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パスバイクローンズ  作者: 面映唯
第七章
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【終】 知り得ない幸せ

 目の前にはいつも自分しかいなくて、でも他の人が見えていたりはするのに、どうしていつも彼らを遠ざけてしまうのだろうと悩んでいた。同じ境遇の子を見つけても、意地なんだかプライドなんだか知らないけど、そこにいたたまれず、動き出そうなんてことはできなかった。


 ずっとすぐに手に入れられると思っていたものは、気づけばめっちゃ遠くにあって、その現実と理想の差に愕然とした。手を伸ばせば一緒に手をつないでくれそうな子なのに、後姿が妙に愛らしいのに、どうしてもその肩に触れることが、俺のどこかにある管理室によってできなくしていた。言い訳さえも言い訳にして。


 要するに、恋ってものを知らなかった。一番知っていると手玉のように思っていたことが、ずいぶん遠くの地平線に光る丸い太陽にいなくなってしまっていた。


 そんな彼女ともう永遠に会えないような気がして、偶然の忘れ物と周りのいじりを口実に焼肉屋を出た。いつも髪を結わえていた彼女だったが、今日ばかりは長くすらりと下ろされていた。夜中の独特な空気と人影の薄さに気圧されそうになる。それも、彼女に見つめられたらなおさらだ。


 昨日までは、もう会うこともないだろうと思っていた。連絡先も知らない、ただのバイトの先輩というだけだった。


 今までにも、こんなことはよくあった。もう会えなくなってしまうんだなと思っても、別にそんなもんだろうと。小一の夏休み、従兄弟が一週間程度の滞在を経て自分の元から去ったときは、とてつもなく悲しくなった。また会えるとわかっていても、その感情は溢れ出そうとして、涙にさえ形を変えた。


 彼女はやっぱり俺のことなんてどうでもいいのだろうか。連絡先も聞いてこないし。仕事の中での会話や微笑みは、やっぱり仕事という枠組みの中でのことだったのだろうか。面と向かって聞けない自分が酷く情けない。


 マフラーを渡せばそれで終わりのはずだった。なのに、渡した後に続いた沈黙が俺をやけに急かそうとするから、「送ってきますよ」と言ってしまった。彼女も「それじゃあ」とか言えばいいのに、黙り込んでしまうのだから心外だ。そのまま終わっていたはずの時間はもう少し伸びてしまう。


 信号機が照らす横断歩道を彼女を隣に歩くなんて、夢だけだと思っていた。妄想だけだと思っていた。妄想に浸るのは好きだが、大抵それが現実に起きてしまうと、途端に覚めてしまう。ずっとそんな気がしていた。


 前に一度だけ一緒に歩いたことがある。数十メートルだったが、それはもう俺にとっては夢にも心苦しくも思うようなことであって、未だに脳裏に蘇ったりする。バイト終わりで、いつもなら帰り道が違うはずなのに、その日は「夕飯買っていくから」と俺と同じ方向に歩を進めた。話ながら歩いた。話自体はたわいもないものだったが、唯一、彼女の顔が見られなかった。どんな表情なのだろう。それを知るのが怖かったのか。今となれば何とでも言える。


 結局五分もする前に彼女はファーストフード店に姿を消した。別れ際の「お疲れ様でした」と深いお辞儀が忘れられない。


 急に、時間は早くなっていった。今まで時間があると思っていたのに、もうリミットはそこまで来ている。頭の上に出たカウントダウンの数字が見えるようだった。


 彼女の家は知らない。どこまで続くかわからない。だから、早く早くと誰かが急かした。


『俺が未来から来てるって言ったら信じてくれますか?』


 そう言いたかった。


「あの……キス、していいですか?」


 だけどこんなことを口走ったのは、本心からだったのか、得意の妄想が口を動かしたのか、周りに人影が見えなかったからなのかはわからない。


 彼女はまんざらでもなさそうだった。戸惑っていた。そりゃそうだろう。いきなり後輩のバイトからそんなことを言われれば。ましてやいつも風貌だけは真面目そうに振る舞っていたのだから、なおさら信じがたい光景が見えたことだろう。


 いつもなら、確実じゃないと行動に移せない。だが、先走った。抑えられなかったのか。


 上目遣いをする彼女の綺麗な後ろ髪に俺の左手が触れる。


 それは、そっと近づいてきた。


「ただの皮膚のふれあいなのに、どうしてこんな感情になっちゃうんでしょうね……」



 なんて、妄想の妄想が起こるはずもなく、別れはあっけない。「ありがとうございました」「お疲れ様です」この二言で、それなりに多くの時間接してきた人と別れてしまう。それも最後に彼女の隣に居たのは俺ではないし、「未成年は早く帰らなきゃね」と社員の方に促されての別れ。その気遣いが、うれしくもあるのだが、刺々しくもあった。


 二人の先輩は握手を求めてきた。「え? もう会わないのか。じゃあ、握手しておこ」という言葉が妙に友達染みていて、素直にうれしいと思った。


 当然、そのまま握手をする。その間、彼女と握手するのだろうか、そんなことを考えていた。先輩にしてみれば、迷惑な話だと思う。突然の出来事だったし、先輩に頼まれたもんだから、下げた頭が全然上がらず、そのままの状態で浅いお辞儀を繰り返した。もう一生会わないかもしれないというのに、先輩と目を合わせることはなく、おまけに触れているのは先輩の手なのに、先輩への感謝の気持ちはあったが、なぜか彼女の顔が頭に浮かんだ。本当に失礼な話だ。


 自分から求めなければ、彼女と握手することもないだろう。二人目の先輩との握手を終え、期待は当然のように流されていった。

 結局、彼女と最後に話したのが前日の勤務になってしまった。

「普通に待ってた」

 その響きと、台車を止める板を腰を折ってこちらに半分顔を向け、笑いながら拾う姿が俺にとっての最後だった。


 本当に好きだったのだろうか。横顔が。時間は彼女の顔を消してしまうのだろうか。突然。想いを散布するのだろうか。いつのまにか? 答えは、時間だ。長ければ長いほど彼女の顔は消えていく。いつもそうだったから。


 心の底から好きだなんて、到底言えたもんじゃない。数か月後には「ああそんなこともあったなと」ただそれだけが頭の中を浮遊しては消え、また唐突に思い出して、「好きだったのかも」と思ってはまた浮遊して消える。


 だが、俺に影響を与えているのは確かだ。数時間数十分だろうと、俺の頭の中を占領するのだからそれは相当な関わりと印象がこびりついているに違いない。


 だから、俺の存在を知らせたい。力ずくで気づかせたい。それが、あなたへの想い。


 付き合いたいんじゃない。イチャイチャしたいんじゃない。あなたはそういうキャラじゃない。それ以前に、俺はあなたを振り向かせたい。


 本気でそう思っているのではなく、その後が知りたい。妄想を現実にしたい。そういう記憶が薄いから。期待した分だけ裏切られるのは知っていたから、期待したい。賭けたい。確率が百分の一でも千分の一でも、最後の穴に鉄球を落としたい。そして不特定多数の誰かの裏切られた期待たちが一斉に湧き上がって、空から驟雨のように俺に降りかかる。そんな景色を想像する。


 数年後、思わぬところで再開、なんて期待がいつまでも続けばいい。絵空事をいつまでも描き続ければいい。汚いものを美化して、出来上がった絵空事に化粧を施して、メガネを掛けさせて、ピアスを付けて、リングをはめて、宝石をぶら下げて、もっともっと綾なして綾なして、理想を超える理想を創り上げる。


 それをあなたは汚らしいと呟くのですか? 無秩序で陰湿だと嘲るのですか? 自分自身との対話に、横で流れるように歩く蟻たちが「何それ」と独り言を吐き、何も知らない他の蟻たちが、大きな女王蜂のように見えるようになってしまうなんて馬鹿らしいと思いませんか?


 死ぬまで続けばいい。そのまま女王蜂の針に殺られて死んでしまったら、それで終わりなのだから。


 まだ、彼女の顔は消えない。明日には消えているかもしれない人の顔を何度も思い出す。胸が隠れるほど長い髪。そこの間から真っ白い顔が。目が。唇が。いつかと同じ深いお辞儀と共に、慈しむ暇もないほど彼女は俺の前から消え去った。


 でも気がついてしまう。俺の思っていた彼女は、勝手に俺が創り出した幻想なんだって。彼女のことなんて何も知らなくて、俯きがちの顔を見ただけで勝手に自分の類の中へと入れてしまっていたって。


 淡くも薄くも靡かない濁った波が、ゆらゆらとは揺れずに俺の胸へと押し寄せてきた。


 勝手に想って、馬鹿になって、それも正しいんだと思って、でもいつもすぐそこにあった彼女の肩に手を掛けられなくて、やっと決心したら、し損ねて、本当の彼女の姿にただりつく。


 欲しい欲しいと思っていたものは、描いていた理想よりもずっとずっとずーーっと薄くて、水が絵の具に溶けたような考えられない薄さだった。


 欺瞞は溶けて、心を苛む。


 彼女は何を思っていたのだろうか。俺のことは嫌いだったのだろうか。お得意の社交辞令だったのだろうか。


 別れは皆無。だが、時間をくれる。その時間をどう使う? 何を考えようか。彼女の想いを探ってみようか。もうそこにいないのに? 眺めていた日々は懐かしい。愛おしい横顔が、時折見せる独りの顔が。もう見られない。


 何かを伝えてみようか。言葉で? それも違う気がする。荘厳な言葉や語彙力が帯びた言葉、ありふれた言葉も違う。伝えたいのはいつも言葉じゃなかった。でも、言葉にしないと伝わらないし、本当は何を伝えたいのかすらわからない自分が、ずっと隣に座りながら一緒に歩いてた。


 変なプライドや理想の自分が俺の前を遮っていて、無駄に余計な考えが頭の中を満たす。そのせいでって言いたいところだけれど、実際、動けなかったのはいつも自分。「それでいいんだ」「いつか忘れる」。そう結論付けて彼女から逃げようとしたけれど、気がつくと、大抵彼女のことを考えている。暇があると彼女の顔が浮かぶ。別に暇じゃなかったらそんなに浮かばない。暇になって、何か考えなきゃと勝手に頭が回って、彼女の顔と俺から見えた視界の背景が幾度となく幾千にも澄み渡った。


 その出会いに意味を定義付けるのは的外れな考えだろうか。

 少なくとも俺は思っていたいなんて綺麗な言葉では片付けたくない。

 手際よく美しくするなんて、俺には似合わない。


 出会いは何を与えるのだろう。別れは何をくれる? 出会って過ごした時間は何を意味するのか。神様は無言で語りかける。


 意味のない時間を神様は与えるだろうか。はたまた、もしかしたら俺自身にゆだねられていたのかもしれない。


 そんなことを毎日考えている。


 何も知らないことがどれだけ幸せでどれだけ残酷なことか。挫折して、涙目になって、どうしても諦められなくて、崩れてしまいそうな勇気の灯をポッと照らしたならば、一瞬にして細い煙が立ちのぼる。


 今まで信じていたものや、それらを否定するように捨てるっていうのは、結構難しくない? でも、捨てられたときに人は成長して、自分を受け入れられる。


 それでも、今の俺ならかろうじて信じていられる。前世があるとしたら、前世の俺はそうではなかった気がするのだ。でも、時間が俺を変えた。というよりは、自然と変わっていった。あるべき方向へ成るように。その材料が、出会いや別れ、その瞬間、期間に起きた出来事感情感性だと。変わりきって、やっとそれらが意味を帯びる。目先のことにばかり目を向けて、結果をすぐに手に入れようと焦って、「無駄じゃなかった」と、そうなったその瞬間を、待ちきれなかった俺が馬鹿だった。まあ当然その瞬間が訪れないこともあるというのは、言うまでもないのだけれど。結果論でしかないね。



 もし君しか見ていなかったら、足を止めて愚直に向き合えていたら。今、この先で君と出会えていたのかな?


 想いが、あなたが、自分自身が、彩って俺を作る。今更だけれど、気づいたらこれだけが、胸を張って言える大事なものになってた。


 君なんかじゃなく、キミなんかでもなくて、きみたちでもなくて、結局漠然と思い浮かべながら過ごしてきた俺が好きだったのは。


  最初からあなただった。

  あなただけが支えていた。

  あなただけが覚悟だった。

  あなただけが言葉にできた。

  あなただけが明瞭だった。

  あなただけが声をあげていた。

  あなただけが伝えていた。

  あなたが側にいた。

  あなたに、俺が、伝えたかった。確かめたかった。



 声に出せば届くなんて甚だしいよ。

 隣に居れば伝わるなんて驕りだよ。



 いつか死んじゃうから。戸惑いさえもカタチにできたら、乗せていけたら。



 寂しいじゃんか。




 特別になった日。暗号が簡単に解けた日。後から追ってくる焦燥。もう遅い。後悔。大切さの量り。ただただ、あっけなく終わっていった時間と、出会いと、声と、手と、表情と、込めた熱量と、それらの意味は何だったのだろうか。


 答えはもう見えている。



深読みしましょう。私と共に。

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