。
なんでおばあちゃんの持ってる浴衣が、古臭くて可愛くないって決めつけるんだろう。
母はちょっと異常なほど普通の女の子に固執する
彼女の思う普通から千佳がはみ出ないよう注意深く観察し、縛ろうとする。
そのくせ、千佳がクラスでなじめずにいることに気づきもしない。
どこかアンバランスな母。
けれど母がこんな風になってしまったのは千佳のせいなのだ。
千佳は幼いころから幽霊が見えた。母はそれを子供のごっこ遊びとでも捉えていたのだろう。あまり気にした風でもなかった。あの時までは。
千佳は父親の肩に若い女の人の幽霊を見た。
彼女は父の部下だった。
幽霊が、父に別れの挨拶に来ている。何気なく母に言ったせいで、母は思い込んだのだ。
父が浮気していたのだと。
事実かどうかは分からない。もちろん父は否定したし、千佳は信じたい。
けれどその日から夫婦の仲はギクシャクしたままで、心に空いたむなしさを埋めるため、母は千佳を自分専用のお人形にすることにしたのだ。
そして千佳もそれを受け入れた。
重たい足を引きずって食卓についたとき、すでに母の興味はテレビに移っていた。
会話のない、いつもの味気ない夕食だ。
◇
月曜は早朝から雨が降っていた。
学校へ向かう傘の群れの中に、千佳はマリ先輩の幾何学模様の傘を見つけた。
彼女のそばに、もう幽霊はいなかった。
「マリ先輩!」
よく考えたら、マリ先輩の喜びそうなことなど一つしかなかった。
挨拶を交わしてすぐに本題に入る。
「あの、マリ先輩。カップ焼きそばパーティーしませんか!?」
「うわ、千佳ちゃんがマリみたいなこと言ってる」
呆れたような声に視線を向けると、マリ先輩の横には知宏先輩がいた。雨だから、朝練休みなんだろうか。
「知宏先輩、いたんですか?」
「いたよ! もー。千佳ちゃんてばマリしか目に入ってない!」
「あの、それ決定ですか? 千佳ちゃんて」
「千佳ちゃんひどい! 冷たい! なんでマリにばっか優しいんだよ」
「日頃の行いじゃないかしら?」
とマリ先輩はふふふっと上品に笑った。その上品さとは裏腹に瞳に熱がこもっている。
「千佳ちゃんも、ようやくカップ焼きそばの魅力に気づいたのね!」
「すみません。実はあまり食べたことがなくて……」
「まあ! なんてことなの。あんなに頑張って布教したのに!」
「いえ、あの、母に見つかるとうるさくて。普段あまりそういうの食べられないんです」
千佳の言葉にマリ先輩は納得したように何度も頷いた。
「そういうご家庭もあるわよね。当然だわ。じゃあ、ますますパーティーが必要ね。非日常ならそれほどうるさく言われないはずよ」
最近ふさぎがちだったマリ先輩が、本当にうれしそうに笑った。
マリ先輩のためにできることが、千佳にもちゃんとあった。それがとても嬉しかった。
「河原さん! 見てたよ! やっぱり知宏先輩と仲良しなんじゃないの!」
雨でぬれた制服をタオル地のハンカチでふいていたら、上中下トリオの村上がポニーテールをぴょこぴょこ揺らしながらやってきた。
千佳はなんとなく、村上の濡れ具合が気になった。左側ばかりが濡れている。
ハンカチを裏返して、村上の制服をふいてやると彼女はひどく驚いたようだ。
「あ、ありがと……」
などと顔を赤らめている。やはり小学生みたいだ。
中田と山下は一緒じゃないのかな、と内心首を傾げながら千佳は答えた。
「マリ先輩に話しかけたら、隣に知宏先輩がいたの。それだけだよ」
「で、千佳ちゃんて呼ばれてる」
不意に隣の席の渡辺が、会話に入ってきて、千佳はぎょっとして振り向いた。
長い前髪で目元を隠した渡辺は、カバンを机の上に置いて、椅子を引いているところだった。
「それ本当? てかなんで渡辺がそれを知ってるの」
「同じ部だから」
「ちょ、渡辺くん!」
千佳は止めようとした。それを知られると、ちょっと面倒だとか考えていたので。
「先輩って、読書クラブなんだよ。僕らと一緒で」
僕ら、と渡辺は彼と千佳を示すように指を振って見せた。
「読書クラブ? そんな部活あったっけ?」
村上は腕を組んで首を傾げた。
認識されてなかった。軽くショックである。
「……知宏先輩はめったに来ないよ。野球部の方が忙しいから」
「なになに? 面白そうな話してる~?」
とからかうような声が会話に加わった。
中田と山下が登校してきたのだ。
村上とあいさつを交わして、いつもの上中下トリオを結成する。
最近気づいたのだが、彼女らは村上のドジっぷりをひたすら愛でる関係性のようだ。ショートカットの中田が世話焼き担当で、サイドテールの大人っぽい山下がからかい担当だ。
結局、チャイムが鳴るまで千佳は三人組から逃れられなかった。
千佳がちゃん付で呼ばれる理由を聞かれたり、知宏先輩を紹介しろと詰め寄られたりした。
授業が始まってようやく三人から解放された千佳はそっとため息をついた。
何気なく窓の外を見下ろしたら、雨の中ぽつんと佇む亡者が見えた。
亡者も雨に打たれていると、なんだかかわいそうに見える。
思いかけて、千佳は慌てて目をそらした。
◇
仁也が現れたのは、すっかり寝る準備を済ませ、布団に潜り込もうとしたその時だった。
「千佳! あ、ごめん。寝るとこだった?」
「待って! 仁也、えーと、ちょっと待って」
仁也は帰るそぶりを見せたので、千佳は引き留めた。
「でも」
仁也が気まずそうに目をそらすので、千佳はワンピースタイプのパジャマの上にカーディガンを一枚羽織る。
それから練り香を手に取り、いつものように手首に塗った。
金木犀の香りがふわりと広がる。
その香りに勇気づけられるように、千佳はくるりと振り返る。
「仁也、この間はごめん!」
「何が?」
「マリ先輩のことで、八つ当たりした。それに、香も食べ損ねたでしょう?」
千佳はかなり気に病んだのだが、一彦の言う通り仁也は全然気にしていなかったらしい。きょとんとした。
「ああ、いいよそんなこと。それより、俺の方こそごめん」
仁也が謝るので、今度は千佳が目を丸くした。
「どうして謝るの? 仁也は、当たり前のことしか言ってなかったと思うけど」
「そのことじゃなくて、千佳、その……」
仁也が言い淀むので、千佳は静かに待った。
仁也はそっと千佳のそばまで歩み寄り、千佳の頬に触れる。
「お兄さんが呼びかけに来た時、千佳、真っ青だった」
それを、どうして仁也が気にするのだろう。
「もう平気。おばあちゃんに会ってきたきたから」
「おばあちゃん?」
「うん。それに、そうそう。一彦さんにもあったよ」
「――は?」
と、仁也が固まった。
そんなに意外なことなのだろうか。
「え? なんで、どこで!?」
「おばあちゃんち。おばあちゃんね、一彦さんに香を提供してるんだって」
「そんな偶然、――いや、ないとは言えないか」
仁也は顎に手を当てつぶやいた。そんなに驚くようなことなのだろうか。
仁也がなにやら考え込んでいるので、千佳は千佳で一彦のことを思い出していた。
粋な着流し姿の麗人が、線香の煙を片手で掬うように食べていた仕草を。
「なんか仁也の食べ方と違ったよ」
「線香?」
「そう」
「なら仕方ないよ。線香をくわえるわけにもいかないし。それに千佳は線香持ってないだろう? この家仏壇もなさそうだし」
「うん。まあね」
「今から変えたりする?」
千佳は小さく首を振った。
「部屋でライターを使いたくないから」
「そうか」
仁也は、どこかほっとしたように見えた。
「仁也、あたし。月曜になったらマリ先輩と話してみる」
「そうか」
仁也の「そうか」は祖母の「そっか」と似ている。こちらの言うことを否定せず、いっさい受け止めてくれる感じ。
話していて安心する。
千佳は仁也に手首を差し出した。仁也はいつも通り恭しく千佳の手を取って、千佳の香りを受け取った。
仁也が去って、千佳はようやく布団に潜り込む。すぐには寝付けそうもなかった。
薄暗い部屋の中で、千佳は自分の手首を見つめた。仁也が触れたあたりに自分の唇をそっと当ててみる。
自分の熱は確かに感じるのに、仁也が触れるときはほとんど感触がない。
それを寂しいと思うことは、たぶんいけないことだ。




